未来へ…
「これって、なんのき?」
ぼくのいえにあそびにきていたみらいちゃんが、ぼくのいえのにわにある、ぼくよりすこしせがたかいきをゆびさしていいました。
「『マサキ』っていうんだよ。ぼくのなまえとおんなじ。ぼくがうまれてきたときに、おとうさんがうえたんだって」
「へえ」
みらいちゃんはそれだけいうと、さっきまであそんでいたうさぎのおにんぎょうさんとたのしそうにおはなしをはじめます。
「ねえ、うーちゃん。まさきくんのいえにね、『マサキ』っていうきがあるんだって。ふしぎだねー」
うーちゃんとよばれたうさぎのおにんぎょうさんのてをふりながら、ふしぎだねー、とえがおではなしかけるみらいちゃんをまえに、ぼくもふしぎとあたたかいきもちになりました。
このきもちがいったいなんなのか、5さいのぼくはまだしりません。
6さいになり、ぼくとみらいちゃんは、小学校に入りました。ほいくえんにいたころとちがって、いろいろと学んだりおぼえたりすることは大へんだったけど、あたらしいともだちもできました。
ともだちとは、学校やおうちでもいっぱいあそびます。はやりのゲームをやったり、たまにちょっとしたいたずらをしかけては、しかられたり。うんどうかいの百メートルそうでどちらが先にゴールするかきそったり、学しゅうはっぴょうかいでおもいっきりこえをはりあげたり。
それでも、ぼくと一ばんなかよくしてくれるのは、みらいちゃんでした。いつも学校からかえるときは、歌を歌いながら、手をつないでかえります。はれの日も、雨の日も。そうして、一年生から二年生になろうとしていたはるのある日のかえりみち、ぼくはいつものようにみらいちゃんとはなしていました。
「ねえ、みらいちゃん。しょうらい大きくなったら、なにになるの?」
「大きくなったら? そうだなあ……」
かえりみちをあるきながら、みらいちゃんはこまったような、それでいてたのしそうなかおつきでかんがえこみます。そして、ふとぼくのほうへとかおをむけました。みらいちゃんのかおは、いままでに見たことがないぐらいのえがおでした。
「きめた。わたし、まさきくんのおよめさんになる!」
「ええっ」
みらいちゃんのこたえに、ぼくはおもわずおどろきました。ぼくはてっきり、かんごしさんやアイドルとか、そうこたえるとおもっていたから。
だけど、ぼくのおよめさんだなんて。こうもはっきりいわれて、ぼくはすごくはずかしかったです。だけど、みらいちゃんもはずかしかったのか、かおがほんのり赤くなっていました。だけどかまうことなく、みらいちゃんはぼくのかおをじっと見つめます。
「だって、わたしまさきくんのことすきだもん。まさきくんは、わたしのこときらいなの?」
「ううん、そんなことないよ。ぼくも、みらいちゃんのことすきだよ」
「ほんとう? うれしい!」
みらいちゃんはそういうと、さくらのようにきれいなえがおをぼくに見せてくれました。それを見て、ぼくはなんだかうれしくなりました。
ぼくは、みらいちゃんのことが大すきです。きらいではありません。
だけどぼくは、この「すき」のいみを、まだはっきりとしりませんでした。
10才になりました。ぼくと未来ちゃんは、小学五年生になりました。
このころになると、ぼくと未来ちゃんは、以前のように一しょに帰ることは少なくなりました。いつごろからだったのか、もう思い出せないけれど、どちらからともなく自然にそうなったことだけは覚えています。
学校の勉強は、次第にむずかしくなっていきます。英語も、少しずつ学びます。それとともに、先生が話すこともいつしか社会全体の仕組みに関する、現実味を帯びたものになり始めました。
それでも、ぼくと未来ちゃんの仲は悪くなったわけではありません。昔と比べて話す機会は減ったけど、ぼくは未来ちゃんが今でも好きです。だけど――自分でもどうしてだか分からないけれど、未来ちゃんのことを考えると、ぼくの心の中はもやもやした気持ちになります。何か大事なものを置いてきたかのような、あるいはわすれてしまったかのような。それを思い出そうとすると、余計にもやもやした気持ちになって、苦しくなりました。
このころのぼくは、絵をかくのが好きでした。絵の具を使って、目の前の景色や友達、家族の顔をかいたり、時にファンタジー小説に出てきそうな世界をかいたり。それをだれかに見せたら、未来ちゃんをはじめ、みんながほめてくれました。そのことがうれしくて、ぼくは絵をかくのに夢中になっていました。
秋が深まったある日、夏休みの宿題でかいたぼくの絵が、小学生部門でのゆうしゅう賞になりました。それを聞いたぼくは、おどろきとうれしさのあまり、将来は画家にでもなろうかと、ばく然とではありましたが思っていました。
「正季くん、ゆうしゅう賞おめでとう」
放課後、学校からの帰りがたまたま一しょになった未来ちゃんが、まぶたを細めながらぼくに笑いかけてくれます。帰りの会で先生が半ば大げさに発表したことに比べ、おさななじみの未来ちゃんが言ってくれたじゅんすいなほめ言葉は、ぼくの心に深くしみわたりました。帰りの会でみんなに知れわたってしまったときのはずかしいような気持ちが、きれいさっぱり消え去っていきます。
「ありがとう、未来ちゃん。そう言ってくれて、うれしいよ」
「当たり前だよ。だって、正季くんは、わたしの――ううん、何でもない」
未来ちゃんが、何かを言いかけて、小さくかぶりをふります。ぼくは、未来ちゃんが何を言おうとしたのか気になりましたが、それをたずねる前に、未来ちゃんのくちびるがぼくの右のほっぺたにふれました。ほんの一しゅんだけだったけど、未来ちゃんのくちびるの温かさがぼくの身体へ直に伝わり、身体が一気に熱くなりました。
「これは、賞をもらった正季くんへ、わたしからのごほうび。このこと、だれにも言っちゃダメだからねっ」
顔を真っ赤にしながらそう言うと、未来ちゃんは先にかけ出していきました。取り残されたぼくは、だんだん小さくなる未来ちゃんのすがたをだまって見つめながら、ほのかに熱が残る右のほっぺたにそっと手のひらをあてます。その時のぼくは、もやもやした感覚はみじんもなく、代わりに心ぞうが今にも飛び出してきそうなぐらいに高鳴っていました。
小学六年生になり、ぼくも未来ちゃんも、12才になりました。
卒業式まで、あと一か月とせまっています。卒業したら、公立の中学校へ進みます。十二月に中学校の見学に参加したときは、これまでの小学校の授業とはまったくちがう授業内容に不安を感じる一方で、美術部を見学できたことはとても大きかったと思いました。さまざまなちょう刻や絵画の写真が並ぶ中で、部員たちが一心に作品づくりに加わっている姿を前に、ぼくは強い興味をひかれました。
中学校に入ったら、美術部に参加して、たくさんの絵をかいて、いつかはみんなの心をひきつける素晴らしい作品を完成させたい。卒業を間近にひかえながら、ぼくはそんな思いをいだいていました。
まだ寒さが残りつつあった二月の終わりのある日、未来ちゃんが一しょに帰ろう、と言ってくれました。未来ちゃんとぼくは、たがいに顔を見るたびに、あの日のキスを思い出してしまい、なかなか話もできない状態が続いていました。そんな中、未来ちゃんが自分から話しかけてきたのに対し、ぼくは最初戸まどいこそ覚えましたが、それよりも素直にうれしかったのが上回り、その日は久しぶりに未来ちゃんと一緒に帰ることにしました。
「ねえ、正季くん。わたしね」
帰り道、話すことが何もないまま少し歩いたところで、未来ちゃんがゆっくりと口火を切りました。ぼくは、そんな未来ちゃんの言葉へと耳をかたむけます。
「……わたしね、遠い所へ行くことになったの。パパが転勤するのに合わせて、家族で引っこすんだ。だから。正季くんとは、卒業式の日で、お別れになっちゃうの……」
そこまで言ったところで、未来ちゃんの目からなみだがこぼれてきました。それを皮切りに、未来ちゃんはそのまま泣き出してしまいました。ぼくはというと、どうやって未来ちゃんをなぐさめるかを必死に考える一方で、未来ちゃんがいなくなってしまう事実を受け入れられず、半ばぼう然としていました。
ぼくの頭の中で、未来ちゃんとの思い出や交わした言葉が思い起こされます。それらを一つ一つ思い出していくたびに、ぼくも未来ちゃんにつられて一しょに泣き出しそうになりました。
「ねえ、正季くん。覚えてる? 一年生だったころ、わたしが言った将来の夢」
未来ちゃんが、なみだ声でぼくに問いかけます。ぼくは、その時のことをゆっくりと思い返しながら、小さくうなずきました。それとともに、ぼくの頭の中で、その時の会話がせん明によみがえりました。
――きめた。わたし、まさきくんのおよめさんになる!
――だって、わたしまさきくんのことすきだもん。まさきくんは、わたしのこときらいなの?
――ううん、そんなことないよ。ぼくも、みらいちゃんのことすきだよ。
――ほんとう? うれしい!
そこまで思い出したところで、ぼくはふと気づきました。
ぼくがこのとき口にしていた「好き」って何だったんだろう? およめさんになる、と宣言していた未来ちゃんを前に、ぼくはちゃんと本当の意味で向き合えていたのか? 好きなのは、友達として? それとも――。
昔の自分に対するさまざまな感情が次々にわき上がり、ぼくは気づいたら未来ちゃんと同様、その場に立ちつくして泣いていました。ぼくたちは、陽が暮れる寸前まで、人目もはばからず泣き続けました。
家に帰ってから、ぼくは寒い夜空をただじっと見つめていました。親が作った食事もほとんどのどを通らないまま、空の先にある、名前も知らない星をながめていました。
ぼくがこんな所でくよくよしていても、未来ちゃんがいなくなってしまうことに変わりありません。こんなことをしている場合ではない、ということはぼく自身もよく分かっています。けれど、あまりにも突然すぎた。有り余っていたかに思えた時間が、ぼくをじわじわと苦しめます。
いったい、ぼくは未来ちゃんに何をしてきたんだろう。そして、ぼくから未来ちゃんにできることって何だろう。そうやってまん然と考え続けていたぼくの視界のはしに、マサキの姿が映りました。自分と同じ名前を持つその木は、夜やみの中でもくっきり分かるだ円形の葉をあちこちにめぐらせ、冷たい空気をたえしのんでいました。
ぼくとほぼ同じ時間を生きてきたマサキは、にょきにょきと成長を続けていました。先月に赤い実を付けたばかりのそれは、未だたくさんの枝葉をかかえ、これから訪れる春に向けて準備をしているようでした。
対してぼくはどうだろう。ぼくはあのマサキとちがい、どこかで伸ばす枝を間ちがえて、昔とはまるっきり異なる姿になってしまっていた。にょきにょき、にょきにょきと、背たけだけが伸びた、ただのデクノボー。こんなはずじゃなかったのに。大好きな人の前で、無力な自分をさらしてしまっただけだった。
夜のはだ寒さが身に染みてきました。寒さにたえられず、ぼくは自分の部屋へもどると、すぐさま暖かい布団を頭からかぶります。こうしていたら、何もかも忘れられるような気がしました。ずっとかかえたままのもやもやも、そのうち消えてなくなるんじゃないかと思いながら、ぼくは顔だけを外に出しました。
すると、ぼくの視界に、かきかけの画用紙が置かれていました。ピカソのオマージュとも、サル真似ともつかないえん筆画をしばし見つめていたぼくに、一つの考えがうかびます。とっぴょうしもないけれど、それが今の自分にできることだと信じて。
そう感じたぼくは、居ても立ってもいられず、身体を包んでいた布団からぬけ出しました。
卒業式は、つつがなく終わりました。六年間さまざまな思い出があるこの学校をはなれるのは、にわかに信じられない思いもあったけど、それでも式が終わってみれば、ああ、自分は中学生になるんだな、という実感もわいてきます。そうやって、人というのは新しい一歩をふみ出していくのかな――何となくそんなことを考えながら、ぼくは未来ちゃんの元へと向かいます。ぼくの思いを、最後にちゃんと伝えるために。
「未来ちゃん!」
学校のろう下をゆっくりと歩く未来ちゃんを見つけて、ぼくは早歩きで未来ちゃんに近づきます。未来ちゃんもぼくの呼ぶ声に気づいて、ぼくの方に顔を向けました。未来ちゃんの目には、うっすらとなみだがたまっています。
「今日で、本当にお別れなんだね」
「うん……」
どこかへ視線を泳がせながら、未来ちゃんが答えます。卒業証書の入ったつつを力強くにぎり、胸の前へと寄せて。ぼくはそんな未来ちゃんを前に、今までと変わらない調子でしゃべります。変に着かざらないで、ありのままに。
「未来ちゃん、わたしたいものがあるんだ。ちょっとだけ、いいかな」
「えっ」
そう言って、ぼくは未来ちゃんの手をそっとつかみ、歩き出します。未来ちゃんがぼくに何か言いたそうに、口をもごもごと動かすのを横目に、ぼくと未来ちゃんは教室に入りました。そこで未来ちゃんの手を放し、ぼくは自分の机に向かいます。今日のために持ってきた一枚の画用紙を手に、ぼくはあらためて未来ちゃんへと向き直ります。
「未来ちゃん、これ、ぼくからのプレゼント。ちょっと下手かもしれないけど、未来ちゃんをかいてみたんだ」
ぼくはそう言って、未来ちゃんへ画用紙を手わたした。画用紙には、色えん筆でかかれた未来ちゃんが無くな笑顔を見せていた。画用紙の中を無言で見つめていた未来ちゃんは、少しの間をおいてから、くすっ、と小さく笑う。
「なに、これ。わたし、こんな変な顔じゃないよお」
「そ、そうかな。けど、リアルにかこうとしたら、割とこんなものだよ」
「うーん。でも、うれしい。ありがとう」
なんだかんだ言いながら、未来ちゃんはぼくのかいた絵を受け取ってくれました。それだけで、ぼくは何だか気持ちが楽になりました。今なら、ぼくの気持ちを未来ちゃんへ伝えられます。
二人だけの教室で。温かい春の風が、教室内を優しく通り過ぎていきました。
「未来ちゃん。今までちゃんと言ったことがなかったけど、ぼく、未来ちゃんのことが好きです。いつか、ぼくのおよめさんになって下さい」
通り過ぎていった風が、ぼくの服のすそや、未来ちゃんのかみの毛をゆらしていきました。未来ちゃんは、かみの毛を左手でそっとおさえながら、ぼくの顔を見つめています。すると、一筋のなみだが、未来ちゃんのほっぺたを流れていきました。
「正季くんが言わなくたって、わたし、ちゃんと分かってたよ。だって、わたしの夢は、正季くんのおよめさんになることだもん」
流れるなみだを右手でぬぐってから、未来ちゃんはぼくに笑いかけてくれました。それは、ぼくが今までに見たことがない、最高の笑顔でした。
未来へ…/Fin.