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この作品には 〔残酷描写〕が含まれています。
苦手な方はご注意ください。

幸福な報復

作者: セキムラ

 今日も愛車――納車から三年経過した巷でよく見かける国産ハイブリッド車――に乗り込み、職場を目指す。

 空は雲の絨毯で覆われていて、霧のような小雨が西風にのってフロントガラスを静かに湿らせていく。日本の東の海上に発生した低気圧が、扇風機のように北の寒気を送り込んでくるおかげで、気温は例年の九月の終わりと比べて三度も低い。

 土曜の朝は、平日に比べて車の数もまばらである。

 見通しの良い道を制限速度プラス十五キロ程度で軽快に進む。そのくらいアクセルを踏み込んでいても、ドライブモードは常にエコモードだ。二週間前に給油したが、ガソリンメーターは一つしか減っていない。

 ハイオク推奨の高級車やスポーツカーを購入したことがないので、ハイブリッド車に乗り換えてから浮いた金などごくわずかに過ぎない。しかし毎日の習慣――本来苦痛でしかない通勤ですら、家計を助ける何かに繋がっていると思うと少しだけ心が軽くなる。実際、電車通勤をするより交通費が安いのだ。我が雇主も喜んでくれているに違いない。私は、自転車通勤を隠して交通費を請求する様な輩とは違うのだ。

 私の気分を後押しするかのように、車内ステレオから流れるディキシーランド・ジャズがアップテンポの曲に切り替わった。

 それにしても、車が少ない。

 現在、信号待ちをしているのは私の車だけだった。

 この道路は海洋テーマパークやアウトレットにも繋がっている。休日であっても高速の出口付近は午前十時を過ぎたあたりから混雑してくるものだ。私が通勤している時間帯でも家族連れが乗り込んだ車が数台くらいは高速を降りてくるのが常だった。あいにくの天気で、休みであっても朝から出掛けようとするものもいないのだろうか。

 交差する道路を何台か、輸送会社の社名を刻んだコンテナを乗せたトラックが過ぎてゆくのをぼんやりと眺めていると、私の眼がバックミラー越しに急接近してくる車影を捉えた。

 愛車の後方に、軽快な音楽をかき消すエンジン音が迫る。

 黒光りする、ポルシェカイエン。デビューしたばかりのモデルで、値段は軽く二千万を越えているやつだ。

 運転者は白いものが多く混じる髪を後方へ撫でつけた男性だった。

 大きめのサングラスをかけ、ガムを噛んでいる。同乗者はいないようだった。

 ナンバープレートを見れば「成城」である。

 高級住宅が立ち並ぶ都会からやってきた高級外車。

 曇りなのにサングラス。

 目を凝らしてみれば、彼が身に纏っていたのはおよそ仕事に向かう人間が着用すると思えない季節外れのアロハシャツだった。

 真っ先に浮かんだのは「コテコテの成金野郎」という感想だった。

 もちろんこれだけの材料で、カイエンを運転する初老の男性の人物像を、ましてやその性格の良し悪しを推し量ることなどできない。仮に、彼が私の予想通りの高給取りであるならば、そのような階級の人々が支払う国税の額は私の様な人間とは比較にもならない。彼らが月々支払う税金の方が、私の年収より多い場合だってあり得るのだ。

 金持ちであることを隠そうとしない――別に隠す必要もないのだが――連中を目にしたとき、どうしても湧いてくる嫉妬に押しつぶされそうになったとき、私は次のように考えて気を落ち着かせることにしている。

 もしも私が生活保護制度の御厄介にならざるを得ない日が来た時、その一部は彼らの様な高額納税者のおかげで成り立っているのだ――と。

 年金、医療費、介護福祉。

 税金がなければ立ち行かない国の事業はいくらでもある。

 実際のところはごく一部の裕福な連中より、一般労働者が納める税金の方が国を支えているに決まっているではないかとも思うが、個人同士で比べた場合、納税という部分において彼と私の社会的貢献度はまるで違うだろう。

 そういうわけで、高級住宅地に住み、いけ好かないファッションで高級外車を乗り回しているからといって、彼を不当に卑下することはできない。


 信号が青になった。ゆっくりとブレーキペダルから足を離して――


 クラクションを鳴らされた。


 仕方あるまい。急発進してガソリンを浪費したくない私の貧乏根性が悪いのだ。

 申し訳ありませんポルシェ様。

 車は発進していなくともブレーキランプが消えた時点で、私は信号が変わったことに気がついていたというアピールになるのですが、庶民のささやかな節約行動なんて、あなた様の眼には怠慢としか映らないのでしょうね。

 私は慌ててアクセルを踏み込み、急発進した。

 緩やかなカーブを描く道路に、文明の粋を集めたエンジン音が響き渡る。カーステレオの音声も、愛車の貧弱なモーター音もかき消されてしまった。


 ち、近い。


 近いです! カイエン様!


 追突されてはたまらんと、さらにアクセルを踏み込んでいく。まるで高速に入るための予備加速かというほどに。

 にわかに汗ばむ手でしっかりとハンドルを握り、霧雨に濡れた道路でスリップしやしないかと冷や冷やしながら速度メーターを見る。


 73㎞/h。


 馬鹿な! 


 ここは制限速度40㎞/hだ。


 デジタル表示が私に容赦なく現実を突きつける。仕事熱心な警察がいたら私まで違反切符を切られてしまう。あの高額所得者はいったいなんのつもりなのだ。片側一車線でチキンレースを挑んでいるわけでもないだろう。


 バックミラーには苦々しげに顔を歪めた高額納税者様のお顔があった。


 ああ、恐ろしや。


 そうだ、路側帯に入って追い越してもらおうと考えた私は、なぜか交通量の多い対向車線に目をやって舌打ちした。これでは左に車を寄せたくらいでは追い越してもらえない。左ハンドルの高級外車様からは右側の交通状況を把握しにくいはずだ。


 金持ちは優雅に暮らしているなんて幻想だ。


 そもそも、なぜ彼はこんなにも急いでいるのか。そう考え始めた時、私はこのような仮説を思いついた。

 なぜなら、相当な稼ぎを得るためには、それに見合った労働が必要なはずだからだ。彼はきっと大事な商談でも控えているに違いない。土曜日だというのにご苦労様でごぜぇますだ。


 さらに私は、彼の様な金持ちが何故高級住宅に住み、高級な調度品を揃えてしまうのかについても考えてみた。

 ご先祖様に残してもらった資産に頼っているだけの金持ちや、連続保険金殺人の犯人でもない限り、金を得るために人は努力しているし、そこに到達するまでの人生すなわち学生時代にも相当な研鑽を積んできたに違いない。

 希少な岩石をはめ込んだ無駄に広い玄関や、性能だけならお値段以上の価値がある家具量販店のものでも変わらないだろうに、デザインがどうたらいう理由で法外な値段を吹っかけているとしか思えないソファーも、彼らの努力に対する報酬なのだ。

 私はといえば、給与を貰ったらまず各種支払と老後のための貯金を差し引いて、今月は何回飲みに行けるかなどと考えて項垂れてしまうような人間なのだ。無論、学校と名の付く場所では遊び呆けて生きてきた。そのツケが回ってきたと後悔する様な暮しは送っていないつもりだが、私の収入では生涯高級車を乗り回すような生活には手が届くまい。

 私はもう一度バックミラーを見た。私が急ブレーキを踏めば、確実に追突されるという距離に努力家の車が迫っていた。

 なんとか彼を先に行かせたい。

 視線を前方へ転じると、通常の倍近い速度で走っているためか、すぐに次の交差点の信号が飛び込んできた。


 ぐお! ここで黄色か!?


 背後でポルシェカイエンのエンジンが唸りを上げた。


 なんと、ブレーキは許さぬと申されるか!?


 し、しかしそれはあまりに無謀! このまま交差点を突っ切れば、私はまだしも貴方は確実に信号無視!


 どうする。すでに大幅な速度超過という罪を彼は犯している。ここへきて信号無視が加われば、彼の社会的立場が危うくなってしまうのではないか? そうだ、彼が医者だったらどうする? 医療者が交通事故を起こしたりすると、免許をはく奪されてしまうと聞いたことがある。


 こんなところで高額納税者を一人失ってはならない。国益を守らねば。


 私は大義のため、ブレーキを踏んだ。


 クラクションを鳴らされた。


 どうかご容赦くださいませ、ポルシェ様。停車中にいくらでもミラー越しに睨んでいただいて構いません。ですが、危険運転などというつまらないミスとしかいえないようなシミを、あなたの経歴に残すわけには参りません。


 黄色信号が消えた。


 赤が点灯するかしないか、その瞬間に、私はアクセルを踏み込んだ。


 ギリギリのタイミングで交差点を通過する。


 バックミラーには唖然とした顔の高級外車の運転手。


 これぞ信号置き去りの計。


 馬鹿たれが。


 高級車に乗っているからと調子に乗るからだ。


 やーい。




 二日後。


 いい気分で週末を過ごし、月曜日に出社した私は社長から呼び出された。その時初めて、彼が成城に居を構えていることを知った。





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[良い点] オチのビターテイストに何とも表現し難い気分にさせられました
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