マリア 2115年
2115年――8年前にその発端があった。季節は冬。もちろん月に季節は無い。ドーム内では地球の環境を模した気候を人工的に作り出す。
その時リオンはアカデミーの研究室を久しぶりに出て、街を歩いていた。
石畳にアスファルト、立ち木に細長くて高い街灯……そこには全く機能的ではない設備が意図的に建て並べられている。時間は日没後の17時頃。すっかり暗くなった時間帯。
街灯やショーウインドウから漏れる明かりが人々を照らし、道端を歩く人影すらもくっきりと浮かび上がらせている。
リオンはその場所を一人で歩いていた。他の人々の表情から受ける印象とは違い、ここを歩く事によって特に心が休まる感覚が生まれるわけでも無い。
さらに歩いた。急ぐわけでもなく、ゆっくりとあたりを見物するでもなく、その歩調は全くの義務的のように見えた。
歩きながら彼は考えていた。研究室で交わされる現在の課題に関する話題、それが完成した際に組み込まれる講義の内容、その内容が社会に求められているかどうかの議論、将来性。その次に取り組むべきテーマについて。
リオンにはあまり関心が無い事柄だが、それらはアカデミーの存在意義を示すために推進すべき重要な案件である事は良く分っている。
曇ったように見える暗い空と、冷たく調整された空気の温度の事を考えた。地球の事、そして今自分がいるのは月であるという事。
リオンは月を愛したことが無く、地球に寄せる関心も冷えていた。
父が死に、母が後を追ってしばらくになる。二十四歳という年齢にしてはリオンは何事にも無関心だった。
何事にも冷めた態度を取り、友人は一人また一人と彼のもとを去っていった。彼らが自分のことを何と言っているのか察しはつく。友を失うのは大したショックではない。
滅多に表情を変えることが無く、感情を表に出すことにけだるさを覚える。それが受け入れられないのは当然だと思う。割り切ってはいるが、時として何かやり切れない敗北感に襲われる事もあった。
朝のニュースを思い返す。
火星に起こった一連の反乱に連邦警察機構が武力を行使したと伝えていた。
その次に、人工知性体。いわゆるアンドロイド製造に対して人権擁護に関する法律が検討されていると報じられた。
アンドロイドの、特に産業界での人工頭脳に関する研究は徐々に廃れ行く傾向を見せている。
ロボットに代わる有用性が不在であると言う指摘がなされてからというもの、産業や政府はその分野に予算を注ぎ込むことをやめてしまったからだ。
リオンは一度、課題提出のためにコンピュータを使って簡単な電子頭脳モデルを作成した。それは外的要因に対して『動く』という事以外には何の役に立つこともなく、同じデータ構築でモデル作成するならばロボットとしてあらかじめ決まった動きを設定して、それを複雑化させてゆくほうが確実で簡単だと考えた。
何よりもロボットは理由のない誤りを起こさない。それを理解したうえで、それでもリオンは人工頭脳の研究を続けていた。
両親を巻き込んだ事故。原因は機械の故障であったと知らされた惨事。リオンは科学者としてその事故の原因を分析した。そして心の内にある複雑な感情が沸きあがって来るのを自覚した。
事故の調査結果はすでに明確にされており、その因果関係には疑う余地も無かった。それを踏まえたうえでの事故の原因は、そのものの見方を変えれば、機械が故障内容通りに忠実に作用した結果であるのだと思い至った。
両親を失い失意のどん底にあるとはいえ、そのようなひねくれた考えが浮かんでくるのもまた自分自身であると納得し理解しようと苦しんだ。そう考え続けないと悲しみに押し潰されそうで恐ろしかったのだ。
事故も、引いては整備不良などの人的ミスに帰結するものであろうが、世の中には機械的な確実性を求められる中で絶対になくならない不確定要素が今もって介在している。
その不確かなものを認めたうえで機械を信頼するしかないこの現状に、改善の余地というものはどれほど残されているのか。
その不確定要素を無くす事は出来るのだろうか。おそらく無理だろう。だったら、利用すればいい。しかしどうすればそれを利用できる……。
ロボットは理由のない誤りを起こさない。では、理由ある過ちを犯すものはロボットではないのか……それが知性だとすれば、知性の有用性は絶望的である。だが考えてみれば、ロボットを作ったのは人間の知性であり、知性によって人類は繁栄し宇宙にまでその活動の場を拡げたのではないか。
ふと彼は足を止めた。あっという間に迫る冬の夜は空を覆いつくし、それに抗うように街の明かりは輝きを増している。
想いが胸をよぎる。
それは暖かい光に包まれた、自分が子供だった頃、両親と一緒に過ごした記憶の一片であった。子供の頃の夜は、外は暗くても家の中にさえいればいつでも暖かく明るいものだと信じられた。
遠いその記憶を外側から覗き見る羨望にも近い感覚を、今は持っている。
何故そのような感覚に陥ってしまったのか自分でも分らない。
両親を失って、誰も待っていない誰も帰ってこない薄暗い自宅に帰り着いた時の孤独感から来るものなのか。
一瞬のうちに襲い来る種々の感覚に困惑していたその時、歩道の脇で建物の中を、ショッピングウインドウ越しに眺めているとある女性の姿が目に入った。
リオンと同じくらいの年齢で、若く美しい横顔だった。艶やかな黒髪が肩口まで伸び、体つきはしなやかさが伺える均整の取れた細身の体型。空気の温度に合わせた厚着をしているがその線はひと目で分るほど美しく、張り詰めてもなく不規則でもない、一定のリズムのようなものがそこにあった。風景の一部のように表情を変えることなくいつまでも動かない彫像のような姿はしかし冷たい印象を与えることがなかった。
彼は興味を持って一歩二歩と彼女の側へ近付こうとしていた。
「マリア」
彼の背後から声が掛けられた。しばし見つめていた幻想が形を変える。
彼女がリオンのほうへ顔を向けた。彼の背後の声の主――恐らく彼女の母親だろう――へ向かって振り向くと嬉しそうに駆け出す。
お母さん、とすれ違いざまに声を発した、子供のような無邪気な笑顔。
彼女が去った後、リオンはしばらく立ちつくしていた。たった今起こったささいな出来事を何度も思い返していた。
『あれは一体何なのだろうか』『あれは何処から来たのだろう』『あれは普段、どんな暮らしをしているのだろう』『何を考えるのだろう』『何を見るんだろう……』
無意識に研究所内にある自室へ向かって歩き出していた。研究所の関係者が生活をしている棟の一室にある我が家。道のりは遠かった。その間中、リオンはずっと考えていた。
……マリア、古臭い名前だ。月へ旅行で来たのか? 月で生まれたのか? マリア……呼ばれて振り返った。それは彼女にとって聞きなれた名前、聞きなれた声、恐らくそのどちらでもあるだろう……彼女の母親、彼女を育てた。マリアと名付け彼女を育ててゆくその間もずっと彼女は美しかったのだろうか、明るかったろうか。
幼い頃の姿は想像できなかった。彼女の姿は、彼にとっては常にあのままで残っていた。機械のような正確さではなく、温かさがあった。感情を持ち、自分で考え、行動する。気の向くままに立ち止まり、そして笑い、走り出す……。ほんの一時あらわれて、そして消えた。彼はイメージの中に妖精の姿を捉えた。いくら熱望しても手に入れる事は出来ない。何故ならそれは幻だから、自分で考え行動する幻想。全く思い通りにならない……。
それから数ヶ月が経った。その頃にはリオンは彼女の事をすっかり忘れ去っていた。ルーチンワークに近い数々の研究が幻想的イメージを払拭してしまった。
*
2年後、彼は人工頭脳製造に関する設定構築分野での専門課程を修了しアカデミーを卒業した。26歳、若い盛りを過ぎて衰えを感じるにはまだまだ早い年齢だった。
気が付くと研究所施設を出て、街へ赴いていた。創られた街……歩道を歩きながら思い出そうとしていた……「あれはいつだったろう?」
空は鉛色で空気はとても冷たかった。今日ほどには人通りの多くなかったこの場所で……そう、夜だったから。そしてあの建物、そこに彼女がいた。彼女は何ていう名前だっただろうか……。
彼はその瞬間に、あのとき自分が何をしたかったのかということに思い至った。
「簡単な事だ!」彼はいつまでも自答した「そうだ、その通り。分っていたことじゃないか! だから自分はそのためにここへ来たし、そのために帰るのだ――」