イマジナリーフレンド
「おはようマリー、今日もいい子ね。パパは少しだけ機嫌が悪いの、朝はいつもこうなのよ」
マリーは毎朝、鏡に映った自分に話しかける。
マリーは鏡を見るのが好きで、鏡に向かい色々な表情を作っては楽しんでいた。それを見ていたリオンは、鏡に映った自分へ挨拶するささやかなお遊びをやってみせた。マリーはそれをとても気に入って毎朝の習慣にした。
それからリオンは、もう随分と前から使わなくなっていた古い通信用タブレットを持ち出した。スタンドを立ててカメラモードを起動すると、正面の画像が映る。簡易的な卓上ミラーとしてリビングに置いた。
その画像を録画して再生する。さらにテレビ用の大型モニターへ転送して大画面で映してみる。映像になった自分を見たマリーは面白がって喜んだ。自分の表情や仕草を繰り返し見たり大画面で見て楽しんだ。
リオンはマリーの成長記録を撮る事に関心は無かったが、マリーがそのタブレットをおもちゃとして使った際に残った録画データをそのまま残しておいた。
身体的な成長の無いマリーをビデオに収めて行く事はあまり意味の無い事だと考えていたのだが、この頃ではいつかこの日々を懐かしむ時が来るのかもしれないとも思うようになった。
マリーの成長は随分と緩やかになった。しかしこれは能力的なものではなく、専ら教える側の時間的事情によるもので、マリーがその速度に合わせた学習を行っているためだと考えられる。
マリーは『我慢』を覚えた。彼女にとって、教えてもらう事は楽しい遊びなのだ。
脳から発せられる欲求は、知りたいということが主だったものである。そのためにマリーは何でも知りたがる。
「パパ、これは?」マリーは期待に目を輝かせてリオンに色々な事を聞いてくる。それは説明に苦しむほど当たり前のものであったり、どうでもいいような細かいことや、恐ろしく複雑なこともある。それらは全てマリーの欲求――唯一の楽しみ――から来るものである。
リオンはそれらの欲求に、出来るだけ詳しく具体的に根気強く答えてやることにしているのだが、毎回そのようにやることも難しかった。
「ううん、いいの。聞いてみただけよ」
始めはしつこく食い下がっていたマリーもやがて、このような言葉で我慢を示すようになった。
それは父への気遣いなのだろうか、回答を得られないと結論付けたための割り切りなのだろうか。相手の微妙な表情を読み取ることを学習したのかも知れない。
この行動は、マリーがより人間に近い成長を示した事例のひとつであると考えられる。
相手を思いやる心が芽生えたという側面。
しかしもう一方から見れば、自分の中に生まれた欲求を抑え、実際とは異なった欲求を表出して相手や自分自身を納得させてやり過ごそうと試みる『嘘』を覚えたということでもある。
マリーは思いやる心を持った。それは同時に偽るという行動にも繋がっている。成長の結果として、嘘を覚える。
学習して成長する過程で、より人間らしさを備えたアンドロイドはその代償として機械らしさを失ってゆく。
それがアンドロイドたちのためになることであればそれでもいい。だが、それがためにならないことであった場合。それを最後まで見届けて手を貸すことは難しい。
彼の、リオン・オカザキの時代以前は、アンドロイドはロボットであり機械だった。
それらは命令通りに動きはするが、設定外の行動はしない。他律的な行動が常に求められ、自律的な行動は排除された。
機械に間違いは許されない、予定外の行動とは即ち故障であるから。
半年が過ぎた。
マリーは人間としてみれば信じられない速さで数多くの物事を学習して成長した。傍目には外見と同じ二十代相応かそれ以上の知識を有していると感じられた。落ち着いた感じの美しい女性。名前を呼ばれて振り返り、嬉しそうに笑う。これがリオンの求めたものに違いなかった。
「お話を聞かせておくれ、マリー。昨日はどんな夢を見た?」
財産が底を尽き生活は苦しい。かといって前進する気力も沸いてこない彼にとってマリーは唯一のオアシスだった。
マリーの話は全てが真実とは限らない。彼はそれを承知している。
マリーは様々な事をリオンに話して彼を楽しませた。そして彼女も笑った。この笑いこそがリオンにとっての真実だった。
「知らない人に会ったの」マリーは遠くを見つめるように顔を上げると、そのまま話し始めた。
眼球を模したカメラは壁紙の青い色彩をとらえていた。マリーの人工頭脳の中ではそれはもう青ではなく、青に関連するイメージを膨らませ別の、異なったものに形を変えているはずだった。
「その人は私に気付かずに私の前を通り過ぎていった……でもそれでよかったの。私はその人に見つかってはならないし、もし見つかって追いかけられたら逃げ出さなくてはならなかったから」
マリーは視線をリオンの方へ戻した。リオンはくつろいだ様子で満足げに頷いた。
「その人は私から離れた暗い所へ行って、何かを運ぼうと腰をかがめたわ。でもそれはなかなか持ち上がらなかったみたい。その人はかがんだまま一息ついてこう言ったわ。
『やあ、これは何という重さだ。これではとても私一人の力だけでは運ぶ事ができない』するといつの間にかもう一人の知らない人がその人の側にかがみこんでいた。二人は立ち上がると相談を始めたの――『これをどうしよう。他の誰かに運ばせようか』『そうだな、そこにいるマリーならこれを運べるに違いない』――だから私はその重いものを運ばなくてはならなくなったの。私はそれを運ぶことを想像したらとても嫌な気分になって我慢ができなくなった。でもどうしてもそれを運ばなくてはならないんだと考えてとても悲しくなったの……」
「……それからどうしたんだい?」マリーが話をやめたのでリオンは静かに尋ねた。
マリーは思い出すように顔を上げて青い壁紙を見つめ、そして首を振った。
「分らない。その先はぼんやりしているの。私は運ぼうとしたけれど、それはとても軽かったわ。でも軽いのは当たり前で、私は何も持ち上げなかった。よく見ようと思ってもそれは暗いもやの中にあって、どこにあってどんな形をしているのか全く分らなかった。そのうちに私が何をしているのかすら分らなくなって、気が付くと私はベッドの上で眠っていたのだと気付いたわ」
「不思議だね」リオンは、マリーの夢に関してはいつもそれ以上の事は言わなかった。
「ハニバル・ビショップは――」これはマリーの空想上の友達の名前である。マリーがその存在をリオンに明かしたのは生後3ヶ月ぐらいのことである。
正確には、リオンがマリーを『叱る』事でマリーを厳しくしつけるようになってからこの友人は現れるようになった。
「――大きな体の、食いしん坊の怪物なのよ。何でも食べてしまって、人間もテレビも食べてしまうの。でもね、私だけは食べないのよ。なぜってそれはビショップは私の命令を良く聞くからなの。ビショップは昔、とても恐ろしくて暴れん坊だったの。でも私と会ってからはとても大人しくなって、もう人は食べないし食器も壊さないって約束したの。本も破らないわ。だから私はビショップのお腹がすいている時に少しだけ食べ物をあげるの」
実際、リオンは食卓から消えたわずかばかりの食べ物がダストシュートに入っているのを知っていた。それはマリーが不要な食べ物を『捨てた』のではなく、ビショップに『与えた』のである。
マリーの言う、ビショップのやらかした悪い事は人食い以外、全てマリーがやった事であった。
「私がいけなかったのよ! ねえパパ、私が悪いのよ」
マリーは時々目的も無く、ただ置いてある物をよく壊す事があった。それは置物の突起の一部であったり人形の腕であったり食器棚のスプーンであったりした。
おもちゃ代わりにして、リオンの見ていない隙に壊した。言って聞かせてもしばらくするとまた同じように何かを壊してしまう時期が続いた。
マリーはこれもビショップの仕業であると思い込んでおり、しかしながらその結果については自分自身に責任を感じているらしかった。
マリーの体は機械であるが、微妙な力加減ができないほど古いタイプではない。しかしマリーはこの時期、頻繁にその力加減を間違えた。
ビショップは度々マリーの所へ現れては様々な悪さをしていった。そのたびにマリーはビショップを叱り大人しくさせた。
それは彼女の精神的な成長の過程であるとリオンは理解している。
マリーが成長するにつれビショップは悪さをしなくなり、やがて現れなくなった。それはマリーがビショップの事を忘れ去り、口にしなくなった事で分った。