夢
マリーは眠る。眠りもまた、リオンが脳の深層に設定した機能のひとつだ。グレッグスン型人工頭脳の設計に倣って脳の一部に電流量を測定する機能を付与し、その電流量を周期として換算する。そしてあるタイミングで脳はマリーに眠るよう命令を下す。命令は眠りの設定部分を刺激して身体機能を低下させる。それは全体へ流れる電流の量を減少させる働きとなって表れる。
リオンはさらに、脳の稼働率も変数に取り入れた。この作用によってマリーは、何も記憶していない、脳に空白の領域が多い時期ほどよく眠った。ものを覚えるようになってゆくとだんだん眠りの周期に間隔が開いて眠らなくなる。これらの作用によってマリーの睡眠時間は最終的におよそ4時間から10時間で落ち着くようにした。
眠りの時間は、記憶の弱い部分を忘却し、表層に邪魔される事無く整合が行われる時間でもある。
しかしその時間が安らかで穏やかなものばかりとは限らない。
「パパ、わたしこわい! わたしこわいのよ、パパ!」目が覚めるなりマリーは言った。
「どうしたんだね?」リオンはたずねた。マリーは防衛機制のひとつとして表れる怯えた表情を作り、体を小刻みに震わせていた。
「……わたし、今まで暗い場所にいたわ。パパもこの部屋も何も無い場所なの。そしたら遠くから何かがやって来て、それはみんな『水』だったの! ねえ、わたしこわいわ。はやく水をやっつけて遠くへ持っていって!」マリーの震えが大きくなった。
「大丈夫だよマリー。大丈夫だ」リオンはマリーの肩を抱いた。マリーはリオンの胸に頭を押し付けて震えていたが、やがて落ち着きを取り戻した。
「……夢に出たのか。全く驚いた」
リオンはキッチンでコーヒーを飲みながら独り言をつぶやいた。
マリーに今見たものが夢であることを理解させ、水の正体を納得させるのに1時間掛かった。それから眠りたがらないマリーをなだめ、おとぎ話を聞かせて寝かしつけるのにさらに2時間掛かった。
それは昨日の、と言っても日付が変わっただけでまだ夜は明けていないので、ほんの数時間前の出来事だった。
「パパ、それは何?」
ダイニングで簡単な食事を摂るリオンのところへマリーがやって来てそう尋ねた。
リオンの食事の時間、普段は本やテレビに熱中しているマリーだが、今日は少し退屈を感じているようだった。
「え? ああ。食べ物を食べている」リオンは答えた。
テーブルの上にはささやかな夕食が並べられていた。マリーはバッテリーで動いているので人間のような食事は必要ではない。そろそろその事を理解させなくてはならないと考えていた。
実際、ロボットの付加機能として食事を模した動作を行うことの出来るモデルはある。そのような嗜好の人間向けに数多くのロボットが生産されており、そのような一緒に食事をしたり行動を共に出来る擬似パートナーの需要は思いのほか多い。だがリオンはそういった機能、擬似人間としてのロボット向けに用意された擬似胃袋や擬似生理機能をマリーに与える事は最初から考えていなかった。
「食べ物、食べ物……食べ物って何?」マリーはすぐに興味を示した。
リオンは少しの間考えてから、どうしても避けられない人間との違いの説明を、この機会にやっておく事にした。
「これはね、マリー。食べ物といって、パパだけに必要なものなんだよ」
マリーは不思議そうに食べ物を見つめる。
こうやって、食べる。とリオンはトマトを口の中へ放り込んだ。
「へえ……」マリーは目を輝かせてその行動を追う。そして言うだろうとリオンは予想していたが、やはりこう言った「わたしも食べる!」
しかしリオンは禁じた。だめだ、と。マリーはその強い口調に一瞬体を硬直させて驚いたような瞳を向けた。
「どうして、だめなの……?」
「それは……あれだ」リオンは言葉を濁した。それはお前の機能には無いものだから。そう言って納得させられるはずがないし言うつもりもない。それにこのマリーの反応が心に小さな棘となってちくりと刺さった。マリーの顔に浮かぶ失意、悲しみ、落胆の表情。だめなものはだめだと躾ける事で人間として成長させられると思っていたのだが、人間と違うものを人間として理解させる事の難しさが今さらリオンの心に重く圧し掛かってきた。
「マリーはね、特別なんだ」リオンは苦しそうな表情で答える「食べ物はね、食べたら今度は捨てなくてはならない。トイレに。マリー、お前にそれは必要無いことだ」
「ふうん……」マリーは目の前の食べ物に意識を向けるが、先程の剣幕を思い出して視線をすぐにリオンへと戻す。
「マリー、わかって欲しい。同じ人間でも違う所はたくさんあるんだよ」
マリーは笑わず、欲求が満たされず笑いの回路が刺激されないまま、それでも回答を求めてそれがまた満たされない状態に置かれていた。腑に落ちない表情で、しかたなく立ち去ろうとする。
「ああ、そういえば」リオンは思い当たった。基本性能である防水の事を。雨や水没への機械上の対策として、水はマリーの体内に影響を与えない。排出の手間も大した事は無くマリーもすぐに対応できるだろう。
マリーを呼び戻して水の入ったコップを差し出す。自分もコップを持って高く掲げる。
「これは飲み物で、水が入ったコップだよ」
「飲み物? 水……?」
「そう、これは飲んでもいい水だよ。それから、父さんとこれを飲むときは乾杯をしよう。ほら、コップを持って。そう、こぼさないように。そしてコップを軽く当てるんだ」
「こう? これが乾杯?」
「そうだ、乾杯! ほら、水を飲んでみようか」チン、とコップ同士が軽くぶつかって高い音を立てる。リオンはコップの水を一気に飲み干した。
「かんぱい! あはははは! カンパーイ!」マリーは楽しそうに笑いながら何度もコップを当てた。ガラス同士のぶつかる澄んだ音がキッチンに響く。
リオンはマリーの気が済むまで何度も乾杯に付き合った。それからマリーは期待のこもった輝く瞳をコップの中に向け、父に倣い水を一気に口の中へ流し込む。
「ごほっ! ごぼぼぼぼ!」マリーは勢い良く咳き込んだ。
人間とほぼ同じ位置に配置された各器官は、肺に当たるユニットから空気を絞り出し、喉にある声帯を震わせて発声する機構を持っているのだが、胃袋ユニットをキャンセルした仕様のために体内に入った水は分岐弁を通らずに直接肺に流れ込もうとした。
肺ユニットに流れ込んだ水は整備手順で取り出せるのだが、機械上の防衛機能が働いた。マリーの肺に水が入る前に咳き込み動作を行い浸水を防いだ。
リオンは慌ててマリーを抱きかかえ溢れた水を拭き取った。そうか、擬似胃袋が無いので進入物の分岐路は最小限だったのを忘れていた。コップ一杯の水だとフィルターケースの容量をあっという間に超えてしまう。水を飲ませたのは失敗だった。
マリーは目をぱちくりさせてコップと溢れ出た水を眺めた。濡れた服を着替えさせてもらう間もずっと再び腑に落ちない表情で考え込んでいた。
「あれは何?」寝室へ連れて行かれる時にマリーはもう一度聞いた。
「食べ物、そして……水さ」リオンは疲れ果てて答えた。
「分らない。あれは何に使うの? どうしてあんなものがパパには必要なの?」
リオンは少しうんざりしたようにマリーをベッドに追いやり寝かしつける。
「もう寝る時間だ、食べ物や水の事は今度ゆっくり教えるよ」
「いやよ。今知りたい。今、いま、いまいまいまいまいま!」
「いい子だから、パパを困らせないでおくれ。ほら、もう眠りなさい」
リオンは電気を消してそのまま部屋から離れた。
そしてマリーは夢を見た。不可解で正体の掴めないものが恐怖の象徴として現れマリーを苦しめた。恐らくその出来事のショックが強すぎたために印象に強く残ったためであろう。忘却機能として設定されているはずの夢は、強く残りすぎた印象すらその対象としてしまうのか。忘れてしまいたいものを夢に見るという話は聞かない。リオンの考える夢は、深層の本能的部分に強く働きかけようとする理不尽な感情が様々な原体験を通してその感情を理論付けようと働く自己防衛機能に過ぎない。そうやって働きかけ、果たせなかった感情や記憶たちが印象となって表層に現れて幻想を見せる。理性が機能しにくい眠りの世界に浮かんだ、捨て去られようとする理不尽で直感的な印象。それが夢なのだ。
「全く驚いた」リオンはもう一度つぶやいた。それにしても奇妙だった。良く考えてみれば、マリーはあのとき何故あんなに食べ物に対して興味を示したのだろう。本をたくさん読んでいる間に食べ物についていくつかの知識や理解を得てもよさそうなものだった。
それとも……リオンは思う。知っていても違いが分らないのだろうか?
本で見る食べ物。テレビの中で食事をしている人間。それらと実際に食事をする自分とは何か違うものとして理解しているのか?
集合の問題だ。飛行機と自動車は同じ乗り物の仲間。トラックとスポーツカーは自動車の仲間で、飛行機は仲間はずれ――同じじゃないわ――マリーの声が聞こえてきそうだった――トラックとスポーツカーは違う名前じゃない。同じなの? ふーん……じゃあこのタイヤは同じ仲間なの? どれもみんなタイヤが付いているわ――マリーは正確すぎるところがある。割り切りが良すぎるのも気になる所だ。
そういえばマリーはこう言っていた、何かがやって来て、それはみんな水だった、と。『水』はどんな姿だったのだろうか。どうやってマリーの元へやって来たのだろうか。