成長
マリーは誕生から3日後に這って動くことを始め、4日目に言葉を発し、6日目に立ち上がった。
設計意図通りの成長を示しており、現時点での問題は見あたらない。当然のことではあるが、人間に比べると随分と物覚えが早い。目に付くものは何でも真似しようとした。
「おはよう、マリー、パパ」これがマリーの覚えた最初の言葉だった。
12日目には身体の動かし方も上手になった。14日目に新しい服を与えて着せてやったが、その日のうちにもう自分で着替えることが出来るようになった。
「おようふく、きれいね。マリーは、青が好きよ、パパ」マリーは覚えた単語を繋げて嬉しそうに喋る。
リオンはマリーに女の子の言葉遣いを教えた。目の前にいるパパとは違う端々の言葉の違いを、マリーは徐々に理解して対応していった。
リオンは明日にでも文字を教えるつもりだった。マリーの脳――バイパスによって立体的に結合された記憶体が無数に集まり構成される丸いスポンジのように見える球体――にはいかなる社会的予備知識も設定されていない。
設定されているのは刺激や欲求、防衛機制に関する抑止など最低限のものだけだった。それらの設定は脳の中心、より深い層にあたる部分に焼き付けられる。
上層へ向かう残りの層は、これから記憶して学習や思考をしていくためのものだ。記憶量が増大して記憶体を繋ぐバイパスの相互作用が高まるほどそれらの記憶は関連性が深くなり、より強く記銘されるように働く。
逆に、バイパスの先に何も記銘されていない記憶体が多ければ、その記憶体に流れ込む電気量が減少する。その状態の箇所へ簡単なショックや、『眠り』などのさらなる電気量減少が重なればその記憶体は『忘却』しやすくなる。
電気は、脳の深い層である中心から外側の表層へ向かって流れる。この電気の流れが『意志』になる。意志は、最初に通過する深層の部分にプライオリティがある。つまり無意識部分の影響が最初に働く。
しかしながら電流は、物質としての球の直径や表面積などの物理的な要因で、深い部分ほど速く流れ、表層に行くほど永く滞留する。つまり意志の流れは深層の記憶を直感的に受け、表層ほどじっくりと理性的に捉える。考える行動にプライオリティを持つのは表層なのである。
『わたしわ、きょう、えほんお、よみました』
マリーは文字を教えるとすぐに高い学習能力を発揮した。まだ思い違いによる間違いをするが、リオンはゆっくり教えて行くもりだった。外見上の、容姿なりの能力に到達するにはまだまだ時間が掛かるだろうと思った。
そうは言ってもやはりマリーの成長は驚くほど早い。もちろん機械の身体のほうは成長することはないが。
20代女性の整った容姿を持った形をしているアンドロイドのマリーは、現在4歳児ぐらいの能力を持っているとリオンは考えた。人間と比較した場合、およそ80倍の速度で成長してきたのではないだろうか。
それから、リオンはマリーに身体制御を学習させるために簡単な体操を教えた。マリーは真似事が好きで、陽気に笑いながら父のあとを続けた。始めはおぼつかない動きも次第に修正を加え、10分も続けるとすっかり動きを呑みこんだ。
マリーは笑った。初期設定により、欲求を満たされたマリーの脳は笑いの回路を刺激されて笑う。リオンも笑いながらマリーを見つめる。そんな動きの中、マリーはほんの少し、体操の一部分に奇妙な動作を加える。
「何だろう……?」リオンはその違和感に眉をひそめる。まさか何らかの故障が発生したのだろうか。エラーの兆しではないだろうか。そう考えてマリーへ足早に近付く。マリーは笑いながらリオンを見つめている。
「マリー。今のことろ、もう一度やってみようか?」リオンは気になる動作の箇所をもう一度良く観察する事にした。
「うん! パパも一緒だよ」マリーは両腕を高く上に伸ばして大きく横に広げ、気を付けの姿勢になって再び上へ、腕をぐるぐる回す。
「ほら、そこだよ。どうして首を傾けているんだい?」上から横へ広げる所で首が左へ傾く。
「パパと一緒よ」マリーは不思議そうにリオンを見つめる。
「そうじゃないだろ、ほら……」リオンは腕を回して見せる。その時にクローゼット横の姿見に映っている自分の姿が目に入った。運動不足で肩が上がらずに首を傾けながら腕を回しているのは自分だった……マリーは父の微妙な動きの癖も忠実に真似ていたのだ。
残り少なくなってしまった金は出来る限りマリーのために使った。新しい服や買い新しい本を与え、教育のための色々な教材を購入した。テレビプログラムも低俗なものはあまり見せないように気を遣った。
オーディオからはいつも静かで落ち着いたクラシック音楽が流れていた。
リオンはヨハネス・ブラームスが好きでよく聞いていたが、マリーが時折それらのフレーズを真似て口ずさむのを見ると、とても幸せそうに微笑んだ。
「あれは何?」
マリーは新しく見聞きするものには何にでも興味を示す。リオンはしばらくの間、それらの欲求に振り回される事となった。
「飛行機さ」リオンは地球のニュース映像に映った大きな翼を持つ前時代的な乗り物の名称を答える。
「飛行機って何?」
マリーは言葉を覚えて3日も経過する頃には単語の省略を学習していた。
――『飛行機というのはどのようなものですか?』
ロボットなら設定変更をしない限りいつまでもこのような言葉遣いをする。
「飛行機っていうのはね、空を飛ぶ乗り物なんだよ」
「空を飛ぶの?」マリーは目を輝かせた。
「色々な使い方はあるけどね、あれは人間を運ぶために飛ぶのさ」
「人間? 人間をどうやって運ぶの?」
「あの中に入るんだ、飛行機のね。あの飛行機は旧式だから、中に入った人間が飛ばすんだよ」
「どうして人間は飛行機を飛ばすの?」
「人間は飛べないんだよ」
「人間は飛べないの?」
「もちろんさ、パパも飛べないよ」
「パパは飛べないのね。飛べないパパは人間なのね。じゃあ、あたしも人間ね」
「……」リオンは言葉に詰まった。事実を言うべきか考えた。マリーは人の形をしているが全く同じではない。マリーはいつかその事に気付くだろうし、これから世間と関われば否応なしにその事実に直面するだろう。その時、マリーはそれを一体どのように考えて受け止めるのだろう。
『わたしは何? 人間なの? どうしてわたしはあの人たちと同じではないの?』
「じゃあ、この机も人間ね! これも飛べないもの」
マリーの言葉で我に返った。うれしそうに顔を輝かせて笑いリオンを見つめている。
「いや……これは違うよ。人間じゃないんだ」リオンは目を逸らして俯きながら答える。
「そう……」マリーは笑顔のまま残念そうに首を傾げる。
「人間っていうのはね、マリー」リオンは顔を上げマリーを見つめた「人間はね、マリー。お前やパパのような形をしているんだよ……お前は人間なんだよ。マリー」
マリーは不思議そうにリオンを見つめ返し、それからぱっと明るく笑った。
「じゃあ、じゃあ! マリーも飛行機に乗れるね? 飛行機を飛ばせるね! ねえパパ! この中に入りたい! これをどうやって飛ばすの?」
マリーは映像を流すテレビに近付き、恐る恐る中へ入ろうとする。モニターに手を添えて額を押し当てる。
「違うんだよマリー。それは映像で、実際のものはここではなくて遠くにあるんだよ」リオンはテレビを消した「ほら、これは違う」
マリーはリオンの手にしたリモコンを眺める「それは違うの?」
興味の対象が広がると混乱の度合いも著しくなるのだが、収束は意外に早い。マリーが眠ればその間に整合が行われる。それまで意識せずに見聞きしていた部分が脳素材表層での対話を行い、繋がりの薄い記憶、専ら理解不能なものごとは忘却されてゆく。