一章 五話 遭遇
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今まさに命の危機という極限状態から脱したメリアドールであったが、いくつかの目の前に物理的に転がる大きな問題に直面した。
一つはボロボロになってしまった衣服の代わりである。
左腕の傷等は既に傷跡すら残ってないぐらいに自己治癒力が働いている、しかし傷ひとつない肌である故に……引き裂かれた布地の間から覘く様は異様に目立った。
しかも一つは胴体部分の破損であるから……下着ごと胸の部分が顕になっていた。
自らの大きすぎず、かといって小さすぎない二つの膨らみ。その先端から中心部分の白い肌が揺れる。非常に目に毒だった。
もう一つの問題として目前に転がる暴君熊の処理があったが、それ以上に一つめの問題が重要だった。
人ではないとはいえ、羞恥心は持っているつもりだから。
「うぅ、……毛皮だけでもはぎ取ろうかな? けど」
自分の体積の十数倍は確実にあるだろう巨体を解体する。しかも刃物はない。
それに落ち着くと同時に鼻をつつきだす濃厚な獣臭さ、そこに鉄錆の匂いがないのは果たして幸いだったのだろうか判断できなかった。
知識では剥ぎ取ることで獲れるものはあるかもしれないが……素人が手を出したところで朝日を迎えるのが先になるに違いない。
「幸い血を吸えたから多少の日当たりは平気になったし……膂力が増したけど」
今ならこの巨体を引きずっていくことはできる。しかしどちらにせよ素人が達人になることはありえない。
自らの手で引き裂いて皮を剥ぐぐらいしか思い浮かばない。いつまでも考えるだけにはいかない。
早く衣服の代わりとなるものを調達しないといけないのだから。
やや悲壮な覚悟を抱いてメリアドールは意を決する。肉はとにかく皮は確保しないと……。
再び巨体の上に跨って、顎の下あたりからドスっと手刀を打ち込む。
魔法力で手を包むようにして強化し、研ぎ澄まされた手刀は臨時の刃物。僅かに赤系の色が混じった光がほんのりと手を包んでいた。
少しだけ引き裂けば、毛皮と肉の間にある脂が両手をドロドロにしていく。ミンチ料理をしてたときにまとわりついた脂よりも粘性に富む油脂の臭気が、メリアドールの端正な顔を歪めさせた。
脂によって滑る手に、サファイアからの水が洗い流していく。
だが思ってた以上に過酷な作業は、素人が見ても遅々として進んでいない。
結果として血抜きはできているものの、次第に死臭が森の他の動物らを呼び押せるのは間違いなかった。
早くに越したことはないのだが……。
「とりあえずそうだね……うん、休憩」
「全然すすんでないねー」
「うん、素人が手を出して済む問題じゃなかったよ」
メリアドール以上に素人なサファイア以外の精霊達は、自分らができることをしようと考えて見回りを提案していた。
メリアドールとの協議の結果、他の肉食系動物が来るのであれば皮を諦める。幸い囮としてこの暴君の肉は最適だろうという判断だ。
そんな見回り途中、エメラルドが報告がてらに作業を覗きにきたのだ。
既に数時間経過しようとしてたのだが、肉体的疲労より精神的な疲労で先に音を上げそうになる。
何度目か定かではない手の洗浄を受けてつつ、これ以上時間が長期化するなら諦めようかと考え……ふと考えが浮かんだ。
「サファイアって氷を作れる?」
「少々効率が悪いですが、いけますわ」
言っててサファイアもやらんとしていることに気づいたようだ。何をするの?とエメラルドとペリドットの二人が小首をかしげた。
ちなみにシトリンとルビーは見回りの途中なのでこの場にいない。
「寒いところではね。腐敗といったのも遅くなるの」
「そういうこと。……魔法力あげるから、この熊を氷で包んでくれる?」
「ふふ、底なしですわねご主人様ったら」
いけますわ、とウィンクしながら実行していく。メリアドールから供給される無尽蔵ともいえる魔法力が忽ち森の中に氷でできた半球状の空間が形成されていった
キンキンに冷えた空気が足元を冷やし、素足のままだったメリアドールはぶるる、と震える。
形成間もないところで、氷が生えている場所から霜柱が立ちはじめる。ドーム自体が凄く低温なのを伺わせた。
「精霊ってすごいね」
「──ご主人様の魔法力がすごいだけじゃないかな?」
空気中の水分をかき集めて、それらを冷却して氷にする。それをするにあたってどれだけの労力を消費するか……。精霊の労力はそのまま魔法力の消費量となることを考えれば、呆れは当たり前だったのか
もしれない。
ちなみに一般の精霊使いなら一抱えのある氷の固まりをつくるだけで精一杯だと言われている。普通に水を使役するのではなく、氷という形にする方が難しく。
ものを温める手段は原始時代からあった癖に、冷やす手段が確立されるのが近代になってからというのも頷けた。
しかし冷蔵保存ということをしても、結局のところは問題の先送りでしかない。
「もうそろそろ朝日だなぁ」
遠くに見える群青の空の端が、茜色になっていくのが見えていた。
未だに解体作業が終わる目処は立っていない。
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氷のドームの中で解体作業を再開して少しした後、ドームの外で気配を感じた。
精霊らには念の為に実体化を解除してもらって、様子を見ることにした。
気配の正体は野生動物の類ではない……それはひょっこりと設けられていた入口から顔を出す。
彫りの深い顔が、獣の皮でできた被り物から出ている。身につけている着衣はボロボロながらも幾度も修繕された痕が残っている。
その服から出ている肉体は針金をより合わせたように細く引き締まった筋肉で包まれている。無駄な筋肉がない様は肉食動物の肉体を想起させた。
彼女が転生を果たしてから初めての人間、それも異性の登場であった。
背中からは弦を外した状態の弓と矢筒の影が見えていて、おそらくは猟師なのだろうかとメリアドールは突然の出会いに驚きつつも分析する。
ワイルドな風貌もあってかっこいいなぁ、とかどうでもいいこともよぎっていったが。
「なんだ?……妙な氷のでっかいのが出来てると思ったら女の子がいたぞ。それにこいつは暴君熊じゃねぇか」
「あ、えっと……ハジメマシテ?」
「おっとすまねぇ。俺はオーヴォっていうんだ。見たとおり猟師をしている。お前さんは……精霊使いか?」
「うん。そんなところ。僕はメリアドール」
自己紹介を終えると同時に彼の目線はメリアドールの胸辺りに行く。未だに二つの膨らみが露出しかけているままだった。
原因を思い出して咄嗟に庇いながら赤面するメリアドールに対して、彼はため息をしながら着ていた動物の皮をそっと羽織らせた。
「いいからこいつを着てな。別嬪さんが肌をホイホイ見せるもんじゃねぇ」
「あ、ありがとう」
「いいってことよ。で、こいつは?」
赤面して俯くだけの仕草が猟師の顔を気恥ずかしさで背けさせる。そうして移った視線が、素人が手を出している死体となった暴君熊に注がれた。
一瞬メリアドールは自分で倒した等といってもよかったが、一般的に精霊使いが魔法を受け付けづらい暴君熊に勝つ手段はない。そうなると自分が人間ではないことを暴露するような
ものだ。暫し言葉を濁しつつも、咄嗟にでっちあげることにした。
「僕を追いかけてきたら木にぶつかって倒れて、首の骨折れたんだよ」
「どんな間抜けだそりゃ」
胡散臭いものを見る目でみる彼の視線が痛い。もっとマシなモノを考えればよかったかと内心で冷や汗を垂らす彼女だったが、彼はものをあまり深く考えるタイプではなかった。
結果として暴君熊は倒れ、あまり労せず毛皮等が手に入るチャンスが到来したわけである。
「あ、オーヴォさん。……その」
「状況から察するに、俺に解体してくれってことでいいのか?」
「うん。分け前はそっち9で僕が1でいいから」
「それはダメだな。半々だ」
オーヴォは腰の後ろから解体用のナイフを取り出す。キョトンとする彼女を尻目に途中まで行われていた解体を代行していく。
すっとナイフを滑らせるようにスムーズに突きたて、なぞるようにするだけで刃が進んでいく。
鋭利な刃物で解体してなかったとはいえ、その手捌きは素人から見ても熟練されたものだった。
結局のところ、巨体を動かすだけの人手がなかった──人前で馬鹿力を見せるわけにいかない──ので、使える箇所だけの皮といくつかの肉と肝臓、そして暴君熊から生えてる角や爪をはぎ取り終える。
それでも一時間近くかかっているのは相手が巨大過ぎただけだ。
これが兎といった小動物なら20分もかけずに完全に解体されただろう。
オーヴォは宣言通り毛皮や肉、肝臓といった部位をもらうと宣言し、もう片方の毛皮と角や爪をメリアドールの分け前となった。
「いいんですか? 僕がこれを受け取っても」
「偶然にせよ倒したんだろ?」
「う、うん」
「で、お前さんは旅の途中かなにかなのか? にしては旅装には思えんが」
「あはは……どっちかというと放浪なのかな。拠点は確保しているけどね」
少なくとも仕立てのいいドレスで旅をするものではない。山や森を歩くのに適していないし、野盗に襲ってくださいといわんばかりの格好だ。
それならどこかの貴族の家から逃げてきたといってるほうが説得力がある。メリアドールの素足のままの姿も、その説に説得力を持たせていた。
オーヴォは顎に手を当てて考えてた。それは親切心を多分に含んだ一つの提案だった。
「ちょっと歩いたら先に俺が住んでいる村があるんだが、寄っていくか?」