一章 四話 生きる事
★
暴君熊はその身を反らせて二足歩行の体勢になると、両手を頭と同じぐらいの高さにまであげる。
月の光を遮る形になり、巨大な黒の壁がそそり立ったような印象を受けた。
その壁には闇の中を黄色に輝く二つの目が、まっすぐメリアドールを睨む。
「やばっ、皆逃げて──」
「オォォォォォォォォォン!!」
その咆哮は森の木々を震わせ、その声を聞いた獣は眠りから覚めて逃げ惑っては森そのものを鳴動させていく。
メリアドールは、その場から動けないでいた。
剥き出しの敵意が、殺意とが現代を生きていた弱弱しい精神を握りしめ、組み伏せているからだ。
他の五人に逃げるようにいうのがもう少し遅かったなら、言葉を発することすらできずにいただろう。
視界では比較的冷静なシトリンとサファイアが率先して残りの三人を引っ張っていく様子が見えた。
彼女らにしても手助けをしたいのだが、暴君熊に精霊らは手出しできないからだ。
しかし無事に皆が脱出する光景が視界に入っててもそれを知覚することができない。ある感情が今の彼女を虜にしていたから。
──それは恐怖。
捕食者がされる側へと与える殺害予告。
立ち上がろうとするが、手足が震えて腰に力が入らない。
頭は必死に逃避を考えている癖に、体が言うことを聞かない。
暴君熊は逃げない獲物を仕留めようと爪を振り下ろした。
ガリリ、と皮膚と衣服が裂ける音が木霊してメリアドールは地面を何度も転がっていく。反射的に両手で爪から体を庇ったのだ。
ドクドクと爪が直撃した左腕から血が流れ落ち、ゴシックドレスのボロボロになった袖を赤黒く染めていった。
焼けるような痛みというよりは、火傷に似た痛みだなど場違いな考えが浮かぶ。
激痛によって左腕に力が入らず、痛みと恐怖とでガチガチと歯が鳴る。
逃げなきゃ殺される。それなのに体は震えるだけで。
「ぁ、うぁ……にげ、なきゃ……」
焦点の合ってない虚ろな目で目の前の死の壁を見る。巨大な熊の形をした己の死を。
あの爪で嬲り殺しにされて、あの牙でズタボロに引き裂かれ、あのお腹に収まるのだ。生きたままゆっくりと齧られていって、舐めるようにじっくりと咀嚼されて。
発狂したみたいに悲鳴をあげさせられて、痛みが心を陵辱していきながら、あの獣に食べられてしまう。
そんな光景がメリアドールの脳裏に過ぎった。
再び迫る爪をまともに受けて、血煙をあげながら無様に地面を転がっていく。ビシャリと地面に血がぶちまけられる。
苦痛が抵抗を諦めさせ、死を受け入れさせようと強要する。
そしてついに暴君熊が動きの鈍くなった彼女を貪ろうと迫ると、それを邪魔するかのように両者の間に割って入る影。
なんで、どうして、とメリアドールは問う。
周りがうるさいのに、何も聞こえてこない。自分よりも小さな体で、同じように震えている癖に。
「ご、ご主人様を、いじめるなっ!」
ペリドットがメリアドールを庇うために、暴君熊に挑もうとしていた。
ほら、皆が戻ってこいとか逃げろといってるじゃないか、とメリアドールは心の中で呟く。
──それで、本当のいいの? と誰かが囁いた。
いいはずがないじゃないか、と彼女は答える。
ふわりと、自分の血の匂いが鼻を擽った。
体が暴れたくなるほどに熱くなっていく。喉がヒリヒリと疼く。体の奥底に眠っていた大きなうねりが心から震えを取り去っていく。
暴君熊は邪魔者を排除しようと再び大きく腕を振りかぶっては、ペリドットを──大切な家族を傷つけようとしてきて。
今まさに爪が小さな守護者を引き裂こうと触れんとした瞬間。
──ドクン、と一際大きな心臓の鼓動がメリアドールには聞こえた。
頭が真っ白に焼け、意識が一瞬だけ飛んで。
ずずん、っと大質量が倒れる音で目を覚ます。
意識が戻った時には何故かペリドットより前に出て、右手を振るっていた。
右手の指先に残る生々しい感触は一体なんだろうか?と自らに問う。
「はぁ、はぁ、はぁ……」
暴君熊は仰向けに倒れたまま動かない。
近づいてみれば、首が左へと曲がってはいけない角度にへし折れているのが伺えた。
舌をだらしなく出して、目が左右異なる方向を見たまま、口から泡を吹かせている。
明らかに、これはメリアドールが行ったのだ。
自分の為に、身内の為に──目の前の生き物の命を奪った。
意識が明瞭になるにつれ、己の犯した事実を確認し、
「あ、ぁ、……う、ぐ、うぇぇぇ!!」
胃がひっくり返りそうな程の罪悪感が、彼女をその場に踞せて嘔吐かせる。ぽたぽたと唾液が地面へと滴っていく。
ごめんなさい、と屍になったソレに投げかける。
けれど失った命は戻らない。自分は取り返しのつかないことをしてしまったのだとより深く知ってしまうだけ。
「ご主人様。……それが生きるってことなのです」
ひんやりと冷たい手の感触が背中を這う。サファイアは穏やかな表情で微笑む。
「あの獣も、生きるためにご主人様を食べようとした。ご主人様は食べられまいと抗った。その結果どちらかの命が失うというのは自然では極当たり前のことなのです」
「けど、僕は」
「ご主人様は今までご自分で食べる為に他者の命を奪うことに縁がなかったのですね。……ご主人様」
パチン、とサファイアに頬を叩かれる。痛みよりも、何故という衝撃が彼女を揺さぶる。
やっぱり命を奪ったことがいけないことだったのだろうか、とぐるぐる思考が空回りする。
「今何故叩かれたのか、わかりますか?」
「え、え…?」
「命を粗末にしようとしたからです。お自分の命も、今奪った命も」
なんでこれほど簡単なことに気付かなかったのだろう。
この体は前の僕が僕に譲ってくれた。命をくれたといってもいい。そんな彼女の思いを踏み躙ることをしていたことを。
そして生きるために戦った相手を、罪悪感とわけのわからないもので冒涜しようとしてたことを。
生きるために奪うことは仕方ないこと。本当にしてはいけないのは、……それを無駄にしないことだというのに。
なんてことはない。
本当の意味で僕は自力で生きていなかったということに、漸く自覚した。
この世界で生きるということは、これからも競い争うことになるに違いない。
「うん、そうだね……ごめんね皆」
喉がひりつく。思えばこの肉体が”食事”をしたのはいつ以来になるんだろうか。
無意識に立ち上がって、今倒した相手の亡骸へと歩み寄っていく。
きっとこれから何度も、こうして糧を得る為に誰かの命を奪っていく。
めき、と犬歯が尖っていく。
メリアドールの根幹に眠る、夜の民の生への衝動が促す。
ああ、これがこの体の食欲なのだなと理解する。
僕は今日という日を忘れないだろう。
いつの間にか傷が癒えて、動くようになった左手と右手の手のひら同士を重ね合わせる。
「──いただきます」
命を承った感謝の意を示す儀式。
そして彼女は暴君熊の首に噛み付いた。
ごくり、とほろ苦い血液の流れを舌先で感じ取る。
乾ききった喉が潤う歓喜が、下腹部から走る痺れに似た快感と共に駆け巡る。
性欲と一体化となった食欲が長い眠りから解き放たれ、貪欲に命の証たる血液を求める。
乾ききった砂漠に水を零すかのように、まだ足りないのだと叫ぶ。
溢れんばかりの充足感が一飲み毎に満ち溢れ、活力が体の隅々まで行き渡る。
ぐっと、暴君熊を掴む指に力が入った。
もっと寄越せと吸い立てた。うつ伏せになった姿勢で、腰が自然と高くなっていることに気づかないほどに吸血に夢中になっている。
ボロボロになった衣服から覗く素肌が、月の光をうけて艶やかに輝いている。
「ぷはぁっ……ぁ、ふぁ……ぁん……」
熱い吐息が溢れる。
彷彿とした表情を浮かべる中、口元を赤い雫が穢れる様はその美貌をさらに淫靡にしていた。
初めての吸血行為によって生じた作用に、メリアドールは口元を押さえながらぺたん、と暴君熊の傍に座り込んだ。
人生で初めて色を知った乙女の恥じらいに似た姿に、黙って見守る者らの顔を赤く染めた。
「ぁ……すごい、これが、吸血行為なんだ」
次第に沈静化していく衝動を抑えるように胸に手を当てながら、今まさに命をもらった相手にもう一度感謝をした。