一章 三話 夜の森の驚異
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一日で受肉した精霊へと進化させたメリアドールだったが、当初の予定である治療薬作成と並行させて洞穴内を快適空間にしてしまおうと思い立った。
寝床は柩を使えばいいのだが、テーブルといった家具等は購入するか自分の手で作るしかなく、前者は購入しようにもまったく宛がないので必然的に後者しかない。
幸いに受肉した精霊らは物理的に干渉ができるようになっているので、人手のいる作業も何ら問題はなかった。
これがなかったら当分は家具等は諦めてたところだっただけに渡りに船である。
材料となりそうな木材ならそこらへんにある木を一本倒せば済む。しかし部品を繋げる為の釘や、それを打ち付ける金づちといった道具がない。
鉄の加工となると流石に専用の設備がいるので別の手段を考える必要があった。
それに聞くところによると、地精霊ら以外の大半の精霊らにとって純度の高い金属はあまり好ましくない存在であるらしい。
貴金属に属する金や銀、白銀といったものは大丈夫だがそれ以外となると近寄りがたいのだそうだ。精霊魔法の使い手──俗に精霊使いという──はそのため金属製の装備を極力廃して、大理
石を削り出した武具や革でできた防具を身に付ける。
仮に家具を作るなら彼女らに配慮して、極力釘みたいなものを使わずにしたいところだ。そうなれば接着剤による加工がいいだろうか。
「接着剤となると漆か膠だけど……ねぇ」
「ウルシってなあに?」
「接着剤になる樹液を出す植物だよ。……ここから遠くの地方に生えてるかも」
シトリン特性のガラス製の鉢に植えられた植物を眺めているペリドットが尋ねる。このガラス製の鉢に植えられた植物は、洞穴内でも治療薬の原材料となる植物がキチンと生育できるかの実験
の一環である。今のところ設備のなくても精霊らの力でできるのがそれ以外思い浮かばなかっただけだが、見た目が涼しげで意外と好みに仕上がっていて満足していた。
そうか、分布域からすればしらないのも無理はないかとメリアドールは独りごちる。
見た感じヨーロッパに近い気候と風土だから、漆は生えてないのだろう。あれはアジア地方に生えるからだ。
そして動物の腱といった箇所を煮詰めてできる膠となれば動物を狩る必要がある。狩る、という言葉に対してメリアドールはずきりと心臓が痛む思いをする。
釣りをして魚から針を引き抜くことはできても、未だに跳ねる魚をまな板の上で解体することができなかったぐらいに臆病で、前世でぬくぬくと温室で育ってきたメリアドールの精神が耐えれ
そうにない。
いざ狩ろうとする動物を前にしては、命を奪うことに躊躇することが目に見えている。
「んじゃ、とりあえず周囲に何か使えるものがないか探してみよっか」
嫌なイメージを吹き飛ばすように声を発する。五体の精霊らは非常に乗り気で、今からピクニックにでも行くかのような気軽さで今か今かと主人を待っている。
その様子にどこか救われた気になった彼女は早速洞穴から夜の森を出歩くことにした。
夜の空に浮かぶ月の光を浴びて、どことなく開放的な気分になったメリアドールは前世に覚えた曲をハミングで奏でる。
なんていう曲だったか、当に忘れてしまった。確かアニメの主題歌だった気がするけども……。
「聞いたことない歌だね?」
「すごく、気が遠くなるぐらいの所の歌だよ」
「ウルシがあるところ?」
「ああ、あるかもねぇ……」
別れの挨拶もできずに、前世の親や仕事場の関係者といった人と別れてしまったのだなと、今更のように感じた。
もう何もかもが手遅れで、どうしようもないのけれど。あの人達は今頃何をしているのだろう。
暫しの沈黙。ふと周囲の視線に気づくとルビーが静かにため息を吐くと頭を撫でてきた。
メリアドールより10センチほど高い彼女がむすっとした顔でなでてくるものだから、どうしたのだと撫でられてる本人は狼狽えてしまった。
「ふふ、ルビーちゃんったら。ご主人様が泣きそうな顔をしてたから慰めてあげようってしてたのよね~」
「っ、 うっせーなサファイア」
指摘されてムキになるルビーとそれをみて更に弄ろうとするサファイアとのやり取りに思わずクスリと笑みが溢れてしまう。
気を使わせてしまったなぁ、と癖で頭の後ろを痒くもないくせに掻いてしまう。サラサラとした頭髪の感触が、今は昔とは違うことを静かに示している。
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夜の森は静かだが、決して動くものが皆無というわけではない。野鼠が木々の間を駆け抜けては餌となる木の実を漁る。その小さな獲物を無音で飛翔しては鋭い爪で捕まえる梟……。
それらの動きを遠目で見ながら、以前では感じることがついぞ無かった自然界の姿を見せつけられていた。
今まで森を深く入り込むことがなかったので自覚できなかったが、人を平然と襲うような存在が森の闇からこちらを見ているのではないだろうか?
妄想が一人でに歩き出しては恐怖を連れてくる。耳をすませば、聞こえる筈のない獣の荒々しい呼吸が聞こえてきそうではないか。
「ご主人様って、意外とビビり?」
「こらエメラルド。申し訳ございません」
「あはは、うん。図星だから怒ってないって」
悪気がないのは明らか。それに実際ビビってるのは違いないのだから。
昼間のように視界が確保されているとはいえ、夕方とかに時間を選べばよかったか?と早くも後悔の念がやってくる。それを気遣ってか、ペリドットが袖をぎゅっと掴んできた。
「ペリドットは優しいね。うん、僕は平気だから」
ペリドットを撫でようと反対の手を伸ばそうとして。
パキリ、と後ろで枝が折れる音がした。
最初に反応したのは風と音が専門のエメラルドだった。 先程までの誂う雰囲気から一変して、険しい表情になる。
そして残る全員が振り向いた時、闇の中を爛々と輝く黄色い光──目が彼女らを見下ろしていた。
「そういえばもうじき春だったわねぇ」
「そうでしたね。……で、あるなら眠りから覚める頃合ですね」
サファイアが呟くのに、シトリンが合わせる。頑張って可能な限り雰囲気を軽くしようとしているのが伺えた。
気圧されていたメリアドールが、漸く先代からの知識から……見下ろしてくる存在の正体を特定するのと、ソレが大きく身を振りかぶって鋭い爪を振り下ろすのは同時だった。
「っ?!」
後ろに倒れるようにして爪を回避したのは、無様に腰を抜かしたからに過ぎない。
木々の隙間から覗いた月の光が、その巨体を浮き彫りにしていく。
それは全長5mを越す、全身を分厚い毛皮で覆われた……象のように巨大な熊であった。
額には水晶のように透き通った一本角が生えており、鋭い牙や爪もまた角に似た輝きを放っている。
暴君熊と呼ばれるソレは、森の中の生態系の最上位に存在する捕食者であり最強の狩人でもある。
分厚い毛皮は人間の振るう鋼の剣や矢を通さず、その腕の一撃は太い幹を一撃でへし折る破壊力を有する。
さらに厄介なことに、頭に生えた角や、爪、牙といった箇所は精霊の干渉や魔法を退ける力を有している。精霊なら暴君熊に接近することすらできずに弾かれ、魔法なら効果を及ぼす前に拡散
させてしまうのだ。
特にこの時期……冬眠から目覚めて空腹となっている。暴君はその名前通りに目に付くモノを飲み干す、獰猛で普段以上の凶暴さを発揮するのだ。
その暴君の黄色い目が見ているのは、眼下で腰を抜かしてお尻を地面につけている姿勢になっている女の子。
「……、獲物はさしずめ僕ってところかな?」