序章 2話 緋色の王
睡眠に入った際に感じた特有の浮遊感の後に、目の前に広がったのはメリアドールが転生する直前に訪れた常闇の空間だった。
以前とは異なるのは自分の体があったことと、その体は転生後の美少女のものであることだろうか。
「もう確定事項なんだ」
苦笑すると目の前にあの緋色の薔薇が闇から浮き上がってきた。
その薔薇の花弁が大きく花開くと、中から現れたのは……メリアドールと同じ容姿を持つ少女であった。
二人の距離は手を伸ばせば触れられそうなほどに近い。けど何故か届かないと思えた。二人の間には越えられない壁があるかのように体が進まない。
「あ、えっと」
「貴方は私。私は貴方。その体の本来の持ち主、その残滓というべき存在」
その一言にはっとする。
考えてみれば簡単なころだ。通常人の体には一つの意思しか宿らない。ではこの体に元々入っていた意思はどこに消えてしまったというのだろうか。
彼の意思が入り込んだことで追い出されたのであったなら、それは……殺したといえるのではないだろうか?
「その、ごめん。僕は」
「大丈夫、貴方は悪くないわ。私はこれから逝くのだから……その体は貴方のものよ。
むしろ謝るのは私のほうだから」
「謝る? どうして?」
謝罪の言葉を投げかける前に、少女は儚げな笑みを浮かべた。
その顔は初々しい少女のものというよりは、長い間人生を歩んで、今まさに終着点に至ろうとする老女のそれであった。
笑みは次第に悲嘆のそれに歪んでいく。
「本当は貴方は別の世界で再び新しい命として生まれ変わるはずだった。けれど私が引き寄せてしまったから。
貴方の想像通り、この体は貴方のいう吸血鬼という存在みたいなもの。不老不死で、太陽が苦手な……化け物の体」
「あ、やっぱりそうなんだ」
「貴方、あまり悲観的になってないわね」
「あんまり実感がないというか……それに」
「それに?」
「僕もつらいのが判ってるから。孤独は」
メリアドールは穏やかな笑みで返す。
きっとあの茨で包まれた時が、あの体との融合の瞬間だったのだろう。
その時に感じた身を引き裂かれるような感覚を、身の内側から凍えそうな感覚を。
あの感情を知っている。それは孤独からくるものであると。
メリアドールは前世ではゆっくりと孤独を解消できる途上であったが、目の前の彼女はどうだったのだろうか?
少女は苦笑すると腕を前に出し、掌を上にしてこちらを見据えた。掌から湧いて出てくるように、緋色に輝く光の玉が浮かんでくる。
その仄かな明るさは暗闇の世界の中では唯一の灯として周囲を優しげに包んだ。
「優しい人。……だからかな。お婆ちゃんからのお節介をしてみようかなって」
「お婆ちゃんね。僕にはそう見えないけど……やっぱりすごく長生きしているの?」
「あら、レディに年齢を聞くなんてマナー違反ね」
悪戯好きな子猫のようにほくそ笑んだ彼女は、光の玉をふぅと息を吹きかける動作でこちらに送ってきた。
ふわふわとした速度のそれを両手で受け取ると、光の玉はメリアドールの中へと溶け込んでいった。
「貴方に託すわ。ここにすべてが詰まっている。これを受け入れたなら、貴方は完全に私となる。
私の知っている知識、その体についての詳細。永遠に朽ちぬ薔薇の園──緋王の理」
ガリリ、と削られるような胸に痛みが走った。それはメリアドールとなった彼の魂に直接情報を刻み込む苦痛。
内臓を小さな針で掻き毟るような痛み。
脳裏には眼前の彼女が歩んできた歴史が再生されていた。それは彼女の悲しみと寂しさとの記録。
──彼女は常に一人だった。
まだ王でなかった時、彼女は一人の人間と出会った。
あの時はまだ王は弱く、人の手で死にかけたところだった。そこにその人間はやってきた。
初めは手頃な餌がいるという印象で近づいた。その人間はあまりにも無防備だった。
血を吸おうとして顔を向けた時、人間は彼女の傷をそっと治療してきた。
どうして人ではない私を助けるのだろうと、思わず聞いた。
人間は不思議そうに首を傾げて告げるのだ。善意に理由なんて必要なのか?と
呆気にとられながらも人を愛おしいと思ったのはこの時だ。
他人に容赦なくなれるのも、慈愛を向けることもできるそんな彼らという存在に希望を見出したのかもしれない。
そんな彼らと一緒に歩むべきだ。支配ではなく共存こそが、我ら夜の民が歩むべき道なのだと。
彼女はここで王になることを目指した。王となって人の世界との共存を目指すのが最良と判断して。
視点が移る。
どこか高級感の漂う、白亜の宮殿。人が何人もの手を繋いで漸く一周できそうな円柱が無数に立ち並んだ巨大な空間。その中央に延びる赤い絨毯の先に存在する玉座に彼女はいた。
彼女の周囲には無数の人型がいた。彼らもまた吸血鬼──この世界では夜の民という呼称らしい──なのだろう。
──けれど彼女は一人だった。
無数の従者はいた。戦となれば心強い兵もいた。政を相談する臣下もいた。しかし心を許せる本当の意味での友はいない。
王は常に孤高であり、孤独である。
夜の民は人を血と娯楽と快楽とを提供する家畜としてしか認めていない。前世では食用の豚や牛の安否を気遣う人間がいないのと同様に。
それでは駄目だと王は語る。しかしそれを快く思わない者しかいなかった。
次第に王を疎ましく感じた臣下らは、王の排除を目論んだ。
王は宮殿を追われ、幾度も刺客を送り込まれるものの撃退して。
人からも狙われた。夜の民と人間は相いれない関係だから。王の事情も知らずに何人もの人が襲ってきた。
融和を唱えた彼女は、けれどどうしたらよかったのかわからなかった。
次第に疲れ果てた。生きることが苦痛に思えてきた。何の為に生きているのか判らなくなった。
だから、彼女は眠ることにした。──たった一人で。
どうして、こうなってしまったのだろう。
なにがいけなかったのだろう。
私は何を違えてしまったのだろう……。
無限に連なる後悔と無念とが、次第に彼女の意思を押し潰していく。
哀しみの冷たさが心を凍らせて壊死させていく。
一人になった彼女は、温もりを失って……寂しさしか残されてなかった。
記憶の再生が終わる。
苦痛に顔を顰めながらも彼女を見た。足先からゆっくりと緋色に染まった灰となって散っていく彼女を。
長い生を歩み終え、文字通り燃え尽きようとしている彼女の姿が、とても眩しく映った。
その姿は儚げながら……堂々とした、王という言葉に相応しい姿で。
「待って、僕、は」
「何? 私はもうそろそろ消えるのだけど」
「名前を、聞いてない。君の、口からは」
「変な人ね。意味なんてもうないのに」
「意味ならあるよ。……僕の、自己満足だから」
首から上以外が灰となって喪失した時、最後に彼女は微笑んだ。彼だったメリアドールの自己満足という言葉に可笑しくて、嬉しくて。
人知れず死ぬしかない筈の最後で、彼女は望外の幸運に恵まれた。
誰かに死出の旅立ちを見送ってくれるという奇跡。
ふと彼女は思う。もしも長い歩みの中で、彼みたいな存在がいてくれたのなら……そんな、ありえたかもしれない幻想を抱いて。
「私はメリアドール。人と夜の民との融和を望んで敗れた、哀れな王」
そして彼女は消えていった。
意識が覚醒に向かうのを感じながら、彼はしっかりと刻み込んだ。
彼女の抱いた叶わぬ思いと、気が遠くなるほど昔から歩んできた道筋。
願わくは彼女の次の生は幸福でありますように、とメリアドールは収まりつつある痛みを感じながら祈った。
★
目覚めてみれば、洞窟の先に見える空が群青と朱とが華麗なコントラストを描いていた。
正しく自らの物になった知識と感覚が、今がちょうど夕刻になりつつあることを知らせる。
メリアドールは棺から上半身だけ起こして手を見つめた。
彼女から託されたものを確かめながら。
「僕はメリアドール」
それは誓約。
新しい命への感謝と、偉大なる先人への尊敬とを抱いたメリアドールとなった彼の誓い。
「さようなら、もう一人の僕。僕はこれから歩んでいくよ。……いつかみた君の夢を、叶えるために」
序章はここで〆です。
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