序章 0話 かくして彼は彼女となる
進展次第では残酷な描写が入るかもしれません (見た目)ガールズラブ要素有
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深夜の時間からお仕事があって、暗い夜道を自転車で駆ける。
彼は真面目だが自分に自信がない。そんな彼だったが、その生真面目さと花に対する知識や興味から花屋で働くことになった。
昼夜逆転した生活になっているものの、不満は少々少ない給料程度だった。それも贅沢さえしなければ現状は大丈夫といったもので彼は平気だった。
職場で何気ない時に花を愛でる時が、花の手入れとする何気ない時が。普通の人間ではつまらないと感じる時間が、彼は好きだった。
決して人付き合いが上手い方ではなかったものの、職場の人間と付き合えるようになってきたのも大きい。
「頑張らないと」
少々眠気を引きずってはいるものの、いつものことだと自転車を用いる。片道45分の長い夜道だ。
車を使ってみては?と職場の上司に当たる人に言われたものの、維持費がないということで諦めていた。電車はその時走っているものがないので論外だ。
できる限り安全なルートを通るように努めているし、その努力あってか今まで事故に出会ったことがなかった。
そう油断してた。
それは自転車専用の道と自動車道との間がしっかりとガードレールで仕切られている道。怖いのは電灯がないぐらいだが……その日は新月の日でより暗い道となっていた。
けれどこちらはちゃんと自転車のライトをつけていた。暗い道では自転車のライトでも遠くでもしっかりと見える。だからだろうか。揺れる車のライトをみても大丈夫だと彼は思っていた。
だが右背面から迫るライトとエンジン音に振り返った時、彼が見たのは猛烈な速度でガードレールをひしゃげながら飛び込んでくる乗用車の影であった。
幸いだったのは痛みを感じる前に意識が飛んでいった事か。
彼が救急車に搬送されている間に死亡が確認され、報道されたのは数時間後。
彼を轢殺した乗用車の運転手は居眠り運転で、誤ってアクセルを踏んだ上にハンドルを切ってしまったと供述していたが、彼が知るよしもなかった……。
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暗い。眠い。
眩い光の次に訪れたのは暗い世界だった。
ここはどこだろうと、暗闇の中で身動ぎする。然しながら光が全く存在しないこの世界では上下左右すら識別できない。
手足の感覚どころか、呼吸しているのかすらわからない静寂と常闇の世界。
漂うこと以外できないこれは、もしかしたら死後の世界というものかもしれない。
「思ってたのとは違うな」
生前の行いを告げる天使や悪魔なんて存在しない。舌を引っこ抜いたりする閻魔も居なければ角の生えた連中どころか他者の気配すらない。
子供の頃に見た、おどろおどろしい挿絵に描かれていた地獄の光景。自分が死んだらどうなるのだろうと想像しては、地獄に落ちてしまった場合を想定してはありもしない痛みや恐怖に眠れな
い日を過ごしたこともあった。一方で仏のいるという綺麗な天上の世界にいけたらいいなと願ったものだ。
けれど本当の死後を覗いて帰ってきた人間はいないし、案外何もないのかもしれない。 つまり、
「このままずっと、闇の中かな……」
このまま意識が消えるまで永遠の孤独を強いられるのか?
彼は絶望よりは諦観の念が先に出た。最後の光景から、恐らく自分は轢かれて死んだのだろう。
であるなら、自分が死んだという事実は覆らない。 幸いなのは痛みを感じることなく逝けたことだろうか。
なんら、慰めにもならないなと彼はぼそりと呟く。
「……はぁ」
体内時計は結構しっかりしてたと認識している彼だが、こうも変化のない世界を漂っていると一体どんだけの時間が経過したのか把握できないでいた。
一分なのか、一時間なのか……実は一日経過しているのかもしれない。
なにせ、自分以外の存在が見当たらない虚無の中にいるのだから。
とりあえず自分で一秒と思う感覚でリズムを刻んで暗闇を漂う。それ以外にすることは思い出に浸ることぐらいだったから。
ふと、何かの香りが嗅覚を擽った。
生前──仮に今いる場所があの世にあたるのであれば──に嗅いだことのある香りだ。
記憶からその正体がひょっこりと顔を出す。薔薇の香りだ。
春先か秋口かの、旬を迎えた薔薇の濃厚な香りは……珍しく男性のくせに彼は好んだ。薔薇と百合と男性なら敬遠しそうな濃ゆく甘ったるい香りは彼にとっては好ましいものだった。
その香りが強くなる方向に意識を向け、進む。 実際に足で歩いている感覚はなく、どちらかというと酷く粘性のある液体の中を泳ぐイメージを受ける。
遅いが、確実に。
匂いのする方に向かっていくと……赤い光が見えた。
闇に溶け入りそうなほんのりとした輝きを放つ物体は、誠見事な一輪の薔薇である。
職場で何度も見かけた花の代名詞ともいえるようなそれは、けれど今まで見てきた薔薇よりも力強さと、どこか儚さとを併せ持った不可思議な薔薇だ。
存在感をしっかりと感じる癖に、それが幻であるかのように不確かなそれ。
甘さを含んでいる高貴な香りは孤独による彼の荒んだ心を癒してくれた。触れようとすれば、滑らかな花弁の感触がした。
思えばこの薔薇は、赤というよりは緋色というべき色合いだ。
「君もまた、一人ぼっちだったんだね」
何故か、そう感じた。
同時にその予感は間違っていないのだとも。
そうだと返事をするかのように、薔薇はその輝きを増したように見えた。
一人は寂しいのだってことを、失ってから気づくなんて。なんて滑稽なのだろう。
薔薇を愛でながら、寂しくないよと語り掛ける。
「ん?」
いつの間にか薔薇の茎に当たる部分が伸び始めては、茨となって彼を包んでいくように絡みつく。
幼子が親を求めてしがみ付くような必死さがどこかあった。
花弁と同じ色に仄かに輝く茨が絡みつくことで発生する、棘による突き刺さる痛みは無かった。
魂だけだから感じないだけかもしれないが、彼はどちらでもよかった。
それは宛ら、芋虫が自らに糸を張り巡らせ……蛹から蝶へと変態するかのように。
薔薇は彼の存在ごと茨で包んでいく。
もしかしたら、食べられるのかなと彼は危機感を抱かずに、他人事のように考えた。
もう自分は死んだ身だし、痛くないなら構わない。
それでこの薔薇が寂しさから解放されるなら……それでもいいかもしれないなとさえ思ってるのだ。
茨による赤い光が彼の意思を包み込んだ時、夢から覚めるような浮上感を得た。
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ハッキリと目を開いた感覚がしているものの、暗闇なのは変わらなかった。
違うのは自分が仰向けに寝そべった状態で、何か狭い箱みたいな中にいることが感じ取れることだ。
そっと手を伸ばす。何か硬いモノが掌に伝わる。生前の家にあった箪笥みたいなものに使われる、上等で硬質な木材の感触がした。
思ってたほど力を籠めずに、その壁のようなものを押せば動いた。壁のようなものは蓋だったらしく、そのままスライドさせて落とす。
広がった先に見えたのは満天の星空だ。
昔住んでいた街にあった、プラネタリウムによる夜空の映像の投影……いや、一度だけ体験した、人里離れた場所で懐中電灯すら消した状態で見上げた夜空が一番近いだろう。
吸い込まれそうな闇に広がる、星々の煌めき。そして一際明るい──青い月。
記憶にあるどんな月よりも巨大な満月。明らかに兎のように見える地球の月ではない文様が浮かんでいた。
けれど、そんな月もまた──
「……綺麗」
そこで彼は疑問符を浮かべた。
果たして自分の声はこんなに高かったのだろうか。真上に浮かぶ月を掴むように伸ばした手も、白く滑らかで……明らかに見慣れた男の手ではない。
仕事をしたことのない事を伺わせる、シミひとつない手のひらをまじまじと見上げる。
妙に頭が重く感じつつも、ゆっくりと身を起こす。
体はすごく布の量が多い衣装が包んでいる。主に黒が六割に白が三割といった割合のコントラストな……ヲタだった彼がよくネットだの、イベントだので見慣れたゴシックドレスというものだ
った。それも女性用のワンピース型。
豪奢なフリルやレース、深い赤の飾りリボン……そして視界を横切る白い髪。
「嘘……あ、自分の髪だ」
生まれも育ちも日本で、両親もまた生粋の日本人が持つはずもない……老髪ではない白髪をぐっと握る。明かに彼自らの頭から生えている髪が引かれているのを確認。
後髪を手繰り寄せれば、これまた長髪だった。背中どころかお尻を経由して踝近くまで伸びているんではなかろうか。そのぐらいのボリュームがあった。
道理で頭が重たく感じるのだと感心しながら今度は立ち上がる。仕事がないときにずっと寝てた体を起こすように、気だるさを感じさせながら。
思ってたほどの視線の高さを稼げてないことにいよいよと考えつつ、周囲を見渡した。
文明の手が入ってないのがまるわかりな、夜の森が広がっている。彼の体が収まっていたのは、どうやら棺らしき物体だった。
普通なら月や星の光程度では行動できないはずの暗さなのに、昼間ほどの明るさで風景が映っている。
「どこかの狩猟民族だの、大昔の戦争時の見張り員じゃあるまいし……」
ポンポン、と彼はゴシックドレスのスカートを叩いた。
この体は無意識に女性らしい柔らかな仕草を行っていた。
「鏡は無さそうだから、水場があればいいのだけれど……ん?」
すると、森の中へと歩いている人影が見えた。
後姿ではあったが、髪の長い女性に見えた。もしかしたらこの近くに住んでいる人かもしれない。
ペタリと、素足で森の中を歩んでいく。
危なそうな場所を避けながら、視界の先に映る女性を追いかける。待って、と告げても女性は止まることなく進んでいった。
女性を追いかけて進んでいけば、そこには小さな泉があった。
天からの光を受けて、美しい水面に星や月が映る。透明度が高そうな綺麗な場所だ。
女性の姿は泉の中へと進んで……泉を揺らさずに入り込んで消えていった。
「え、あれ……気のせい、だったのかな?」
だがいなくなったものを追いかけるより、確かめるべきことがあった。
泉の淵まで歩み寄っては、ゆっくりと覗き込んだ。薄々は気づいていたものの、万が一ということがある。
映っていたのは、白い髪に、緋色の瞳をもった少女の顔であった。
勿論ウィンクや目線移動、手振りをするものの鏡像はしっかりと自らの動きに追従する。
ああ、やっぱりと彼は確信したのだった。
どうしてなのか、原理や原因は全く不明ながら……彼は少女になってしまっていたのであった。
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