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「……なんで松田はそんなとこのいんの?」
体のあちこちに草を絡ませた風汰が戻ったとき、オレは、貴さんから二〇メートルほどの距離を取った場所で座り込んでいた。
状況を説明しようと腰を上げたオレに先んじて、貴さんが風汰に言う。
「英士くんは、僕が英士くんを襲うと思い込んだみたいだよ」
「あははっ。お前ら、相変わらず仲いいね」
事情をぜんぶすっ飛ばした貴さんの説明に、風汰は何の脅威も読み取ってくれず、大笑いした。
ちくしょー……。たしかに間違っちゃあいないんだけどさ……。
コン○ーム……。
未だ、使用する機会も相手もいないオレにとって、それは異常に生々しい性行為の象徴だった。あれを装着して●●するというイメージを持つだけで、なんとなく……こう……むずむずするというか……喉が渇くというか……。
もちろん、貴さんを相手にして妄想するつもりなんて欠片もないけど、貴さん側からそういう言葉を聞かされると、それだけで、ひどく居心地の悪い気持ちになる。
冗談だってわかってるんだけどさ。……けどさ……。
それでも、風汰の出現で気詰まりだった空気が吹き飛んだせいか、オレはそれほど抵抗なく貴さんのそばに戻った。
そして、視線は合わせられなかったけど、
「過剰反応してごめん」
と謝ることぐらいはできた。
貴さんは、くすっと小さく微笑ったあと、
「冗談だよ。このシチュエーションを作るためにわざわざ持ってきたんだ、あれ」
と言った。そして、
「からかってごめんね」
と自らも謝った。
その謝罪に、溜飲を下げるどころか、ちょっと殴りたくなったけど、オレも言い分を取り下げた。
もう二度とこの話題は蒸し返したくなかったし!
わけがわからない風汰は、不思議顔で、しばらくオレと貴さんを見比べていた。
でもすぐに興味を失ったらしく、自分の開拓の成果をオレたちに報告し始める。
「ずっとまっすぐに斜面を下っていったんだよ。もう勘で。元のけもの道の跡がよく見えなかったから。そしたら川に出たんだ」
と。
途中で『川の音がする』と叫んでいた風汰。その予想どおり、藪が切れた先には幅三メートルほどの渓流が横たわっていたらしい。
「深くはなさそうだった。あー……って言っても、真ん中へんは深度一メートル以上はあるかなあ。大岩があちこちに転がってるんで、対岸に渡るのは簡単なんだ。でもさ」
風汰の説明によると、冒険心に火がつきまくっていた風汰がおとなしく川の手前で引き返してきたわけは、
「でっかい猿がいたんだよ」
ということだった。
対岸で背を向けて立っていたその猿は、
「オレの胸ぐらいの身長だった」
と風汰が言うように、一メートル二、三〇センチの大型の体躯だったみたいだ。
「猿ってふつうこんなもんだろ?」
立ち上がった風汰が示したのは、やつの足の付け根あたり。七〇センチぐらいの位置だ。
うん。猿ってたぶん大きくてもそんなもんだ。オレも貴さんも肯定する。
野生の猿を見るというのは、オレが知るかぎり、そんなに珍しいことじゃない。特に、こんな人のほとんどいない山の中なら、むしろいて当たり前に思える。
そういえば、日光は、いろは坂に猿が出て餌をねだるのが問題になった土地だったっけ。
「そこまで大きいのは別格としても、ここに猿がいるのはふつうだと思うぜ。風汰から見て特別に警戒しないといけないような猿だったの?」
単に『猿がいる』という都会では経験しない現象に、風汰がビビったんじゃないかと思って、オレはそう確認した。
すると風汰は、腕組みをしてちょっと迷ったあと、
「特別に警戒……は要ったな、あれは。だって、でかいだけじゃなくて、体毛が真っ白だったんだぜ。ふつう猿の毛って茶色だよな? 爺さんになったら白髪になるのかな? それにしても、ふっさふさの毛がぜんぶ白いって、ちょっと不気味だった」
と断言する。
風汰の受けた印象によると、その猿は、なんとなく肉食獣を思わせる凶暴さまで醸し出していたらしい。
自然の水場には野生の動物が集まる。これを教えてくれた中学のときの担任の先生は、
「動物だって水を飲まなきゃならないからね」
と至極当然のように言っていた。
先生自身もよくキャンプとかする人で、そういうときの注意事項として『うかつに沢には近寄らない』って鉄則があったみたいだ。
風汰の見つけた渓流が動物の憩いスポットだとしたら、風汰の遭遇した猿は、この辺りを縄張りにしたボス猿なのかもしれない。だとしたら巨体や異様な外見も説明がつく。
「どうします?」
オレは貴さんに指示を仰いだ。先を行くか、このまま帰るか。
もし行程を進めたとして、その猿に襲われでもしたときは 逃げられない貴さんが一番に被害に遭うのは確実だ。ここは貴さんのペースに任せたほうがいいと思った。
…………。
………………いや……。
本当なら、いまの時点で、
「危険だから帰ったほうがいい」
と言ってやるのが親切だとはわかっている。貴さんがたとえ行きたいと願っても、野生動物の縄張りに丸腰で入るなんて危険すぎるんだから。
でも、オレには未練があった。このまま帰ることになれば、何一つ成し得ていない結果だけを引っさげて、またあの抑圧的な日常に戻らなければならなくなるから……。
猿ごときでやめるべきなのか、この旅?
猿ごときを怖がって、オレは、これからも『問題の起きない生活』を心がけていかないといけないのか?
ひどく思いつめた表情を見せて悩んでいた貴さんは、ふっと、口元をほころばせると、
「とりあえず、どんな猿なのかを見に行こうか」
と言った。
「とてもじゃないけど近寄れないような凶暴さなら、そこで引き返してくればいいからね」
と。
風汰に先陣を切らせ、次点が貴さん、最後尾がオレという陣営で、オレたちは尖った刈り跡を見せるけもの道を下った。
荷物は路上に放置してある。
風汰の護身用具は鎌、オレは斧。貴さんは……なぜだか小さいほうのラジコンヘリを持って、用心しながら進んでいく。
途中、
「猿程度でこの重装備はどうよって思うけど、本当に緊張したんだって、あいつ発見したときは」
と風汰が言い訳するのを笑う余裕は、このときには、まだあった。
まだ……。