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さらに翌日。夏休み初日の金曜日。
オレと貴さんと風汰は仲良く電車に乗っていた。都心から二時間かけた世界遺産の土地に向かっている。
東武日光線の赤い座席を陣取りながら外の風景を見ていたオレに、貴さんが、
「そろそろだよ」
と最終駅が近いことを教えてくれた。
都心から日光に向かうには、JR日光線か、この東武日光線を使うルートが選択できる。本当ならJRに乗ったほうが早くに目的地に着くんだけど、
「日光に行くなら東武線だろ!」
とわけのわからないこだわりを見せた風汰の一声で、オレたちは三〇分ほど長いこっちの路線を使うことになった。
いつもはそこそこに混むらしいこの電車。ひどい混雑なら、とりあえず貴さんだけ座らせるかと覚悟したオレだったけど、幸い平日の今日はあちこちに空席が目立った。
苦もなく四人がけのボックス席をゲットしたあと、オレたちは、そこから終点の東武日光駅までの九〇分間を、思いの外、和気藹々と過ごしてきた。
オレと風汰が隣同士で座る向かいで、貴さんは、四、五泊はできるんじゃないかと思われるほどの巨大なリュックを隣の座席に置いて、自分は窓に寄り添いながら身を縮めている。
オレもだけど、風汰が珍しく、
「その邪魔そうな荷物、網棚に乗せればいいじゃん。そしたらもっとのびのび座れるだろ」
と貴さんを気遣う。そしたら貴さんは苦笑して、
「重くて持ち上がらないんだよ。万一落ちたら死人が出そうだし」
と肩をすくめた。
貴さんの冗談だと思ったオレは、黙ってその荷物を持ち上げてみた……ら……。
驚いたことに、本当に三〇キロはありそうな手応えを感じた。
「何が入ってんだよ?」
尋ねても貴さんは笑うだけだ。
「お前ら、力ねーな」
呆れたようにリュックに手をかけたスポーツマンの風汰が、すぐに顔を紅潮させて、
「重っ! なにこれ!? つか貴史、よくここまでこれ担いでこられたな」
と文句だか賛辞だかをこぼす。
貴さんの荷物の中身の大半は、
「乾電池?」
オレと風汰が思わずハモったほど意外なものだった。
懐中電灯にスマホの充電、それに、
「こういうのも持ってきたから、電池はいくつあっても足りないんだよね」
と貴さんが取り出したのは、……ラジコン? ……掌に乗るほどの小さなラジコンのヘリだった。
「こっちはオマケで持ってきただけだけどね。本体はこれ」
と続けてリュックから見せたのは、幾分大きい、二〇センチぐらいの機体を誇る、これもヘリだ。
「現地ですぐに目的の神社や廃村が見つかるとは限らないだろ。だからこういうオモチャで偵察してから動こうと思って。小型カメラを装着して飛ばせば、周囲の様子は把握できるはずだよ」
そう説明する貴さんに、オレは感心するより呆れた。用意周到はけっこうだけど、この荷物抱えて山道歩けるのか、この人?
けど、貴さんの中では、そんなこととっくに解決済みだったみたいだ。
目を輝かせてチビサイズのヘリコプターをいじりまわしていた風汰が、
「オレに操作させてくれよ、これ! リュックぐらい運んでやるからさ」
と立候補したから。
貴さんは嬉しそうにうなずきながら、
「星野くんはこういうの好きそうだと思ってたんだ。持ってきてよかったよ」
と言った。
オレはまた、別の意味で呆れて溜息をついた。風汰、貴さんにコントロールされすぎだろ……。
それからずっと、電車内では動かせないラジコンを手に抱えながら満悦している風汰をよそに、オレは貴さんと、例の神社の祭神について話をした。
「武内宿禰というのは、西暦八四年から三五〇年ぐらいまで生きていた、天皇家の優秀な側近だと言われている人物なんだけど、歳を計算してもわかるように、実在性が疑われている人でもあるんだ」
貴さんの説明でざっと計算してみると、たしかに、武内宿禰は二七〇歳ぐらいまで生きていたことになる。
「あ、でも、昔の天皇とかってえらく長生きだって聞いたことがありますよ。あれって歳の数え方が違うんだろ。一年に二回誕生日を迎えるとか」
先生のような風格を醸す貴さんに、つい敬語になったオレ。すると貴さんも同調して、
「よくできました」
と上から口調で笑う。
「古代人はいまみたいに暦を参考にしていたわけじゃないからね。年月を測るのには月の満ち欠けを利用したんだ。だから新月から満月までの一五日間がひと月目、満月から新月までの期間がふた月目になったりしたんだよ。こうやって計算すると、単純に、古代の一年は現代の半年分の長さで終わってしまう。つまり現代の一年は古代では二年に相当したんだ」
ああ、そうか。そういうことか。
暦、つまり太陽暦が日本にもたらされたのは……ええっと? たしか明治時代ぐらいからだったから、それまでは太陰暦(※一)が使われていたんだ。一年を単純に三〇日で設定したとか習ったけど、これだってもう、現代から見れば、五日も一年が短いことになるんだもんな。
……あれ? だけど……。
「当時の一年がいまの二倍の長さだったにしても、武内宿禰の歳って多すぎないかな。二七〇歳を半分にしても一三五歳。そんなに長生きの人間がいたわけないよね?」
そもそも、そんなに昔の人間の歳をどうやって算出したんだ? オレは貴さんに確認する。
「武内宿禰の年齢は古事記なんかから推測されてるんだよ。彼は代々の天皇に仕えた大臣だったんだけど、その主人になった天皇は五人もいるんだ。つまり、天皇家が五代変わる間、武内宿禰は延々とその補佐を続けたのさ」
貴さんは該当の天皇の名前を次々に挙げた。景行、成務、仲哀、応神、仁徳。
正直、仁徳天皇程度なら名前は知っているけど、あとはほとんど記憶にない。
「応神天皇ってたしか……実際にいたとされた天皇の初めの人じゃなかったっけ?」
天皇家っていうのは、神武天皇を一代目として現在までずっと続いている家系のはずだ。でも、最初のころは本当にいたのかどうか疑わしい人たちばっかりだったんだよな、たしか。
その中で、たぶん実在しただろうと言われているのが応神天皇からだった。仁徳天皇の前に即位していた人。業績はまったく覚えてないけど。
「当たり。英士くんもけっこう詳しいね」
貴さんはそう褒めてくれたあと、
「だってね。そもそも天皇家の歴史が、神武天皇の在位していた紀元前六六〇年まで遡るのがおかしいんだよ。天皇って制度ができたのは大和朝廷から。これは邪馬台国のあとの国だから、早くても三世紀の終わりごろのことなんだ」
と補足した。
そしてそれから、
「応神天皇っていうのは、まさに天皇制が確立した大和朝廷と同時期に即位していた天皇でね。だから実在が濃厚なんだよ」
とも付け足した。
なるほど。だから応神天皇以前の天皇は実在が疑われているわけか。
ってことは……。
「武内宿禰が仕えたのは五人の天皇だって、貴さん、言ったよね? でもそのうちの前三人は実際にはいなかったかもしれない人。じゃあ宿禰が本当に仕えたのは応神天皇と仁徳天皇だけじゃないの? それなら計算も合ってくると思うんだけど」
武内宿禰が死んだのは三五〇年ごろのことだって、さっき、貴さんは説明した。応神天皇が即位したのは三世紀の終わり、つまり二九〇年ごろ。宿禰が二〇代で大臣になったとすれば、死んだのは八〇歳ぐらい。ほら、これなら現実的だ。
でも貴さんは、にやっと意味深な表情を浮かべたあと、
「英士くんは頭の回転が早いね。けど、残念」
とオレの推測を否定した。
「武内宿禰の存在はいくつかの書物に載ってるんだけど、そのどれもが二〇〇歳を超える長命だと書かれてるんだ。一番長いのは『因幡国風土記』(※二)かな。三六〇歳で行方不明になったと記されてるんだよ」
……うーん。よくわかんねえ。
実在したと言われる応神天皇に仕えた武内宿禰なんだから、やっぱりこいつも実在していたんじゃないかと、オレには感じる。でも三〇〇年以上も生きる人間がいるわけがない。
悩むオレを見て、貴さんは、ちょっと嬉しそうに、助け舟を出した。
「一人の人間じゃないかもしれないんだ、武内宿禰は。代々天皇家に仕えてきた側近の一団の総称。そもそも武内と姓が与えられたのは武内宿禰の死後のことなんだよ。だからそれまでは、宿禰の一族だと言われてる蘇我氏や巨勢氏や葛城氏のような有力な家来をまとめて武内宿禰としたのかもしれない」
蘇我氏……。
馴染みのあるその名前をぼんやりと反復しながら、オレは、徐々に武内宿禰の正体に至り始めた。
貴さんは昨日、宿禰のことを『古代に不遇の死を遂げた人物』って紹介していた。
武内宿禰が一人の人間じゃないのなら、この『不遇の死』っていうのは、実際の事故や殺人という死因のことじゃなくて、一族の滅亡のことを指しているんじゃないだろうか。
「武内宿禰の一族だった蘇我氏って、大化の改新で殺された(※三)蘇我入鹿のことだよね?」
確認すると、
「そう。入鹿のみならず、蘇我氏は大化のあとも粛清され続けたんだ。蘇我氏だけじゃないよ。葛城氏も天皇家との断絶の憂き目に遭ってるし、他にも平群氏なんて氏族も力を持ちすぎたために天皇に疎まれて殺されてるしね」
と答える。
ほら、やっぱり。
武内宿禰として語られる実在の人間たちの多くが、恵まれた死に方をしていない。だから武内宿禰は祟るんだ。蘇我や葛城や平群の怨霊が、宿禰の名前を借りて、荒御魂になっているんだ。
そんな考えを披露するオレに、貴さんはいちいちうなずいた。
そしてそれから、
「武内宿禰は、記紀の中では、天皇家に忠義を誓った英雄として書かれてるんだ。だから、宿禰を荒御魂として祀る神社は、表向きはない。桂さんの友人は特殊な信仰をしていたって言ったろ? それが、この宿禰の負の歴史に目を向けたカルト宗教だったわけ」
と締めくくった。
※一 現代使われている『旧暦』という言葉は、かつて『太陰暦』と表されましたが、これは正しい使い方ではありません。太陰暦というのは月の満ち欠けで一ヶ月の単位を決める測り方で、一二か月計算をすると一年はだいたい三五四日になります。旧暦はこれを現在の三六五日に近い日数に修正したものを言います。具体的には三〇日と二九日の月を混在させたり、先に定めた二十四節気を基準に月の初めの日を微調整したりしていました。
※二 原文はすでに散逸。鎌倉時代の書物に一部が転載されています。
※三 蘇我入鹿が中大兄皇子と中臣鎌足に暗殺された事件は、正確には『乙巳の変』と言います。『大化の改新』とは、乙巳の変の翌年に天皇家から布告された『改新の詔』という制度改革のことを言うものです。けれど、現在の学校教育においては、乙巳の変と大化の改新を混同する風潮がありますので、高校生である彼らは『大化の改新』という言葉のほうを使っています。