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この帰り。
オレは貴さんと肩を並べながら、自分でも驚くほど饒舌になった。教室で貴さんに本音を一部を漏らしたオレは、きっと、自己主張の勢いを削ぐことができなくなってしまったんだと思う。
「オレさ……就職したくないわけじゃないんだ。大学だって、どうしても行きたいなんて思ってない。むしろ、いまのオレの立場……親に金出させて高校行って……なんて恥ずかしい状況は早く変えたいんだよ。それには金銭的に自立するのが一番だし、そのためには高卒で働くのが当たり前だとわかってるんだけど……」
竹を割ったような性格の姉貴が以前に言った言葉が、オレの中で火種みたいにくすぶって、息苦しくなる。
「あんた、大学に行きたいとか言って、また母さんに苦労をかけるのはNGだからね」
……うん。
何度考えなおしても、大学に行けないことを嘆いているんじゃないんだ、オレ……。友だちの大半が進学するとしても、……そりゃあ、寂しいとは感じるけど、どうしても一緒の進路を取りたいとは思わない。
こだわっているのはそんなんじゃなくって……。
「オレね……、貴さん、わかってほしかったんだよ。オレが自分の将来を自分で選択できない立場だってことをさ……。『やらされてる感』を半端なく感じているってことを……」
一言。
……うん、たぶん、オレ、誰かに一言かけてもらえば、きっと気が晴れると思うんだ。
オレさ……オレ……。たしかにわがままだし、家庭状況もちゃんと理解できてないし、風汰にもはっきりものが言えなくて苛つかせてるし、椿にはもっとひどい感情を持ってるし……。だから軽蔑されても当たり前なんだけど……。
でもさ……。
オレ……少しぐらい、頑張ってないかな……。
他人に、
「よくやってるね」
って一言をかけられるぐらいのことを、してないかな……。
ややゆっくりめの歩調で進んでいた貴さんは、オレの話を、視線はオレではなく正面に据えながらも、けっこう真剣に聞いてくれたようだった。
「英士くんは僕と一緒だね」
そんな言葉が返ってくる。
そこから、貴さんは自分のことを少し話した。
「僕が病気のことを医者から伝えられたとき、僕、どうしたと思う?」
オレは、貴さんはやりきれない恨みを持ったんじゃないかと、思った。だって、いきなり死ぬかもしれない病気だと聞かされれば、それがたとえ誰のせいでなくっても、告知した医者や、口では慰めながら自分より長生きが確約されている周囲の人間に対して、妬みの感情が出るもんだろう。
それなのに、貴さんは意外なことを言った。
「僕はね、喜んだんだよ」
「僕はそれまでずっと優等生だったんだ。学校でも家でも『貴史なら一人でも大丈夫だね』って言われ続けてきたぐらいのね」
不思議なぐらい晴れやかな表情で語る貴さんを、オレは微塵の誤解もしたくなくて、足を止めて凝視した。
同じく立ち止まった貴さんは、でも相変わらずオレのほうを見ることはなく、まっすぐに前を向いたまま、笑みを作る。
「でもさ。僕だって不安はあるし、一人では越えられないこともある。病気が発覚したのは高二のときだったんだけど、そのころには、もう僕は県内の国立大学に進学することが期待されてた」
そこで初めて貴さんはオレに視線を向けた。
「合格ラインはね、クリアしてたんだ。だから受かる可能性はあった。でも『受かる可能性がある』のと『確実に受かる』のじゃ、ぜんぜんプレッシャーが違うだろ? だから当時の僕はその状況から逃げたくて」
「わかる」
オレも貴さんの目を見ながら笑顔を返した。
「オレたちにはオレたちの許容量があるもんな。成績だけのことじゃなくって、家族の期待に応えられる器量とか、自信を持ったまま進んでいける範囲とか。それを超えたところを勝手に期待されても困る」
「いい言い方だね」
貴さんはますます笑いながら賛同した。
再び歩き出した貴さんの横につきながら、オレは、今度は耳だけ会話に傾けた。
続きを話す貴さんの口調は、気のせいか、なんとなく嬉しそうだ。
「だから、僕は、骨肉腫になったときに、『ああ、もう一人で我慢しなくていいんだ』って喜んだんだよ。まさか死にかけの病人に誰も受験を勧めたりはしないだろ。これでやっと大学進学っていう大きな壁に穴を開けられた。病気を盾に、一から僕の本当の意思を伝えなおすことができるって、有頂天になった」
……変な感覚だけど、このとき、オレは貴さんが羨ましくなった。
他人に強制的に決められる人生。それを一瞬で壊してくれた骨肉腫。
オレだってなれるものならなりたいや。死にそうになって、周囲から優しくしてもらって、そしていまの我慢からも将来の苦労からも堂々と逃げ出せるような環境に飛び込めるものなら……。
貴さんもオレと同じでずっと自分を抑えこんで来た。だからこんな病気になれたんだ。もう楽になっていいよって。何かの超自然的な意志が貴さんに味方してくれたんだ。
「僕は神さまに見放されたんだよ」
……でも貴さんはオレの考えとは正反対の結果を口にした。
「高校を休学して闘病に入った僕はね、参考書でいっぱいになったカバンの重さと、夜遅くまで続く塾通いの疲労から解放された。検査入院の最中なんて、治療にも入ってなかったから、一日ごろごろしてるだけ。あんまりにも楽でいたたまれなかったから、テレビを見ることさえ憚られて、けっきょく病床で受験勉強をしちゃったぐらいだったんだよ」
相変わらずニコニコしながらそんな軽口を叩く貴さんの言葉は、でもなぜかひどく重く感じた。
「検査が終わってはっきりと癌だとわかったときも、それほど怖いとは思わなかった。骨肉腫は死亡率が四〇パーセントを切ってる、癌の中でも脅威の少ない病気なんだ。だから、僕も、何の根拠もなしに、自分は助かると信じきってたんだよ」
「……治ったから学校に戻ってきたんだろ?」
まるで生きる見込みのなくなったような言い方をする貴さんに、オレは恐る恐る聞く。
「入院中に再発したんだ」
かすかに首を振ったあと、貴さんは、やっと沈んだ声になって、そう言った。
「癌細胞を取り除くために少しずつ骨を削っていくうちにね、思ったんだよ。病気の恐怖に比べたら、受験のプレッシャーなんて大したことに感じないんだな、って。僕は甘えてたんだ。僕自身が何もしなくても、病気でさえいれば、周りは勝手に、僕の都合よく変わってくれるって。逃げたいものから逃げるのに、ベッドで寝ているだけで成功するものなんだ、ってね」
三回の切除手術のあと、貴さんの癌の発生は一応落ち着いた。
それでも、腿の骨を大きく損なうという身体の障害と、いつまた再発するかわからないという危惧は、いまも貴さんを不安にしている。
「おかしいだろ。進学で悩んでたときは、落ちたらそのまま死んでやろうとか考えてたんだよ、僕は」
元の穏やかな笑顔に戻ってそう言う貴さんを、オレは直視できずに、地面を見ていた。
オレが小学生のときにしでかした賠償事故。あのときに気丈な母さんが寝込んだのは、生きる術を断たれたと絶望したからなんだろう。
金がなくて瀬戸際の生活をしていたオレの家庭は、いま、姉貴が就職しているおかげで、そこまでの窮地ではなくなった。
だから、オレはまた馬鹿なことを考えていたんだ。姉貴の収入さえあったら、オレは、どうしても就職しなきゃならないなんて固まった未来は選ばなくてもいいんじゃないか、って。オレの気持ちを最優先にした生き方をしてもいいんじゃないか、って。
貴さんは、オレと貴さんが同じだと、言った。
貴さんは、受験の回避という甘えのために自分の生命を危機にさらす、という罰を受けた。
同じようにオレのわがままな考えが罰を受けるとすれば、今度はオレ一人のことじゃすまない。家族を巻き添えにしかねないんだ……。
「腹くくるしかない、かあ」
逃げ道を探すんじゃなくて、やるべきことを『オレの理想の生き方』に変えていく。オレが、この不満から解放されるには、そういう考え方をしないと駄目なんだよな、きっと。
「英士くんは僕とは違うね。僕より強い」
貴さんは、今度はそんな言葉を選んで、……たぶん、褒めてくれた。