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天外の隣国  作者: 小春日和
われわれのすべての災禍は、我々がひとりきりではいられないことに由来する。
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10

 水の流れおちる音がする。

 ……滝だ、ってぼんやり思った。


 醜態を晒したオレは、あのあと、服を返してもらって、大男の先導についてきた。

 あいかわらず山道はひどい有様だった。けど、今度は大男も急がなかったから、担がれることもなく、オレは自分の足でここまで辿りつくことができた。

 やつの住処すみかに……。


「……ここに住んでんの?」

 けもの道のとっつきにあったのは、家、なんて呼べる代物じゃなかった。洞窟……、……いや、そういうには奥行きが浅すぎるかな……。巨岩の下にぽっかりと空いた岩室いわむろだ。

 平たい入り口は、いかにもせまい内部空間を予想させた。

 左側には高い崖。正面も同じく、おじさんの住居の穴がある以外は、一五メートルぐらいの断崖で行く手を断たれている。

 ゆいいつ進めそうな右側は、でもこれまで以上に過酷な深い薮が立ちふさがっていた。滝の音は、その奥から聞こえてくる。

 大木が密集しているせいもあるけど、周囲はもう暗かった。夕方の五時……んー……いや、六時は回っている感じだった。


へえれぇ」

おじさんが室の中に誘う。

 でもオレの足はすぐには動かなかった。

 貴さんや風汰と離れて体験する初めての夜。仲間のいない、独りっきりの……。

「どぉしたぁ?」

先に大岩の下にもぐりこんだ大男が、ふりかえる。

「どぉしたぁ?」

そしてもう一回、今度は探るようなイントネーションで、呼びかけた。


 どうした、って言われても……。

 どうしようと、しているんだろう、オレ……。


 ただ。

 なんだか。

 ひたすらに怖い。


 おじさんへの信頼感とか反抗心とか、そういうのが、さっきのことで、まるで着地点を見失ったみたいだ。

 警戒心と嫌悪感と、でもおじさんにゆだねないと自分がなくなりそうな不安定さが、すごく大きくて……。


「あ、あのさ……」

 どうしたらいいのかわからないよ。

「オ、オレさ……村に戻ったら……ダメ、かな……」

 どうしたら以前のオレに戻れるのかわからないよ。

「あ。ダ、ダメなら……その……あきらめるけど、さ……」

 どうしたら、何をしたら、どうなったらいいのか、まったくわからないよ。


 だから貴さんと風汰に会いたい……。

 会って、あの二人にいままでどおりに受け入れてもらいたい……。

 そうしないと、オレ、自分がとり戻せない……。


「オレさ……いま、すごく……、……えっとその……」

必死で頭を整理する。

「いますごく、おじさんのことが……うーんと……あの……た、たぶんね、たぶん……怖くて、嫌いで……」

おじさんがどう思うかは考えない。伝えたいことだけに集中する。

「一緒にいたくないぐらい嫌いで……だから帰りたい。貴さんたちのとこに帰りた……」


 帰りたい。

 仲間のところに帰りたい。

 オレがオレでいられるところに帰りたい。

 これ以上傷つかずにすむところに帰りたい。


「わかってくれよ……」

我ながら情けないけど、

「もうおじさんといるのは嫌なんだ」

泣きながら大男に懇願した。


 おじさんが岩室から戻ってくる気配を感じる。

 うつむいたまま、おじさんの次の行動を覚悟した。

 巨体のわりに足音の静かなおじさんは、オレの前にひっそりと立った。


 オレのした罵倒に見合うだけの報復が来るかと思ったけど、おじさんは、オレの頭を軽くはたいただけだった。

 そして、足元に何かを振り落とす。

「夜ぁシシが出るけえ。それまでにゃあへえれぇ」

 おじさんが放ってよこしたのは、乾燥させた何かの肉だった。

 朝に風汰の捕ったヤマメを食ったきりだった腹が、オレの意志を無視して、盛大に鳴る。


 どうしたらいいのかは、まだわからない。

 でもとりあえず、おじさんからもらったものだって考えないようにして、食べた。

 硬くて味もない肉片だったけど。


 ……美味しかった。


 …………。

 …………。

 ……………………。


 オレは……何を嫌がっているんだろう。

 再び洞窟の中に消えたおじさんの軌跡を目で追って、考える。

 おじさんはオレの生殺与奪せいさつよだつを握っている。その気になればオレを殺すことも、……さっきみたいに好き勝手なことを強いることもできる。

 でも実際のオレは、「要らん」って宣言されたにもかかわらずこうして生きているし、さっきのことだって、この場所に連れてくるために必要な儀式だったから強要したに過ぎないかもしれないんだ。


 …………。

 …………。

 ……………………。


 だったら……。

 割りきればいいじゃんか……。


 おじさんがどんな無理をしかけてこようが、オレはそれを乗りこえて、いまも生きている。

 そうだよ。

 何をされた、とか、これから何をされるか、とかじゃなくって、これを大事にすればいいんだ。

「いつかやり返してやればいいんだよ。だからいまは何をされても耐えろよ」

自分に対して言い聞かせた。

「オレはぜったいに貴さんたちのところに戻ってやるんだから。クソ大男が邪魔したらぶっ殺してでも帰ってやるんだから」

自分に対して誓った。


 思いどおりにならないことが許せない。

 他人に行動を支配されることが忌まわしい。


「オレは姉貴や母さんに会いたくないんだ」

ってウズメさんに伝えた昨日の会話がよみがえった。


 オレはがまんできないんだ。

 オレのことを邪魔者扱いして、

「あんたなんかいなきゃいい」

ってどなりつける姉貴の存在が。

 オレのバカさかげんを叱るでもなく、

「あんたがいたらもううちはダメかもね」

って簡単に諦める母さんの存在が。


 キスケはオレに、

「サルヒコに食われろ」

って言った。

 おじさんはオレを、

「要らん」

って切り捨てた。


 オレは、オレには。

 敵しかいないんだ。

 だからがまんするしかないんだ。

 独りですべてに立ち向かえる力を身につけるまでは。


「お前が暴走しても許してやるから、任せろ」

って支えてくれた風汰に、会いたかった。

「英士くんには手をかけないでください」

ってかばってくれた貴さんに、会いたかった。

「また……会えるかなあ……」

ってつぶやいたら、勝手に涙が出てきた。


 おじさんには、

「シシが出るから家に入れ」

って言われたけど、そんな気分にはなれず、オレは室の手前の藪の中に身を横たえた。

 もう真っ暗だった。まだ七時ごろだとは思うけど、明かりがないから、深夜と区別がつかない。

 試しに手を伸ばしてみたら、四〇センチほど先にあるはずの手の甲が見えなかった。


 そのとたんに敏感になった聴覚が、いろんな音を拾いはじめる。

 葉ずれ、虫の足音、それに何かの息づかい。


「シシって……なんだろ……」

急に不安が増大した。

 けものっぽい響きだからきっと動物だろう、と想像はつく。

 けどオレの知識じゃあ、シシ=獅子ライオン、ぐらいしか連想できない。日本にライオンは……いないよなあ……。

 あの戦いに慣れたおじさんが警戒していたぐらいだから、とんでもない猛獣なんだろうか。熊とか……狼とか……。


「……でも家なんかに入れっかよ……!」

寝がえりを打って、体を丸めて、恐怖に耐えた。

「動物なんか怖かねーよ。あいつの言いなりになんか、もうなるもんか」

けものの牙に噛みくだかれる妄想をおじさんに蹂躙された記憶で上書きして、泣きつきたくなるのをこらえる。


 寝かけて、でも何度も目を覚ました。

 虫の羽音が耳につく。下草の湿った感触も気持ち悪い。

「四日め、かあ……」

 この世界に来て、野宿を始めて、もう四日が過ぎた。野外で寝ることなんかもうとっくに慣れたはずなのに。

 ……眠れない。


「最初の夜は、風汰が寝ずの番をしてくれて……」

サルヒコがまだ生きていた初日、襲われるといけないと、風汰は一人でテントにも入らずに見張っていてくれた。だから安心だった。

「次の日は、貴さんとウズメさんが一晩中、話をしてて……」

サルヒコとの死闘の夜は、みんなで焚き火を囲んで、落ちるみたいに爆睡した。不安も不快も感じるヒマなんかなかった。

「昨日は、ウズメさんが作ってくれた葛湯くずゆのおかげか、体が楽になって……」

昼間にうなされた熱と痛みから開放された昨晩は、なんだかとても幸せな気分で寝られた。

 でもいまは……。


 葉ずれ、虫の足音、それに何かの息づかい。

 いまはぜんぶ自分で対抗しなきゃならない。風汰も貴さんもウズメさんも助けてくれない。

「シシが出るけえ、へえれぇ」

おじさんの言葉が、腹が立つぐらい、ずっと頭にこだましている。

 聞こえている音のすべてが、現実のものなのか、それとも恐怖で起こっている幻聴なのか、区別ができない。


 溜息をついて半身を起こした。

「情けねーなあ」

闇が怖いなんて、オレ、いくつのガキなんだ。

 てのひらを地面に這わせると、柔らかい草と固いくきの感触が交互にさわる。

 そのまま、手を地べたにつけたまま、あえてコケるような体勢で前のめりに突っ伏した。誰もいないけど、笑いを取ってみたかった。


 そしたら。

 指先に、草木とは違う感触が当たった。


 …………。

 …………。

 なんだ、これ……。


 小枝のような太さの棒が立っていた。

 でもオレが触っているのは、木の根や樹皮じゃない。

 コリコリとした固い角質上の物質。その上に伸びている部分には、指に刺さりそうな剛毛が生えている。


 とつぜん、すぐ耳元で、

「ふうー」

って鼻息が聞こえた。

「!?」

慌てて距離を取ろうとしたら、その何かに髪の毛をひっぱられた。

「いて! 痛い! 放せこのっ!」

とっさに腕を伸ばしてそいつを突きとばそうとしたら、湿った粘膜状のものに指がめりこんだ。盛大なくしゃみを見舞われたせいで、それが鼻の穴だとわかる。


 思わず腰が浮いた。

 こいつ、動物だ。しかもそこそこにでかい。


 緑色のぼんやりと発光した目が、まっすぐにこっちを見ていた。でもオレにはまったく姿がわからない。暗すぎる。

 土を蹴る音がかすかにしたと思ったら、胸にそいつの体当たりが来た。ふんばることなんかできなかった。軽く跳ね飛ばされて、地面に転がった。

「い……」

急に漂ってきた濃いけもの臭。痛いのをこらえて起きあがろうとしたけど、また後頭部の毛を引かれて、思いどおりに動けない。

 歯噛みの音がしてぶちぶちと頭髪が切れた。こいつ、オレに食いついているんだ。


「お」

おじさん、って叫びそうになって、声を飲みこんだ。

 ダメだ。あの人に弱みを見せたらダメだ。独りで何とかしなきゃダメなんだ。

 右手で後頭部を抑えて、左手で動物の姿を探った。オレの髪をくわえている口に指が届く。そしてそれから、すぐ横の突起に気がついた。

 牙……が、ある……。


 なんとなく犬のような生き物だと思っていた。もしくは小型の鹿か。身近な動物だと信じたかったのかもしれない。

 でも違う。毛も生えているし歯もあるけど、こいつは猛獣だ。しかも獰猛な。

 シシ……。

 シシ、って……。

 あ。

 もしかして。

 イノシシ!?


 やつはオレの毛髪を噛んだまま、激しく左右に揺すりはじめた。

 否応なしに頭を振りまわされて、体がふらふらしてくる。

「やめろってば」

抵抗しようと伸ばした腕は空を切った。どこにいるのかわからない。それどころか、平衡感覚が乱れて、上と下も認識できなくなってきた。

 イノシシってこんなに力が強いの? もっと可愛い生き物だと思ってたのに……。


 こんなことも、オレ、知らない。

 執拗に攻撃を加えるイノシシの姿を想像して、たまらなくみじめな気分になった。

 イノシシなんて野生の豚じゃないか。それなのに、オレ、こいつから逃げることもできないんだ。

 ミニ姫の力も借りられない、貴さんや風汰の協力も得られない。オレ独りの状況じゃあ、こんな地味な相手にすら歯が立たないんだと、痛感した。


 その瞬間。


 ごえ、って感じの詰まった悲鳴が聞こえた。そして頭が解放された。

「……?」

 おそるおそる身を起こすと、すぐ目の前に大きな固まりがあるのが、なんとなく見えた。


 …………。

 …………。

 ああ、わかった……。


 おじさんが、イノシシらしいものを頭上に抱えあげていた。

 そしておじさんは、そのままそいつを地面に叩きおとした。


めんでぇよかったぁ」

大きな手がオレの二の腕をつかむ。

「シシぁしつこいけえ。おんなら命ぃられることもある」

そう言いながら、オレの体を引きあげる。


 …………。

 …………。

 ……………………。

 ……………………。


 ……オレは何も言えなかった。

 ……ただおじさんについて歩いた。


 室の入口にい入るときに、それでも一言だけ、尋ねてみた。

「オレ……おじさんのこと嫌いって言ったのに……入っていいの?」

って。

 そしたら。

 先にもぐりこんだおじさんは、奥に焚かれた小さな焚き火のかたわらに腰を落としながら、

「めんどくせえやつだなぁ、おめえはぁ」

って……。

 笑った。


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