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大岩に囲まれた空間からウズメさんが顔を出したのは、オレたちが雑談に興じ始めて三〇分ほど経ったころだった。
洗濯した着物の代わりに貴さんのシャツを着込んだウズメさんは、服を濡らさないためだろう、こわごわという感じで岩の上を伝い戻ってくる。
腰巻き……っていうのかな? さっきまで身につけていたスカートみたいな布は外れていた。若干大きめのシャツがかろうじて太ももの中ほどまでを隠しているけど、これもけっこう際どい格好だった。
最後の岩から慎重に下りるウズメさんを支えながら、内心で(平常心平常心)と何度か唱える。
……油断すると、さっき見たナマ姿態が蘇ってくるから……。
ウズメさんを連れて戻ると、何やら話し込んでいた貴さんと風汰は、いっせいに顔を上げた。
そして……これも同時に、言う。
「午後になったらウズメさんの村に行こうと思うんだけど、英士くんはどう思う?」
「ウズメも家に帰してやらないとまずいし」
一瞬、体が硬直した。
え……? ウズメさんを……村に戻すの……?
だってそんなことしたら、ウズメさんは……。
…………。
……………………。
……もしかしたら、オレが椿の話なんかしたせいで、貴さんと風汰は勘違いしたんだろうか……。
オレがもうウズメさんに執着していないと思い込んで、ウズメさんを手放してもいいと判断してしまったんだろうか……。
「ちょ、ちょっと待ってよ。村になんか行けるわけないだろ。ウズメさんがどうなるのかなんて、二人にもわかるはずじゃん」
オレは慌てて間に入って、風汰と貴さんを説得し始めた。
「オレはこの世界にいるうちは……じゃなくて! ウズメさんがちゃんとした生活ができるまでは、ウズメさんから離れる気はないからな。せっかく、やっと少し会話もできるようになったのに、順調に回復してる人間をどうしてそんなに簡単に切り捨てられるんだよ!?」
貴さんはいつも、オレがウズメさんに引きずられて損をするんじゃないかと、心配する。
風汰は、オレたちが未来に戻るためにウズメさんが邪魔になると、考えている。
それはわかるけど……、でもじゃあ。
ウズメさんのためになることは考えなくてもいいってことかよ……。
「違うって」
と風汰が苦笑しながら手を小さく振った。
「ウズメの村に行くのは、オレたちも一緒に、ってこと」
ってつけ加える。
意味がわからなくて貴さんを見たら、こっちも困ったように笑いながら、
「僕たちって信用がないね」
と前置きしてから、
「ウズメさんのような女性連れだと、山での暮らしには限界があるだろ。僕たちだって、いまは夏だからなんとか凌いでるけど、寒くなれば生きていけない。だから、いまのうちに、ウズメさんの村に保護してもらうんだよ」
って言った。
は?
え?
「ほ、保護……?」
あの村に……オレと風汰をサルヒコの餌にしようとした連中のいる村に……保護してもらう……?
「そんなこと、できるわけ……」
と返しかけたら、貴さんに遮られた。
「まあ聞いて」
って。
貴さんの話はこういうことだった。
「考えてみてよ。ウズメさんは、村に帰れない理由はないだろ? キスケにここまで連れて来られただけなんだから。結果的にキスケがサルヒコに食べられてしまったから戻りづらくなってるだけで、ちゃんと説明すれば、ウズメさんに非がないことは村の人にも充分にわかってもらえるはずだよね」
オレがウズメさんを帰したくない理由……。
それは、……村での冷遇を続けさせたくないってのももちろんだけど、一番の心配は、キスケの不在が彼女をまずい立場に追い込むかもしれない、ってことなんだ。
守り本尊と崇められていたキスケは、村では貴重な人材だったんだろう。そのキスケが死んで、お荷物の扱いをされているウズメさんが生きて帰れば、どういう目に遭うかは自然とわかる……。
貴さんは続ける。
「ただ、いくらウズメさんの立場を僕たちが弁護したからって、僕たち自身が何の力も持ってなかったら、けっきょくはウズメさんの立場も弱体化させてしまうよね。だからさ、僕たちも自分を売り込むんだよ」
「……売り込む?」
貴さんの企みがぴんとこなくて首をかしげたオレに、今度は風汰が、オレの顔を指差しながら、言った。
「キスケが死んだいま、村には守護神がいなくなったわけだろ? だから、お前がキスケの代わりをするんだよ」
「……ちょ、ちょっとなに言ってるのかわかんねーんだけど……」
風汰の指をつかんでねじ曲げながら、オレは……なんだかろくでもないことを提案されているような気がして、冷や汗をかいた。
この世界はまるで戦国時代の日本だ。刀を持った人間があたりまえのように闊歩し、着物を来た連中がデフォルトみたいになっている。
将軍の名前が、足利、っていうところからも、室町時代だと思って間違いはないだろう。
戦国時代と言えば、オレのイメージでは、応仁の乱(※一)以降、男なら誰も彼もが武装している気がする。農民から武士になった足軽(※二)なんて、最終的には豊臣秀吉っていう関白(※三)にまでなっているんだから。だから、田んぼや畑仕事をしている人だからといって、油断していい相手とは違う……。
……守り本尊のキスケは、何から村を守っていたんだろう……。
あいつは、サルヒコにはとうてい敵うやつじゃなかった。だけど人間相手ならそこそこにやりあえる力を持っていた。
つまり……キスケは、戦国時代の兵士化した男たちと闘う役目を負っていたんじゃないだろうか……。
そのキスケの代わりをする、なんてこと……。
「……オレにできるわけねーじゃん……。オレ、武道も何も習ったこともないんだぜ」
貴さんと風汰に不安を伝えると、二人は顔を見合わせて、
「だって、他に適任者がいないんだから」
と軽くあしらった。
それから貴さんが補足する。
「僕はこのとおりの体だから、とうぜん無理だよね。星野くんも、君より運動神経はあるけど、度胸の面で不適任なんだ」
風汰が、若干バツが悪そうに頭を掻きながら、
「オレさあ、喧嘩して相手に憎まれたりするシチュエーションって、考えるだけで動けなくなるんだよ。それにこの世界の喧嘩って……斬り合い、だろ? 無理無理」
と続け、さらに貴さんが、また風汰の説明を補った。
「星野くんは、どうも、血液恐怖症があるらしいんだ。血液っていうか……生き物が死ぬことへの恐怖が強い、っていうのかな。君がスズメを絞めたとき、星野くん、手が出せなかっただろ? 実は、あのあと僕がスズメの内臓を開いたときも、気分が悪くなって川に吐きに行ってたんだよ。お椀が流れてきたのを見つけたのは、その状況での産物なんだ」
え? でも……。
風汰は、キスケに刺されて血まみれになっていたオレを川から救い出してくれたりしなかったっけ……って、思った。
そして、改めてやつの行動をふり返る。
キスケの戯れで胸を突かれたとき、瞬間に固まってしまった風汰の体。
あれは、思わぬ攻撃を受けて身が竦んだわけじゃなかったのか。考えてみれば、サルヒコ相手には相当に肝の座った行動を取れていた。
そっか……。キスケの悪意に萎縮したのと、自分の血を見て動転した結果だったんだ、あれ……。
そう思って記憶を辿れば、心当たりは他にもあった。
サルヒコがキスケを食べていたとき、オレや貴さんがキスケの死体の状態を直視できたのに比べて、風汰はずっと目を背けていた。あのとき、オレたちはある種の緊張感で『死体への恐怖』を乗り越えていたけど、血液恐怖症の風汰にはそれができなかったんだ。
それに……そうだ……。キスケたちに村に連れて行かれたとき、殺されそうになったオレを風汰は必死で命乞いをして助けてくれた。あれも、もしかしたら『オレが死ぬ』っていう恐怖で取り乱していたからなのかも知れない……。
複雑な感情で思わず風汰を見たら、
「え? なに?」
ってやつは面食らった。そして、
「こういうのは気の持ちようとか根性とかで治せるもんじゃねーんだからな! そんな顔してオレに役目を押しつけようったって無理だから!」
勘違いして慌てて弁解する。
「……違うよ。そんなこと思ってない」
溜息をついて、オレは、風汰にはキスケの代わりは務まらないことを認めた。
「お前って、思ってたよりずっと優しいやつだなあ、って、感心してた」
と伝えると、
「……はあ……?」
って間の抜けた返事が返ってきた。
風汰が捕ったヤマメ二尾を、
「さっそく昼食の材料にするよ。午後に向けて気合を入れてもらわないとね」
と笑いながら持ち帰った貴さんは、自分は煮炊きできる焚火の場所へと向かい、オレとウズメさんには、
「移動の準備をしておいて」
と室に行くように指示した。
風汰は貴さんについていくらしい。
「食材も確保した功労者なんだし、ちょっとは休んだら? 僕のほうに来ればそこそこの重労働が待ってるよ」
と労う貴さんに、
「やだよ。松田とウズメの仲に割って入るのって、すげー居心地が悪いんだぞ」
なんてぼやきながら、オレと一緒に軽作業をするほうを拒む。
……そんなにウズメさんといちゃついていたかな、オレ……。
ミニ姫まで連れて行かれちまって、本当に二人っきりにされたオレは、気恥ずかしさになんだか居たたまれなくなって、一人でさっさと行動し始めた。
木の洞の中からブルーシートをひっぱり出してリュックに詰める。最初はとんでもなく重かったこの荷物も、いまでは、使いきった電池を捨てたり、調味料を減らしたりして、三分の二ほどに嵩を縮めていた。
ふと目に止めた携帯用の斧をひっぱり出す。
ステンレス鋼の刃はさすがにもっているけど、ナイロン樹脂の柄には大きな切れ込みが入っていた。キスケとの戦いで、長刀に斬られた痕だった。
……キスケの代わりをする……。
あの一三〇センチもある日本刀を器用に振り回していたキスケが目に浮かぶ。
……できるんだろうか、オレ……。
室の脇に隠してある刀のほうを見て、また不安になって、溜息をついた。
そのとき。
ウズメさんがオレの横にしゃがみ込んで、指で斧の疵をなで始めた。
「私はお前にとって邪魔になるのだな」
小さな抑揚のない声が、表情を殺した横顔から漏れる。
「私が救ってもらいたいなどと思えば、お前は重荷に感じてしまうのだろ?」
白く作り物のように固まった顔立ちの中で、唯一、長い睫毛が瞬く。
そしてウズメさんは、目を閉じると、痛々しいぐらいの無理な微笑みを浮かべた。
「いまなら私は元に戻れる。心をなくしてしまえる。お前のいなかったころと同じになれる」
だからお前は自由になっていい、って、見開いた目で地面を凝視しながら言うウズメさんは、まるで斧の柄のようにぱっくりと傷口を開けた姿に見えた。
血液恐怖症の風汰は、肩に穴を開けて血にまみれていたオレを、弱音も吐かずに助けてくれた。
「ウズメさん。オレね」
ウズメさんの手から刃物をそっと取り上げながら、言った。
「オレね。理想の自分になりたくて、自分からこの世界に来たようなもんなんだ」
姉貴に怒鳴られながら自信をなくしていた、向こうの世界での日々。
好きな相手に声もかけられずに自己完結で諦めていた、元の世界での日常。
武内宿禰の廃村を見つけて、人知れずの達成感を味わえたら、その鬱屈の片鱗でも解消するんじゃないか、と期待した。
けど、いまオレが望んでいるのはそんなちっぽけな自己満足じゃなくって。
「オレね、理想の自分になるためには、ここでウズメさんを見捨てたら駄目なんだ。せっかくチャンスを与えてもらってるのに、それをふいにしたら駄目なんだよ」
だから、ウズメさんを守っていきたいっていうオレの希望、叶えてくれる?
そう尋ねると。
……ウズメさんは、目を開けたまま、ぽたぽたと涙を地面に落とした。
こんなに我慢すんなよな……って言いかけて、やめた。
ウズメさんを本当の意味で救うのは、慰めの言葉じゃなくって、午後からのオレの行動だって、やっと自覚をしたからさ。
※一 一四六七年から一〇年に渡って起こったと言われる国内最大級の内乱です。この乱以降、主に武士しか持たなかった武器が市民にまで出回り、農民から僧侶までが戦争に従事するようになりました。
※二 『足軽』の本来の身分は雑兵、つまり、戦闘には直接関わらずに、戦の準備のために、土木を整えたり、武具の運搬などを担当していた人々です。けれど、応仁の乱は一〇年という長い歳月を混迷したために、最終的には農夫まで兵として駆り出される結果となりました。
※三 『関白』というのは天皇と協議をして政治を行う役職のことです。軍人であった武士は日本の最高権力者である皇位を賜ることができません。そのため、この『関白』を始め『太政大臣』『征夷大将軍』の官位を授かることが最高の名誉とされていました。




