2
「松田と貴史って前にも増して気持ち悪くねえ?」
オレの目の前でまったく遠慮することなくそう言い放つのは、二年まで同じクラスで親友だった星野風汰だ。
「なんか放課も弁当んときもいつも一緒じゃん。しかもあれ……ちょっと聞いたんだけど、貴史の要望で、お前ら、席も隣同士になったんだって?」
サッカー部で真っ黒に日焼けした顔をしかめたあと、筋肉質の肩をすくめる。
貴さんから椿の絵を譲り受けた二週間後。
明後日から夏休みに入るというタイミングで、隣のクラスからわざわざ忠告に来たこのかつての親友に、オレはかろうじて、
「……『前にも増して』は余計だ……」
と反論した。
ぜんぶ事実なだけに言い訳もできない……。
『かつての親友』と言ったけど、風汰とは別に現在仲違いしているとかいうことじゃない。もともと同じ文理系にいながら、なんとかクラスで一〇位以内を保っていたオレと毎回下位の風汰では勉強の仕方も違ったし、なにより帰宅部のオレと熱血サッカー野郎の風汰は学生生活のリズムが合わないんだ。
だから三年になってクラスが分かれ、オレが貴さんに付きまとわれだしたころから、風汰との関係は自然消滅的に希薄になっていった。オレはそれでぜんぜん構わなかったし、風汰もこだわってはいないと思ってたんだけど……。
「貴史ってやっぱ非常識なんだよなあ。ちょっと……何?……コツニクガン……になったからって、学校でまでわがまま放題しなくてもいいのにさあ」
「骨肉腫」
貴さんの非常識さは十二分にオレも体感しているし、それを非難する風汰の言い分もよくわかる。ただ、貴さんの病気に対して野次を飛ばすような真似は(人としてどーよ?)とも思うから、病名だけは正しく訂正しておいた。
「コツニクシュ」
素直に繰り返してから、また風汰は貴さんの中傷に勤しみはじめる。
「とにかくオレは貴史は嫌いだ」
風汰の性格からして、貴さんと合わないのは、もともと予想できた。
風汰は、インテリっぽい雰囲気の……特に体育会系じゃない頭脳派の人間を軽蔑している。
「どうせ頭でっかちの役立たずだろ、そういうやつって。口より先に体動かせっつーの」
と。
そしてオレは、出会ったばかりの一年のころ、風汰の二番めに嫌いなタイプの人間だった。
「なんでもかんでもハイハイ言ってて、けっきょく、お前って誰の話も聞く気ないじゃん。そういうのって、オレらもお前に対してどーでもいいやつって扱いになるんだぜ」
って。
オレの家は、父さんが早逝したせいで、かなり貧乏な暮らしをしていた。
あんまり逞しくはない母さんは、本当なら体力的に生活保護を受けられる立場だったんだけど、
「あんたたちにテレビの一つも見せてあげられないんじゃあ可哀想だものね」
とオレと三歳年上の姉ちゃんに言っては、パートの掛け持ちをして生活費を稼いでいた。
当時は生活保護を受けるとテレビを買ってはいけないと思われていたんだ。
そんな生活の中、小学校低学年のころのオレは、家庭事情を少しも省みることなく、友だちのように遊びに連れて行ってもらえる環境じゃない自分を嘆いていた。近場のテーマパークに季節ごとに出かけるという同級生の話題を上げては、
「なんでうちはどこにも行かないの? 学校で話が合わないじゃん」
と母さんを責めた。
いま思い出しても最低だと自分をぶん殴りたくなるけど、そのころのオレは母さんを恨んでいた。友だちと同じ娯楽を与えてくれない親を(オレにいじわるしているだけなんだ)と思い込んでいた。
だから、ちょっとした復讐のつもりで、友だちを誘って近所のアパートの駐車場でサッカーをしたんだ。若い入居者の多いワンルームマンションで、停まっている車はこだわったものが多かった。
オレは知っていたんだ。そういう車に傷をつけると大きなトラブルになることを。
友だちの蹴ったボールが丸っぽいボディの青い車の窓ガラスを割った。パニックを起こす彼らを、オレは笑って庇った。
「いいよ。オレが弁償するから」
オレのくだらない見栄のために、母さんはパート収入の半分を失った。ふだんは大らかに、
「あんたたちのためなら多少の苦労なんか目じゃないから」
と言ってくれた人が、あのときばかりは寝込みながら、
「もうだめかもね……」
と呟いていた。
オレは……怖くなったんだ。
つくづく最低なやつだと思うけど、母さんが参ることで、オレの人生が破綻すると恐れたんだ。
だからオレは友だちと距離を置くようになった。生活レベルの違う連中と一緒にいることは自分を見失うことだ。そう肝に銘じたから。
風汰に指摘されるまで、そんな決意から自己を改造していたことさえ気づかなかった。何にでも異議を唱えずにいれば、友だちになる気のない連中とも、完全な決別はせずに済む。なんとなく集団にぶら下がって、なんとなく孤独から逃れていたんだ。
「透明をめざす奴は、けっきょく、勝手な色メガネで見られるんだぞ」
……この風汰の言葉は効いた。
オレは器用に人間関係を立ち回った気になっていたけど、みんなが見ているのは真実のオレじゃない。他人の都合で勝手なポジションに置かれて、勝手な妄想をされている、無味無臭の自分。
オレは、風汰に、あの駐車場でのサッカーの件以来、初めて、
「誰か……オレのことをわかってくれるやつって……いないかなあ」
と期待した。
風汰は、
「はあ? それが本音なの? お前ってやってることと本心のギャップが激しいねえ」
と呆れながらも、
「任せろ。馬鹿は嫌いじゃないからさ」
と請け負ってくれた。
貴さんと仲良くなったぐらいで、風汰との縁が切れるはずはない。それは重々承知だけど、貴さんと風汰がいがみ合うのは、オレとしては居心地が悪かった。
っていうのも、貴さんとオレとの関係は、そろそろ貴さんの一方的な押しかけから脱しつつあったからだ。
オレは風汰にも椿のことは話していなかった。風汰は、優しいし、空気も読めるやつだけど、目標に向かっては迷いなく突っ込んでいくタイプ。片想いの相手の話なんかしたら、間違いなく、
「告れ告れ。オレがお膳立てしようか?」
とせっつかれるに決まっている。
体当りして玉砕してもいい相手なら、オレも風汰の勢いに乗っかれただろうな。でも椿はそういう対象じゃないからさ。失敗して嫌われるぐらいなら、いまみたいに教室の端と端でなんとなく繋がっているぐらいのほうがいい。
「英士くんはいすゞちゃんのことを崇拝しすぎてるんだよ、きっと」
貴さんはふとした隙間にオレに椿の話題を振ってくる。
「接近したときのいすゞちゃんの反応が怖いのは、いすゞちゃんが君のことを眼中にもしていないと気づかされるのが怖いってことなんだろ? 君は本当はいすゞちゃんに存在を認めてもらいたいんだよ。君にとって、いすゞちゃんはただの恋愛対象じゃなくて、もっと親密な、例えば家族になりたいぐらいの相手なんじゃないのかい?」
家族になりたい、という表現は、オレにはピンとこなかった。結婚まで考えているか、ということなら、返事はノーになる。
オレはただ椿と一緒にいたいだけだ。あいつの声を聞けるのはオレだけでありたい。あいつの顔を見るのも、あいつのことを考えるのもオレ一人にしたい。
結婚っていうのは、同じ家には住めるけれど、椿には椿の自由になるエリアが残ってしまうだろう。オレはそれすらもなくしたいんだ。
「違うよ、貴さん……。オレ、椿を前にすると、ストーカー……つか、ちょっと危ない方向に行っちまいそうなんだよ。だから近寄るのが可哀想なんだ」
そんなふうに説明すると、貴さんは、
「ふうん」
と曖昧に頷いた。それから、
「じゃあまだ告白はしないほうがいいね。そのうちに英士くんも落ち着くだろうから。それまで、誰かに取られないように、いすゞちゃんのことはちゃんと見張っといてあげるよ」
と微笑った。
見張ってても取られるときは取られるんだろうと、半ば覚悟はできているんだけど、貴さんのこのゆるい応援は、意外なことに、オレにとってちょっとずつ力になってきている。
椿のことを気兼ねなく話し合える友人。オレにとっての貴さんのポジションは、だから少しずつ変化してきたんだ。
両極的な風汰と貴さん。オレは……まだまだ風汰に叱られた当時のように優柔不断のままなのかもしれない。でも、この二人のどっちかを切るとか選ぶとかは……ちょっと無理っぽいんだな……。
「ま、いいや」
元来後腐れしない性格の風汰は、口をつぐんだオレへの追及を、いつもどおりあっさり切り上げた。
「いくら貴史と仲がいいっつっても、まさか夏休みまで一緒にはいないだろ。高校の最後なんだし、金かかんないとこでいいからどっか遊びに行こうぜ」
「サンキュ。金がかからないってのが一番助かる」
オレんちの財政状況に配慮してくれる風汰にほっと頬が緩んだ。
こいつはこいつで、貴さんほどじゃないけど、気働き……というか、妙に気の利くところがある。
風汰の家は、
「ガキのころからいろんな習いごとやらされてうんざりなんだよ。いまは塾一本になったからサッカーやれるけどさあ。でも、こういうオレが、塾通いもできなかったお前に成績で負けてるってどういうことだよ」
と風汰自身が言うように、比較的余裕のある……つうか、ふつうの金銭感覚の家庭らしい。活動の場を学校の部活動に限定しているサッカーも、月一ぐらいで他県への遠征があるとかで、
「宿泊費ぶん働け! とか言われて、昨日も皿洗いやらされてんだぜ。しかも勉強もしろとかで、BGMが姉貴の買ったセルフラーニングの英会話のCD。聞いてるだけで英語が喋れるとかって言うけど、あれ、嘘だよな」
とこぼしているほど出費は激しいみたいだ。
オレのほうはオレのほうで、高校入学時から、パソコンや電子辞書や腕時計なんて負担の大きい物資を揃える必要に迫られた。だから学校に内緒で派遣業務に登録をしている。
土日を使って工場内に入るタイプの仕事だからまずばれる心配はないけど、バイト厳禁の桂川学園でヘマをしたら、下手すりゃ退学もありえる。だからこのことは風汰にも貴さんにも言ってない。
夏休みかあ。
たぶん、派遣のシフトをフルで入れることはない。急に補習が入ったり、就職希望のオレは企業の都合で呼び出される可能性もあるからさ。基本は今までどおり土日勤務。
だとしたら、平日の空き日は風汰とどこかに行くことぐらいはできる。幸い、いまのところ金銭的にも余裕はある。
「どこに行こうか」
いつもはまず断りの姿勢を見せるオレがこう答えたから、風汰はちょっと驚いた顔をした。
「おっ、珍しいじゃん。今回は引きこもりやめるんだ?」
風汰は長期休みのたびに学校関係と連絡を断つオレを、半ば本気で引きこもりだと信じていた。
「だって就職したらもう夏休みなんかないだろ。少しぐらい羽目を外しておきたいよ」
「……お前ってときどき可哀想な奴になるなあ……」
特に同情を誘ったつもりはないけど、風汰は、自分が進学を目指しているって立場もあるからか、オレを過剰に憐れんだ。
「よし! そういうことなら松田の好みに合わせよう。行きたいところを言ってくれ。計画立てるから」
日焼け顔に白い歯を見せて笑う風汰に……。
「……ちょっと待て。オレが場所決めるの?」
オレは困って聞き返した。
仕事場と学校と家。オレの行動範囲は狭い。
交通費のかかる遠方はあえて興味の外に置いてきたし、近場の遊戯でも高校の連中とレベルを合わせれば出費は免れない。
そんなオレが即座に『行きたいところ』なんか思いつくわけもない。
オレは風汰に、
「ごめん。どこでも付き合うから風汰が決めて」
と決定権を譲った。
「えー? せっかく松田のために計画しようと思ったのにー」
不満顔のやつは、それでも心当たりを思案する。
「サッカー部で行ったあそこは遠いしなあ……。カラオケとか興味ないしなあ……。オレの塾に行っても仕方ないし……」
……けっきょく、風汰も別の意味でオレと同じレベルだったみたいだ。
就業後のわずかな時間にオレの元に寄っていた風汰は、
「あ、やべ。そろそろ部活行かないと。明日! 明日行き先決めようぜ。また放課後にここ来るわ」
と、来たときと同じく、慌ただしく去っていった。
「よろしくー」
おざなりにやつを送り出して、オレもカバンを引っ掴む。
貴さんの姿を見なかった。いつもこの時間は、教室で女子に囲まれているか、職員室で先生と話しているかの人だから、特に気にも止めないけど。
どこかに行く、かあ……。
何をやるにも制約を受けるオレにとって、いつもと違う行動をすることは、なんだかひどく開放的な行為の気がする。
「でも帰るときが嫌なんだよなあ……」
楽しいときが終わるあの絶望的な瞬間。次にこんな時間を持てる幸運はもう来ないかもしれない。今日が最後かもしれない。そう落ち込むあの瞬間。
オレはどんなに逃げたくても戻らなきゃならないんだから。この鬱屈とした日常に。
またそっと胸ポケットに手を当てた。
ちょっとだけ心臓が痛い。
椿とのこともそうだ。
椿に告白して、もし万一付き合えることになって、……そしたらどうなる?
オレはきっとすごく嬉しいと思う。達成感と高揚と、そしてこの我慢からの解放に浮かれると思う。
けど椿は永遠にオレの椿にはなってくれない。いつかはオレから離れていく。
きっちりとした別れじゃなくても、心の一部が剥がれただけで、オレはきっとこんなふうに不安になるんだ。楽しい時間を終わらせたくない。元の境遇に戻りたくない。椿を離したくない、って。
かさっと小さな音がして、我に返った。手の中で生徒手帳が握りつぶされている。
……やっぱ駄目だ。
オレ、マジで危ない。いまはいろんなことを抑えこむのに慣れているから平和だけど、一回タガが外れたら、たぶん、何かしでかす。
…………。
……………………。
大きく溜息をついてから、手に持っていたカバンを肩まで引き上げた。
帰ろう。
明日、風汰には断りを入れよう。わかってくれる、きっと。オレは自分の世界を乱されたくないんだ。
うつむいたまま一歩を踏み出した。
そこに足があった。
オレの進路上に、当然のように邪魔をするやつがいた。
「お待たせ」
オレが待っていて当たり前のような顔をした貴さんは、ごく自然に、自分も机に残していたカバンを手にかけると、
「星野くんとの話は終わってたんだね。彼は僕のことを気に入らないみたいだから席を外してたんだ」
と笑いかける。
オレも笑って、
「お気遣い、どーも」
と返した。
そのあと……。
「あのさ、貴さん……」
と続けた。
オレの立場、わかってくれよ。この際、貴さんでもいいよ。オレが何を心配して、何を避けているのか、オレに教えてくれよ。
オレは混乱している。自分の正体がわからなくなっている。
オレは誰かに答えをもらいたかったんだ。
だから、このわがままでマイペースでエロくてしょうもない先輩に、聞いた。
「オレって……異常かな……」
貴さんは、大して驚きもせずに小首を傾げたあと、
「僕に比べて、ってこと?」
と聞き返した。
「そこまでハイレベルな答えは求めてない」
オレはなんとなく力が抜けて、脇の机にもたれかかった。
「僕に比べたら何もかも正常だよ」
貴さんは言った。
そしてそのあと。
「僕も根深い狂気を持ち合わせてるからね。それに比べれば英士くんはまだ初心者だよ」
と改めて保証してくれた。
……ははは。……そっか。
貴さんは……この余計なところで妙な勘をよさを働かせる先輩は、オレの悩みなんかとっくに見抜いていたらしいや……。
なんとなくバツが悪くてうつむいたままのオレに、先輩は、軽くカバンでどつきながら、
「帰ろっか」
と促した。
オレはもう一度だけ、
「オレ、異常じゃないよね?」
と確認した。
今度も貴さんの答えは、
「もちろん」
だった。