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天外の隣国  作者: 小春日和
われわれのすべての災禍は、我々がひとりきりではいられないことに由来する。
29/38

 オレと風汰に痛覚が戻ったのは、風汰がその日の午前中、オレが正午ごろだった。

 木のむろに敷かれたブルーシートの上で、思った以上の激痛に脂汗を流しながら耐えていたら、こっちはまだ余裕がありそうな風汰が、

「ふだんの鍛え方の違いだな……ってて」

と顔をしかめながらもからかってくる。

「重傷度の違いだ……っ……つつっ……!」

反論したら、

「さっきと言うことが間逆じゃん」

と返された。

 それ以上、返事を考える余力もなかったオレは、沈みそうになる意識の欲求に従って、風汰との会話を手放した。


 ……熱が出てきたみたいだった……。

 薄暗い室の中で目を覚ましたら、風汰の姿が消えていることに気づいた。

 体が冷たい。頭はぼうっと熱いのに、内側にばかり熱がこもって、外に逃げてくれない感じだ。

 喉が渇いたと思って首を巡らせたら、頭の上のほうに鍋が置いてあるのを見つけた。這い進んで見てみると、飲水に耐えられそうな濁りのない清水が入っている。

 ……そういえば、貴さんが言っていた。

「熱が出るかもしれないから、脱水には気をつけるように」

って。

 ……すごいなあ。この気配り……。

 なんだかちょっと感動した。

 ……そういえば、オレ、こんなふうに、してもらいたいことを先んじてしてもらうのは、初めてかもしれない……。

 ありがたく水をもらって、また転がる。

 みんながいてくれて、よかった……。

 独りにされなくて、よかった…………。


 夢うつつの中で、昔の記憶が形を結んだ。

 古い公営の集合住宅に住んでいたときの光景だった。六畳間の中に、テレビや父さんのいる仏壇や座卓なんかが詰め込まれた、狭くて雑然とした居間の中。

 あまり病気になるほうじゃなかったオレだけど、小学校のある年、ひどいインフルエンザにかかったんだ。熱が四〇度近くまで上がって、起き上がることもできない状態に陥った。

 同じ病気を患ったクラスメートが、復調してから、学校で自慢気に吹聴していた。

「もうすぐ入院になるとこだったんだって。でもお母さんがずっと看病してくれたから、病院には行かずに済んだんだよ」

 オレは一人っきりで苦痛に唸りながら、その話を羨ましく思っていた。

「お母さんは仕事に行かないといけないから」

発病初日に診察に連れて行ってもらってからすぐ、母さんは仕事に戻っていった。中学に入ったばかりの姉貴は、

「あんた馬鹿じゃないの! 母さんの邪魔にしかならないんだから、本当に迷惑なやつだよね!」

と罵りながら学校に行った。

 衰弱しきっていたのに、心細くて泣く体力だけはあったことが、回復したあとになって可笑しく感じられた。


 ……母さん、姉貴……。

 ぼんやりとした頭で考える。

 ミニ姫の力で元の世界に戻れるかもしれないと、貴さんは言った……。

 オレ……戻りたいのかな……。

 この世界は、たしかに、長居するには厳しい……。

 ストレスばかりの元の世界のほうが、まだましな気もする……。

 でも……。

 ……母さんと姉貴には、まだ会いたくない気も、してしまう……。


 ひんやりとしたものが顔に触ったのを感じて、オレは、再度、寝入っていた意識を覚ました。

 さっきよりもさらに暗くなった室の中で、すぐ脇に、人の輪郭が座り込んでいた。

「……ウズメさん?」

オレの額に手を当てながら覗き込むウズメさんらしき影を認めて、そう尋ねる。

「もうすぐ夜だ」

ウズメさんは短く答えて、室の入り口から見える宵闇のほうを指さした。

 そっか……。けっきょく、一日何もできなかったな……。


 じくじくとした罪悪感がせり上がってきた。

 先にここから抜けだした風汰は、もう動けるようになったんだろうか……。

 朝のいたずらから眠りっぱなしだったミニ姫は、もう起きて、貴さんや風汰を和ませているのかな……。

 未だに体の自由が効かないオレのことを、……でもウズメさんは邪魔だと言わない……。嫌な顔一つもしない……。

「迷惑……かけてごめん」

謝ると、なんだか、生きているのが申し訳ないぐらい、いたたまれない気分になってくる。

「明日には治すから、その……もうちょっとだけ休んでていいかな……?」

我ながら甘えが過ぎると思うけど、はっきりとは非難しないでくれると期待して、頼んだ。

 ウズメさんの冷たい手が、今度はオレの頬を包む。

「心を知るには、触れるのが一番いい」

独特の言い回しを返して、……このひと、ときどきこんな顔をするけど、どういう意味なんだろう……優しそうに微笑ったウズメさんは、続けてこう言った。

「お前も心が欲しかったのだな」

って。

 

 …………。

 ……………………。


 ……そう、なんだろうな……。

 ウズメさんの言葉を反芻して、オレは、オレの中にしぶとく居座る『抑圧への抵抗』みたいな感情に、理屈をつけた。

 姉貴は、このインフルエンザの件以外でも、しょっちゅうオレの存在を否定した。姉貴よりも年下で手のかかるオレを、

「英士なんかいなきゃいいのに!」

ってことあるごとに非難した。

 母さんはそんな姉貴を、

「お母さんがちゃんとしていないせいで心配ばっかりかけてるから、イライラしてあんたに当たっちゃうのね」

ってかばっていた。

 母さんを頼りに思っていたオレは、母さんの言葉には逆らえずに、姉貴にもほとんど反抗はしなかった。

 けど……。

 いつもいつもオレが悪いと決めつける姉貴に、心が従っていたわけじゃない。従わなきゃいけないと、無理に本心を抑えつけていただけだ。


「……ウズメさんは母さんに会いたいんだよね……。でもオレは……会いたくないんだ……」

母親を亡くしたウズメさんにこんなことを言っていいのか迷ったけど、熱での戯言として、聞き逃してもらうことにした。

「本当ならさ……。辛いときや心細いときって、真っ先に思い出すのは家族だと思うんだよ……。それがあるから、人間って歪まなくて済むと思うんだよ……。でもオレね……」


 こんなときでも、オレの、本心、は、こう訴える。

 ……オレ、こんな姉貴と母さんじゃない家族が欲しかった、って……。


 自分の考え方が、あまりにも利己主義で非人間的なもののような気がして、さすがにこの一言は口にできなかった。

 代わりに、黙ってオレの言葉を待っていてくれるウズメさんに、こう伝える。

「……オレね、……きっと、もうどっかおかしくなっちゃってるんだよ。寂しくなっても家族に会いたいとは思えないんだ……。だからね、オレ、もう心を渡せる相手がいないんだよ」


 ウズメさんの顔が、ゆっくりと近づいてきた。

「私の母はサルヒコの元に行ってしまった。母の心が欲しくても、私にはもうどうすることもできない」

茶色の透きとおる瞳でオレを見据えながら、そう言う。

 ……オレは、頬に当たっているウズメさんの手に、自分の手を重ねた。そうすることが一番自然だと、なぜか思えた。

 ウズメさんは、唇をオレの口元に寄せながら、また言葉を継ぐ。

「母を失くしてしまった私は、お前の心がわかる気がする。お前には心のない母しかいなかったのだろ? それなら私と変わらない」

 ……ウズメさんの髪をなでて、……それから、少しずつ彼女の頭を押し下げた。

 ……昨日は焦ってばかりだったけど、ウズメさんとのキスは……正直、嫌じゃない……。


 目を閉じると、ウズメさんの吐息を熱く感じた……。

 彼女がときどき見せる優しい表情が、まぶたの裏いっぱいに広がった……。


 ……その瞬間。


 ぐんにゃりと世界が歪んだ。

 不機嫌そうな少女の声が、

「エイシのバカ」

って罵倒した。


「わ! 待て待て!」

ミニ姫の強硬な転移に、オレは慌てて目的地を定めた。

 朝の状況を考えるなら、同じ場所に戻ってくるのはリスクが大きい。ミニ姫はすぐそばにいるはずだ。オレの体で押しつぶしてしまうかもしれない。

 もうすぐ夜になる、と、ウズメさんはさっき言っていた。ってことは、貴さんあたりは、また焚火のそばにいるかもしれない。

 貴さんのところに向かおうと、イメージを集中する。


 ぐんぐんと引っ張られる覗き穴の外に、火を起こしている貴さんの姿が映り始めた。

 他の人影がないことを確認してから、着地の態勢に入る。

 ……よし。大丈夫。うまく地面に下りられそうだ。

 貴さんと焚火に突っ込まない位置を見定めたオレは、足からその場所に飛び込もうとした。


 ……でも。

 そこで、ぎょっと、する。


 オレの横にウズメさんが一緒にいたんだ。


 オレと手を重ねながらこの空間に揺らいでいるウズメさんは、驚いたように目を見開いてはいたけど、パニックになっている様子はなかった。

 ただ、ちょっとだけ、オレの手を握る力が強まっている。

 ……もしかして、転移されたときにオレと接触していた相手は、こんなふうに巻き添えになっちまうんだろうか……。


 考える間にも、オレたちは現実空間に否応なく吸い出された。

 オレにかかっている吸引力に比べて、ウズメさんにはそれほどの力は作用していないみたいだ。オレとつないでいる手が、徐々にその差で引き離されていく。

 ぞっ、と、した……。

 もしかしたら、手を離した瞬間に、ウズメさんがどこかに弾き飛ばされてしまうんじゃないか、と恐怖を覚えたから。

 ……ミニ姫に転移を仕掛けられたのはおそらくオレだけだ。ウズメさんは、オレが連れていかなければ、この異空間から出ることはできないんじゃないか……?


「あの馬鹿娘……!」

ミニ姫に苛立ちをぶつけながら、オレは力いっぱいウズメさんを抱き寄せた。彼女の腰に腕を回してしっかりとホールドすると、そのまま穴に向かってダイブする。

 残念ながら、冷静さを失ったオレの体勢は、予想に反して大きく崩れた。なんとか足から着地はしたものの、すぐに平衡を失って仰向けに倒れる。

 傷の上にもろにウズメさんの全体重が乗った。なんとか悲鳴だけは抑えたけど、風汰のときと同じく悶絶する羽目になった。


 痛みを紛らわすために、ベンチ代わりの丸木まで這い寄って、しがみつく。

 ……そしたら、背中越しに、ウズメさんの遠慮がちな声がかかった。

「……ごめんなさい」

って……。

 ……い、意外……。


 ……まさか、ウズメさんから謝罪があるとは思わなかった……。

 ……謝りもしない不誠実な人だと思っていたわけじゃないけど……なんつーか……。

 ……ああ、そうだ……。


 傷口に近い位置の背中をさすってくれる彼女に、そっと、言ってみた。

「いまの……なんかふつうに可愛かった」

……そう。ウズメさんの反応があんまりにも常識的すぎて、狂っているはずの彼女らしくなかったんだ……。

 ウズメさんの手が止まった。

 けれど、またすぐに動きが再開した。

 それから、ものすごく小さな声で、……でもたしかに聞こえたんだ。

「ふふっ」

って……。


 ……ふり返っちゃいけないような気がして、オレはずっと丸木に顔を埋めていた。

 昨日の今日だけど、ウズメさんは、いい精神状態に向かっているように、思う……。


「で? 貴史はなーんも言わずに見てたんだ、それ?」

寝入ったミニ姫を連れ帰ってきた風汰が、未だに丸木に体を預けているオレの隣に、乱暴に腰を下ろした。

「ふだん、あれだけ松田にちょっかいかけてるくせに、そういうときには、か、ん、だ、い、なんだな、お前」

嫌味全開で噛みつく風汰に、火にかけた鍋をかき混ぜながら、貴さんは答える。

「僕の英士くんへの絡みは、半分は冗談だよ。それに、声をかけなかったのは、とつぜん現れたのが英士くんとウズメさんの二人だったから、状況把握に手間取ったんだ」

と。

 鍋からは出汁だしのいい匂いがした。さっきちらっと聞いたら、アナグマが罠で獲れたらしい。

 今度は貴さんから風汰に応酬が行った。

「それよりも、僕から見たら、星野くんのほうが英士くんに過干渉になってる気がするんだけど? 君の行動は、まるで英士くんの兄か母親みたいだよ。もう少し手を離してあげてもいいんじゃないかな」

「オレはこいつの面倒を見るって宣言してあるのっ」

風汰がムキになって反論する。

「高校に入ってすぐのころに、そういう約束をしたんだよ。貴史なんか影も形もないころに! だから、お前とオレとは立場が違うわけ」

「下心は何割ぐらい?」

「そんなもん、かけらもねーよ!」

 なぜかかけあいが成立した会話に、オレは思わず吹き出した。

 そしたら、風汰の拳が頭に飛んできた。

「元はと言えば、松田が無節操なのが悪いんじゃねーか! 昨日はウズメのこと好きにならないとか言っておいて、さっきのはなんだよ!?」

「……風汰の来るタイミングが絶妙すぎんだよ……。しかもミニ姫まで連れてきやがって……」

頭を押さえて顔を上げたオレは、……今後もウズメさんに手を出す可能性が皆無じゃないだけに……、わざとふてくされた態度で返事をしてみせた。


 オレが寝込んでいた間に復活した風汰は、でもまだ本調子じゃないということで仕事には参加せず、ミニ姫の世話を任されたんだそうだ。

 だから、暇と体力を持て余していた風汰とミニ姫は、オレの様子を覗きに何度も室まで行った。その結果がこの顛末てんまつだったらしい。

 一方で、貴さんとウズメさんは、狩りと、それから野草摘みに時間を費やした。

「ウズメさんが山野草の種類に詳しくてね。おかげでビタミン不足は回避できそうだ」

と貴さんが説明するとおり、その成果は、いま、鍋の脇で束になって置かれていた。イヌビユ、ミツバ、フキ、キクラゲ。元の世界でも聞き覚えのある食材が、形こそは大雑把だったけど、このあたりでは大量に採れるみたいだ。

 それでも、さすがに、この鰹だしみたいな香りを放っている素材が、山の中で穫れたとは思えない。

「何のだしを使ってるの?」

と聞くと、貴さんは、火の中を指さしながら、

「パッケージは燃やしちゃったけど、顆粒のだしの素を持ってきたんだ。我ながら用心が過ぎててよかったと思ったよ」

と笑った。

 ……うん。さすがだ……。


 なんだかんだで、ミニ姫を一番手なづけている様子の風汰。他にも、ウズメさんの村の連中とそこそこ仲良くやれていたっけ……。

 それに、先見の明が半端じゃない貴さん……。

 人付き合いと生活力に特化している二人に加えて、さらにウズメさんも、オレたちにとっては力強い技能を持っているらしい。

「ウズメさんの知恵は、野草だけじゃなくて、薬草にも通じてるようだよ。くず、って覚えてるかな? ここに来たときに山中にはびこってたあの厄介な蔓性つるせい植物。あれって、実は万能薬になるんだって」

皿の用意をし始めたウズメさんに対して、感謝の代わりとばかりに、貴さんはそう褒める。

 いわゆる葛粉くずこっていう、葛餅や葛湯の原料になる白い粉は、本来はあの蔓の根っこから生成されるものだという話だ。

「作り方はちょっと面倒なんだけどね。根を掘り出してから水に漬け込んで、一晩以上置く。そのさいに、アク……というか、真っ黒な濁りが出るから、それを何回も水を変えながらしていくんだ。葛粉は澱粉でんぷん質だから、最終的には底に溜まって固形化するそうだよ」

貴さんが、アナグマ汁を取り分けながら、詳細な手順を語ってくれた。

 それにつけ加えて、ウズメさんがぼそりと、

「葛には痛みを抑えたり汗を出したりする力がある。だからお前に作ってやりたかった」

とオレのほうを見て言った。

 なんだか照れくさくなって、

「あ、ありがと」

とうつむいて礼を言ったオレに、風汰が、またなぜかげんこつをくれた。


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