14
貴さんが、
「わざとわかりにくいところに設営した」
と言っていたベースキャンプは、根上がりの大木から少し村の方面に回り込んだ、これもまた大きな木の中に作られていた。
腰ぐらいの高さで二股に分かれた巨木は、その片方の幹に大きな穴が空いている。オレたちが余裕で立ち上がれるほどの上背のある室で、床はもう一方の幹の中にまで貫通しているようだった。
ブルーシートの敷かれた内部に入り込んだオレと風汰は、貴さんから借りたシャツに四苦八苦しながら袖を通していた。
「貴史、ほっそい」
肩に厚みのある風汰には、華奢な貴さんの衣服はアウトだったみたいだ。
「もうこれでいい」
とおざなりに、体を拭いたバスタオルで上半身を覆う。
オレはといえば、前ボタンを上半分外した状態で、なんとか試着を完了する。
貴さんとオレたちって、背丈は数センチぐらいしか変わらないのに、なんで幅はこんなに違うんだろう……。
改めて、学校で病弱なお兄さんだったイメージの貴さんを思い出す。
下半身は替えなかった。というより、さすがに用意周到な貴さんも、オレたちのサイズのズボンは持っていなかった。
「火を起こしておくから、悪いけど、それで乾かして」
という貴さんの進言に従って、オレも風汰も濡れそぼったままの格好で室を抜けだした。
「あの人がいなきゃ、パンツ一枚になるんだけどな」
とウズメさんの存在を愚痴る風汰に、なんとなくバツが悪くなって、
「ごめん……」
と謝ると、
「頼んますぜ、旦那」
とからかわれた。
……くそー。
……ウズメさんを引き止めておきたいと思っているだけに、風汰に反論もできないぜ……。
少し離れたところで火を焚いている貴さんの元に向かいながら、オレは、ここに戻ってくるまでに一度も顔を見なかったミニ姫の様子を、風汰に聞いた。
「なあ……。ミニ姫って何やってる?」
「あ?」
風汰は唐突な質問に戸惑ったようだったけど、
「ああ、チビなら貴史のポケットで熟睡してたぞ。子どもは寝る時間、ってね」
と、特に引っかかった様子もなく教えてくれた。
……寝てるんだ……。
サルヒコを倒したあとの「眠くなっちゃったよお」という、少女ののんびりした声を思い出す……。
ぜったいに間に合わないはずだったウズメさんの救出。
それを可能にしてくれたのは、オレの体をサルヒコの真上に転送してくれた、あの少女の能力だ。
でも……肝心のその少女に対して、オレはミニ姫にしか心当りがない。確かめようにも、ミニ姫は寝入っちまっているようだし、ウズメさんの目の前でミニ姫を取り出すわけにも行かないしな……。
生木を燃やしたときに立ち上る真っ白な煙が、すぐ近くに見えた。
入り組んだ配列を持つ木々の間から覗くと、二〇メートルほど先に、貴さんとウズメさんの姿があった。
オレたちに着替えを促したあと、貴さんは、ウズメさんだけを誘ってこの場所に移動してきた。
「彼女には先に火に当たっててもらうよ。女物の衣服は持ってないから、いま着ているものを乾かさないとね」
って言って。
オレンジの空間に、横たえた丸木に腰かけるウズメさんと、焚き火に串刺しのスズメらしいものを投入する貴さんが、見える。
かすかな会話が聞こえてきたので、オレは、風汰にジェスチャーで『止まって』と頼んだ。
ウズメさんに対して険悪だった貴さんの態度が、原因となったオレのいないいまはどう変わっているのか、ちょっと興味が湧いたからだ。
生木の爆ぜる音に混じって、聞き取りにくい声が漏れてきた。たぶん、貴さんのものだ。
「サル……コをおっ……とすると言う……とは、貴女も……じ……が……の存在だ……思っ……いい………………すね?」
どうやら何かを質問しているようだった。
対して、ウズメさんが口を開く様子はない。貴さんの顔をじっと見ながら、手を膝の上で固く握りしめている。
「……なんかやばい雰囲気じゃねえ?」
風汰がこそこそと耳打ちした。オレにも場の空気が緊迫しているように感じられた。
貴さんが場所を移動する。ウズメさんの右隣、五〇センチほど距離を取った丸木の上に腰かける。
さっきよりクリアな貴さんの声が、オレたちの元まで届いた。
「僕は英士くんたち……危険にさらすことのでき……い立場です。たとえ貴女と英士く……がお互い……ここ……とどまりたいと思っ……としても。ただ、あな……が人外であることを、そのまま追い出す理由には……ません。だから教え……ほしいんで……。貴女はサルヒコの仲間なんですか?」
「はあ? 貴史のやつ、何言ってんの?」
まず風汰が、小声ながら頓狂な叫び声を上げた。
「ウズメがサルヒコの仲間? サルヒコって猿だろ? ウズメは人間じゃんか」
と続ける。
オレは心臓がどきどきし始めた。
貴さんのセリフは、補完すると、こうなったんじゃないだろうか。『貴女が人外であることを、そのまま追い出す理由にはしません。だから教えてほしいんです。貴女はサルヒコの仲間なんですか?』って……。
ウズメさんは相変わらず返事をしない。貴さんは、ウズメさんの顔をしばらく見ていたけど、やがてふいっと火のほうに視線を逸らした。
スズメの焼ける香ばしい匂いがここまで漂ってくる……。
「そろそろ彼らがここに来ます。彼らの前で貴女の正体を追及したくはないので、いま答えていただけるとありがたいんですが」
貴さんの冷淡な言い方が、聞いているだけのオレの心にも突き刺さった。
……なぜ想像すらしなかったんだろう……。
オレたちのいまいるこの世界には、たしかに、ミニ姫やサルヒコのような常識的ではない生き物がいる。貴さんの言う、人外、が当たり前にいる世界なんだ。
ウズメさんは、キスケや猫背のおじさんたちみたいに、わかりやすい人間、ではなかった。サルヒコに食われそうになった瞬間でも微笑っていられたあの神経。それに……あの並外れた綺麗な容姿。昔話なんかでは、キツネが美女に化けたりしていたっけ……。
ウズメさんは、まだ、貴さんの横顔を見つめたまま、喋ろうとしない。
……なんで何も言わないんだろう。
……なんで何も……言えないんだろう……。
オレと風汰は、出るに出られずに、貴さんとウズメさんの静かな攻防を覗き見ていた。
「……ウズメがサルヒコの仲間だったら、なんでオレたちについてきたのかな?」
風汰がひそひそとオレに聞く。
「わからない……」
としか答えようがなかった。
……最悪のパターンとして、ウズメさんの目的が、サルヒコを倒したオレたちへの復讐だったとすれば、オレはウズメさんも手にかけなきゃいけなくなる……。
風汰もその可能性は考えたようで、
「松田、お前、キスケの刀って木のとこに置いてきちゃっただろ? 取りに戻れる?」
と尋ねてくる。
うなずきかけて。
でも、オレは泣き言を返した。
「……無理。オレにはウズメさんは斬れない……」
「本性現して猿に化けても言ってろ、阿呆」
風汰は容赦なくこき下ろした。
なにか言ってくれ。
ウズメさんに対して祈る。
それしかウズメさんを人間だと確信する方法がないんだから……。
ウズメさんが、膝で握っていた拳を、開きながら、ゆっくりと貴さんのほうに差し伸ばした。
そして、次の瞬間、貴さんの胸ポケットから、無造作にミニ姫をつかみ出した。
「やりやがった……!」
風汰が舌打ちして走りだした。
オレも、ひどく悲しい気分で、あとを追った。
ウズメさんはサルヒコの仲間なのか……。
ミニ姫を食おうとしていたサルヒコの仲間なのか……。
ミニ姫を取られた貴さんは、一瞬だけ、驚いた顔をした。
でもすぐに、オレたちが走り寄ったのを見て、まずこっちを制してきた。
「あんまり刺激すると姫ちゃんに何かされちゃうかもしれないから、遠巻きにしてて」
と。
そして、自分はウズメさんに正対して、
「その小人も人外の生き物です。でも僕たちはその子を仲間として受け入れています。だから貴女も警戒を解いてくれませんか? 貴女がサルヒコの妻だからと言ってすぐに排除する気は、僕にはありませんから」
と言った。
…………。
…………。
…………。
……いまなんつった、貴さん……?
ウズメさんは、掌に乗せたミニ姫を、じっと見ていた。
ミニ姫に動く様子はない。もしかしていまの行為で握りつぶされたのかと冷やっとしたけど、小さな身じろぎでその心配は飛んだ。眠っているだけみたいだ。
ウズメさんの顔にはサルヒコのような凶暴さはない。ただミニ姫を……なぜか慈しむような目で……見ている。
静かな態度でウズメさんの変化を読み取っていたらしい貴さんは、やがて、彼女のわずかな表情の動きに気づいたようだった。同じく、ウズメさんがミニ姫に微笑いかけたのを見て取ったオレに、
「……英士くんから声をかけてあげてくれる? そのほうがウズメさんも緊張せずにすむだろうし」
と任せてくれた。
オレは、ゆっくりと、慎重に、ウズメさんのところまで進んで、彼女の目線に合う位置までしゃがみ込んだ。
「この娘ね、ミニ姫って呼んでんだ」
そう教えると、ウズメさんは戸惑ったようにオレを見返した。
「これはスクナだ」
そう返す。
……スクナ……。
ああ、そうか……。
なんか……いろいろとつながった気がした。
「……そっか。この娘がスクナだったんだ」
ウズメさんと視線を交わしたまま、オレは、そっとミニ姫を受け取った。
ウズメさんは、オレの顔と、ミニ姫の姿を交互に見渡したあと、
「やはりお前はスクナを持っていたのだな」
と、……これもまた真意の読みきれない悲しそうな表情で、言う。
「この娘の力で、オレ、ウズメさんを助けることができたんだ」
そう伝えると、
「だが、そのせいでサルヒコは死んだ」
と目を伏せてうつむく。
……ウズメさんがサルヒコに救いを求めていたのはわかっていた。
……だから、こんなふうにオレの行動を否定されても、腹は立たない。むしろ可哀想なことをしてしまったと、思う。
ただ……。
オレは、ミニ姫を貴さんに渡して、ウズメさんの隣に移り、彼女の頭を撫で回した。
さっき、言葉による慰め方で失敗をしたオレにとって、ウズメさんへの行動は慎重にならなきゃいけない部類のものだった。これぐらいが許されるぎりぎりのラインだろう。
それでも、こんな簡単な行為でも、ウズメさんは心を開いてくれたようだった。安心したみたいにオレに寄りかかる。
「……サルヒコ、殺しちゃってごめん……」
そう謝ると、ウズメさんはわずかに首を横に振って、
「そうじゃない」
と返した。
「私はサルヒコの妻として生きてきたけれど、サルヒコの心を知っていたわけではない。ただ、サルヒコがいなくなって、どうしていいか困っているだけだ」
そんなふうに続ける。
ウズメさんの言葉は、相変わらず足りない部分が多くて、ぜんぶを理解することはできなかった。
でも。
「……なんとなく、わかる」
オレが答えると、ウズメさんは、また少し強く、身を寄せた。
ウズメさんがサルヒコに救いを求めていたのはわかっていた。
でも、オレがサルヒコを倒したことは間違っていない。
少なくとも、ウズメさんがこんなふうに微笑えるいまを否定するようなことを、オレ自身が考えちゃいけない。
……と思った……。
オレと風汰の皿に一羽ずつ焼き鳥を乗せながら、
「調味料を節約したから、塩は最低限しか使ってないけど、生臭さは緩和されてると思うよ」
と貴さんは言った。
自分は乾パンのみ、ウズメさんにも、
「これしかないので……」
って申し訳なさそうに同じものを分ける貴さんに、オレは、
「ちゃんと等分で……」
と言いかけた。けど貴さんからは、
「功労賞」
と笑って辞退された。
風汰が、これまた複雑な顔でその光景を見ていたけど、
「悪い。明日には怪我、治すから」
と宣言して、先に肉に手をつけた。
「無理だと思うよ」
冷静に突っ込む貴さんに、場の輪から笑いが湧き起こる。
大怪我を負いながら、オレたちが比較的平気でいる理由を、貴さんはこう説明した。
「興奮状態のときはエンドルフィンっていうホルモンが分泌されるんだ。強い鎮痛作用のある物質だから、いまの君たちはほとんど痛みを感じてないと思う」
そして、
「明日あたりはきっと激痛に見舞われるよ」
と苦笑しながらつけ加えた。
サルヒコを倒してから、貴さんがすぐにベースに戻ろうと言ったのは、オレたちが痛覚を取り戻す前に帰還したかったかららしい。
見えない背中の傷を四苦八苦して確かめながら、風汰が、
「いてーの、やだなあ」
といまから心配した。
「しょうがないよ。風汰なんて、一つ間違えれば死んでたんだから、痛いのぐらい我慢しなきゃ」
とオレは答える。
「お前のが重傷じゃん」
なぜそこで対抗意識を燃やすのかわからないけど、風汰が絡んできた。オレもなんとなくムキになって、
「オレは腕一本、風汰は全身だろ? それにオレは一箇所だけだけど、お前は胸と背中の両側じゃん。重傷なのはそっちだと思う」
と言い返した。
すると、やつは、またなぜかよくわからないけど、相好を崩した。
「そういや、松田の無茶ってだいたいオレがらみだな。キスケに飛びかかっていったのだって、オレが刺されたときと投げられたときだったもんな」
って嬉しそうに言う。
……事実はそのとおりなんだけど、風汰本人に指摘されると、なんていうか……。
……ちょっと、気恥ずかしい……かもしれない……。
赤面を隠すために火のほうに顔を向けたら、そこで、オレを覗きこんでいるウズメさんの視線に気がついた。
……こっちも相当に居心地が悪い……。
困って貴さんに目をやると、貴さんは、これもまたどうしてだか、とても喜んだ様子で、
「まるでハーレムだね。英士くんなら、僕も含めて熱烈な好意を向けられる対象になると思ってたよ」
って返しやがった。
だから、
「貴さんの好意は要りません」
って答えた。
そしたら、
「シャイなんだね」
と何の皮肉も感じられないような素直な口調で言われた。
……ストレートな意味なんだけどなあ……。。
……なんでこの状況の一〇〇分の一でも椿に通用しなかったんだろう、って、かつてのオレを思い出して、ちょっと理不尽な気分になった……。
骨だけになった小さなスズメを、余さず食い尽くしてやろうと、口の中に放り込む。
でも……。
……生死ぎりぎりの世界で、遠慮も雑念も捨てられたら、あんがい人間なんて、簡単にいろんなものを乗り越えるのかもしれない。
……とも、思った。
空腹が収まって急速に眠くなったオレと風汰は、木の室に戻る元気もなく、その場で倒れるように転がった。
焚き火の熱が背中を包む。少し汗ばむぐらいの暑さだったけど、冷たい水の世界からの生還を実感できて、なんだかすごく安心する。
夢うつつの耳に、貴さんと、今度はちゃんと受け答えをするウズメさんの声が、染みてきた。
「貴女が自分のことを、サルヒコの妻、だと名乗ったのは、サルヒコの仲間だということではなくて、そう立場づけられていたということなんですか?」
質問する貴さんの声音は、剣が取れて穏やかだった。
「私は母に連れられてあの村にやってきた。母は歩き巫女だった」
ウズメさんのぼそぼそと答える声が、子守唄みたいに、ますます眠気を誘う。




