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相当に残酷な表現があります。ご注意ください。
物音が聞こえたのは、貴さんが、
「そろそろベースキャンプに戻ろっか。用心してわざわざわかりにくいところに設営しちゃったから、僕が案内しないと見つけられないと思うんだよね」
と立ち上がりかけたときだった。
水の中を何かが歩くような響きだった。それも、あえて気配を消す努力をしているような、本当にかすかな水音だ。
オレと顔を見合わせた風汰が、ジェスチャーで『ちょっと見てくる』と伝えてから、上流の方面に数メートル走っていった。そして手近の岩の上に身軽に飛び乗る。
オレはミニ姫を貴さんに渡し、小声で、
「林の中に隠れておいて」
と指示した。
貴さんは溜息をついて、
「それはむしろ君に言いたいことなんだけど」
と抵抗したけど、すぐに自分の足を見て、
「……援護の体勢はできてるから。くれぐれも先走らないように」
とオレの行動パターンを見抜いたような助言を残して、立ち去っていった。
貴さんを離したのは、正直、見栄もあった。猿のときに活躍を取られたから、キスケぐらいはオレがなんとかしたかったんだ。
でも……。
「……これで立てないなんて言ったら、オレ、本当に立つ瀬がないな」
阿呆なしゃれでごまかさなきゃならないほど、いまの体力には自信がない。
おそるおそる腰を浮かせると、多少は膝が笑ったけど、思ったよりすんなり体をコントロールできた。
刃物の貫通で大怪我なんて、元の世界にいたら瀕死の重傷に感じただろう。ここにきて一日半。精神だけは確実にタフになっていることを実感する。
岩の上を陣取って川の中に目を配っていた風汰に近づくと、
「いた」
と短く囁かれた。
「キスケ?」
オレも端的に聞くと、
「たぶん。刀が見える」
また最小限の答えが返る。
風汰の隣にあった小岩によじ登り、オレも同じ方角に目を向けた。
さっきの場所からは、角度的に、猿の死体と、あいつを潰した岩の一部しか見えなかった。
けどここからなら、全体を俯瞰できる。
直径二メートル弱の巨岩の下から、まるで岩に生えた水草のようにゆらゆらと揺れるサルヒコの体が、先刻よりも生々しかった。周囲の水域は夜目にもはっきりと赤黒い液体を満たしている。
大岩が流れを遮っているせいで、反対側の水位はかなり浅くなっているようだった。
そこに、月に照り返された金属の一部が動いている。
オレより視点の高い風汰は、さらに豊富な情報を得ているようだった。
「どうもさ……キスケのやつ、あの化け猿の死体をどうにかしたいらしい」
風汰の説明によると、キスケと見られる人物は、刀で警戒しながらも、サルヒコの傍らに屈みこんだり、岩を回りこんだりしているみたいだった。
「もう死んでんのにいまさら何してんだろうな。自分が殺したことにして、手柄を横取りしたかったんだったりして」
そう言う風汰の軽口に。
オレは顔を上げた。
風汰もオレを見下ろした。
そして、二人で肩をすくめた。
「守り本尊さまだもんな、あいつ。猿ぐらい仕留められないとカッコつかないよな」
「なんという他人行儀」
「他力本願って言いたかったの、それ?」
ぼけたのかマジで間違えたのか定かじゃない風汰に突っ込みを入れると、……マジで間違えたほうだな、きっと……、やつは目を泳がせながら、
「そうとも言う」
と弁解した。
「言わねーよ」
キスケの浅ましい本性にすっかり戦意をなくしたオレは、反応の面白い風汰をからかうことのほうに興味をシフトし始めた。
キスケがここに現れた本当の目的は、オレをサルヒコに食わせることだった。
でもそれは、オレと貴さんの予想が正しければ、村を守るためにしたことだ。サルヒコっていう魔獣を恐れての行動だった。
だから、サルヒコ自体が死んだいま、キスケにとって、オレは必要のない人間になった。当然、もう戦う理由はない。
……うん。……このほうが、いい、な……。
キスケのこと、オレは未だに嫌いだ。軽蔑もしている。
でもやっぱり、人間同士だから争いたくはない。できればこのまま住み分けして、二度と会わずにいられればいいと、思う。
それに……。
考えてみたら、オレ、なぜかキスケに対しては臆することなく向かっていけた。サルヒコのときはあんなに怖くて萎縮したのに。
たぶん、キスケの態度が、制約してきたいろんなものをオレに思い出させたからだと思う。オレは、この自由な世界に来てまで、他人の束縛を受けたくないんだ。
キスケの存在は、オレにそのことを自覚させてくれた。
巨岩の向こう側で、下敷きになったサルヒコの頭を探っている様子のキスケ。
オレは踵を返しながら、まだ岩の上に突っ立っている風汰に、
「もういいや。帰ろ」
と促した。
キャンプに戻って、……飯はもう無理かもしれないけど、しっかり寝て、明日に備えよう。この傷も早く治さないといけないし、な。
風汰が岩から飛び降りた気配が背中に伝わった。
中空に昇った月が短い影を足元に落とす。ぬかるんだ地面が傷に響く振動を和らげてくれた。
その、とき。
はっきりとした鳴動が地を伝わった。
静かなせせらぎに、不愉快な重低音が混ざった。
「なに、いまの……」
問いかけたオレの視線の先で、風汰が、
「……あれ……」
とサルヒコを指さす。
巨岩がかすかに揺れていた。
草のように脱力していた猿の手が、泳ぐような仕草で、岩の下に潜り込んだ。
キスケの着物の裾が、まだ大岩のすぐ傍らに、見える。
はっとして、オレと風汰は同時に叫んだ。
「離れろ!」
「早く!」
ばしゃん!
人ぐらいの大きさのものが水の中に倒れた音がした。
ごぼ。
と水中での呼吸音が漏れ、それから咳き込む声がした。
キスケの見える位置まで回り込もうと走り始めたとき。
ばきん。
という壮絶な破壊音が響いた。
キスケの絶叫が轟く。
ぼきん。
がりがり。
ぽきん。
「ぐるる」
音が連続する。そのたびにキスケの狂ったような悲鳴が上がる。
心臓が痛いぐらいに早い鼓動を刻んだ。足がもつれた。
サルヒコが復活した。それしか考えられなかった。キスケが食われている。それしか想像できなかった。
息を切らせて、見晴らせる場所に先に到着した風汰に、取りすがる。
「キスケは!?」
確認する。
と。
風汰は、青い顔をしながら、首を横に振った。
直接確かめようと目を移す。
……と。
……真っ赤に染まった清流の中、水から突き出したキスケの腕が、小刻みに痙攣しているのが、見えた。
弱肉強食は自然の摂理だ。
オレにとって、そのルールから外れるのは、貴さんと風汰とミニ姫だけだ……。
だけど……。
目の前で人間が捕食されていくのを、オレは受け入れることができなかった。
キスケは嫌なやつだ、とか、オレも殺そうと思った相手だ、とか、そんなことは関係なかった。
ただ、ただ……。
……オレたち人間が、サルヒコにとってただの餌である、という事実を、認めることが悲しかったんだ……。
「おい!」
風汰に鋭く呼び止められて、オレは初めて、自分がキスケに近づこうとしていたことに気づいた。
「どこ行こうとしてんだよ、お前は!?」
怒った口調の風汰が、オレの右肩を抱えるように後方にひっぱる。
「だって……」
オレは風汰の力に抗って、場に留まった。
だって……これじゃあオレたち、いつまでも負けるばっかりじゃないか……。
「いい加減にしろよな、松田! お前、いつも思いつきで行動するだけで、あとのこと何も考えてないだろ!」
本気で激高している風汰を見るのは、たぶん、初めてのことだった。
「貴史もオレも、お前のそういうとこにイライラしてんだよっ。お前が自分を守ろうとしないから、オレたちがお前を守らなきゃならなくなるんだろ! 面倒かけてる自覚あんのかよ!? なんでそんなことがわからないんだ!?」
容赦のない批判をすごい勢いでまくし立てる。
けど……。
「……ごめん」
オレ、謝るしかないんだ……。
風汰の言葉が頭に入ってこない。耳には入ってくるけど、意味がわからない。
オレはサルヒコに人間を食わせたくない。オレや貴さんや風汰やミニ姫を食わせたくない。いつまでも怯えたくない。あんな存在に従いたくない。
オレは、オレの意志に従って動きたい。
突然、水の中に突き飛ばされた。
起き上がろうとしたら、後頭部を抑えこまれて、また沈められた。
……うん……。
……うん、わかる……。
……こうしないと、オレ、止まらないもんな……。
息が限界になってきた。
それを知らせようと、オレは、のしかかっていた風汰の体を叩いた。
すぐに開放してくれた風汰に、目に染みる水滴を拭いながら、礼を言う。
「ありがと……。……大丈夫。もう収まった……」
謝罪の意思も込めたにしては誠意のないセリフだったと思うのに、風汰は、反論もせずに、
「……帰ろーや」
とだけ言った。
うなずいて、……ちらっとだけキスケの死体を見て、立ち上がった。
弱肉強食は自然の摂理だ。
オレにとって、そのルールから外れるのは、貴さんと風汰とミニ姫だけだ……。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
……ただ……。
断末魔の咆哮が轟いた。
……ただ、人間は本当に弱者なのか……。
驚いてふりかえった風汰が、
「うわ……」
と後退った。
……人間は本当に弱いのか……。
オレの見ている前で、左側の下半身をごっそりとなくしたキスケが立ち上がった。
……人間は強者にはなれないのか……。
自らの血で真っ赤に染まりながら、雄叫びを上げて、サルヒコから逃げようとする。
……人間は何をやっても強くはなれないのか……。
一本足で無様に転げながら、生きようと必死にもがいている。
…………。
…………。
…………。
…………。
…………。
……イライラ、する。
「……ああいうやつを見捨てて逃げて、なにが人間なんだよ?」
ああ、もう助からないよ、キスケは。オレのやろうとしていることはぜんぶ無駄足だよ。わかってるよ、そんなことは。
「死んでいくやつなら無視してほっときゃいいのかよ? 死んでいくときに誰一人救ってくれなかったと思わせたままでいいのかよ?」
だけど、大勢の中にあっても孤立していたのが人生の真実だなんて、そんなの死に際に知りたいやつなんていないだろう。
「独りだから人間は弱いんだよ。独りじゃなかったら強いんだよ。食われるまで逃げまわってたら強くなれないんだよ。オレはサルヒコに勝ちたいんだよ」
キスケをサルヒコから逃がせたら、それがオレの勝利になる。キスケに希望を与えられたら、それはオレの自信になる。
本気でぶん殴ろうとした風汰をすんででかわして、オレはキスケの元に走った。
「馬鹿か、お前はっ!」
怒号が背中に飛んでくる。
そんなの、わからないよ。だってオレは、まだサルヒコに勝つ方法を見つけていないんだから。この行動が負けになるのかそうじゃないのかなんて、風汰にだってわかんないだろ。
だから、オレが馬鹿なのか違うのかは、まだ決まってないんだよ!
ぐらぐらとさっきより大きく動く巨岩の下から、白い毛に覆われた腕が、にゅ、っと出てきた。
ごつい掌が、残っているキスケの右足首にかかる。
ずるっ、とキスケの体が引きずられた。細い目が裂けそうなほど大きくなる。
もう一度サルヒコに引っ張られたキスケの体を、つかんで、オレは思いっきり引き戻した。
左腕に力が入らないのを不思議に思ったら、傷が開いて流血していた。
「あはは」
なぜか笑っちまった。血まみれのキスケが気持ち悪いなんて思っていたら、オレも一緒だったから。
キスケがすごい力でしがみついてきた。
「うん、その調子」
オレ自身の腕力が半減しても、キスケの生命力で補える。腰にやつをぶら下げる格好で、オレはキスケを抱きかかえながら、サルヒコに対抗して足を踏ん張った。
びきっ、と関節が壊れる音がした。
キスケの力が急速に弱くなった。
岩から頭を抜き出したサルヒコが、大口を開けてキスケの足を飲み込んだ。
また骨の砕ける音がした。
でも、もうキスケは声を上げなかった。
……ただ……。
半眼に開いたキスケの死に顔には、ほっとしたような笑みが浮かんでいた。




