10
川岸に辿り着いたオレたちの元に貴さんが小走りに寄ってきた。スピードはなかったけど、不自由な足でも形だけは急いでくれたのが、なんだかひどく嬉しかった。
歓迎されたんだ、オレ……って思えた。帰ってきてよかったんだ……って……。
そのまま地面にへたり込んだオレの傍らに、貴さんは一緒になってしゃがみ込んだ。
「星野くんからざっと事情は聞いたんだけど、思ったよりもずっとハードなことになってるね」
そんなことを言いながら、大判のタオルを、手際よく、穴の開いたオレの左肩に巻きつける。
「左手は動く? 神経は切れちゃってないかな?」
手の感覚が生きているかを確かめるためだろう、貴さんは、オレの掌を強く抑えた。
温かい体温と鈍い痛みが、血で染まった左手全体に広がる。
神経が無事なことをうなずいて伝えると、貴さんは安堵した顔で、
「よかった。もしものことがあったら、英士くんの親御さんに顔向けできなくなるところだった」
と言った。
この怪我はとっくに『もしものこと』に入るような気はしたけど、そんな反論をしても意味がないので、オレは黙っていた。
なんだか……こんな状況なのに、笑いがこみ上げてきた。貴さん、オレの保護者みたいだ。
オレが動けなくなったのは、大量に出血した後遺症だったらしい。
「止血用の縛るものがないなあ。ロープは忘れちゃったし」
未だ、少量になったとはいえ血が止まらないオレに、貴さんはあたりを見回して、処置の方法を探していた。
そしたら、横で立っていた風汰が、
「オレの使ってるさらしでいい? オレはもう血は止まってるから」
とTシャツを脱ぎ始めた。
ああ、そっか。風汰は村で怪我の治療をしてもらったんだったな。
馬小屋で見た、やつの胸に巻かれた長いさらしを思い出す。
胸部の真ん中部分が破れた、血と川の泥で汚れたTシャツを、風汰が脱ぎ捨てる。
その瞬間。
……オレは、思わず目を背けてしまった。
ずっとサッカーをやってきた風汰の背中は、贅肉とかいっさいついてなくて、見惚れるほどの均整が取れている。
日焼けの肌色も、嫌味なほどの黒じゃなくて、黄色人種には馴染みのある浅黒さにとどまっている。
でもオレは、もともと同性の肉体美にはほとんど興味がないし、特に風汰に関しては、ここに来てから見飽きるほどに見慣れていた。だから、どんな姿でも、こんなにショックを受けるとは思わなかったんだ。
……風汰の背中には、斜めに大きな裂創が走っていた。めくれた皮膚の内側から白い繊維状の組織が覗いている。
全体に散らばるミミズ腫れも痛々しい。キスケに投げ飛ばされたときに、岩でこすった擦過傷だろう。
……可哀想に、と思うより、もったいない、と思ってしまった。……この背中、元通りに綺麗になるんだろうか……。
本人はいたって平気な顔で、清水に足を突っ込んで、さらしに付着した自分の血液を洗い流している。
「なあ、貴さん……」
オレはたくさんの弱音を吐いた。わがままも言った。甘えもしたし、迷惑もかけている。
それなのに、貴さんも風汰も、オレに対して、軽蔑もしないし、見捨てもしない。心細いはずの本心を見せることもない。
「オレがここにいる意味って……なんだろう……」
オレがいない状況と、オレがいる状況。貴さんたちにとって、ありがたいのはどっちなんだろう。
死を覚悟したときに、オレは武内宿禰の怨霊と同化されることを望んだ。そうすれば、やっと二人の力になれると思って、嬉しかったからなんだ。
でも死ななかったいまを、オレはまた喜んでいる。役立たずのオレが役立たずのまま生き延びることを、辛いことだとは思っていない。
「オレ、なんか……貴さんと風汰を犠牲にしてるなあって……感じる」
そんなふうに、やっぱりぐずぐずと自分の感情だけを訴えるオレに、貴さんは言った。
「自分も大怪我をしていながら他人の傷を見て傷心するような人を、僕らが無価値だと思うわけがないじゃない?」
英士くんはいい子だと思うよ、と、先輩は、大人の目線で評価した。
「……どうかしたの?」
微妙な空気を感じ取ったんだろう。さらしの水を切って渡しながら、風汰が貴さんにそう質問した。
「僕が英士くんのことを好きだと告白しただけだよ」
笑いながらそう茶化す貴さんに、風汰が、いつものように、
「どんなときでもそのスタイル変わんないね、お前」
と呆れた。
タオルの上から、オレの傷口にさらしを巻きつけていく貴さんが、ふと思い出したように、
「そういえば、君たちをこんな目に遭わせた相手がまだこの場にいるんじゃなかったっけ?」
と聞く。
風汰が、
「さっきからオレも警戒してるけど、姿がないんだよ。こっちが三人になったから隠れたのか、それともでか猿があんなんになっちまったから体勢を立て直しに帰ったのか。まあ、そんなとこじゃないの?」
と答えた。
貴さんの手が止まって、ちょっとの間、考え込んだ。
そして、再度、オレたちに質問を放る。
「あの猿が死んだら、なにか不都合があるの、その人?」
オレと風汰は、順番に、これまでの経緯を貴さんに説明することにした。
キスケと二人のおじさんに村に連れて行かれたこと。
そこで長い時間拘束されたこと。
この二点は、
「そのへんは星野くんから……」
と貴さんが言うように、あらかじめ風汰が伝えていたらしい。
ちなみに、風汰と貴さんが接点を持ったのは、風汰がキスケに投げられたあとってことだった。
「とっさに頭は庇ったんだけど、ぶつけられたのって岩だったじゃん。だから、オレ、ちょっとの間、気絶してたらしくってさ」
水に沈んだ風汰は、そのまま流れに乗って下流の岸に辿り着いた。そうしたら、ちょうどその時間、キスケに蹂躙を受けていたオレの悲鳴を聞いた貴さんが、川の縁までやってきたんだそうだ。
そこで話を戻して、オレたちは、村での数々の珍事を語った。
まず風汰が伝えたのは、不本意ながら、彼女のことだった。
「なんとなーくやばそうな感じの女。いや、すっごい美人ではあったんだけど、常識が通じないっていうか……」
彼女の風体をこと細かに説明し、また貴さんも、
「英士くんが犯されそうになった部分をもう少し詳しく話して」
とか、わけのわからないこだわりを見せたおかげで、ここはありえない長時間を費やした。
次にオレが教えたのは、村での最後の一幕だった。おじさん二人とやりとりした、あの内容と雰囲気のことだ。
「オレたちの未来が極楽に行けるように、なんてことを言ってた。それに、明らかな作り笑いも。だから、あのおっさんたちも、ここでオレたちが猿に襲われることを知ってたんだと思う」
この場所にキスケが現れて、猿から逃げられそうだったオレたちを足止めした事実。
あの村の人間は、たぶん、オレたち……いや、キスケの話によるとオレ単体か……を猿の餌にするつもりがあったんだ。だから大した尋問もせずに放免した。オレたちが何者であっても、すぐに死ぬ人間の事情なんか知る必要はないからだ。
もしかしたら、夜まで拘束時間を長引かせたのだって、猿の行動に合わせてのことかもしれない。サルヒコの光る目は昼行性の生き物とは思えなかった。だからやっぱり、村の連中はサルヒコの生態を知り尽くした上で、オレをその活動範囲の中に放り出したんだ。
……道理は当てはまったけど、なんだか気分は落ち込んだ……。
……オレ、そこまで食われることを期待されていたのか……。
「ふーん……」
貴さんがなにやら思わせぶりにうなずいた。
「キスケ、という人が君たちにかけた言葉をもう一度確認するけど、彼は、猿……サルヒコ? に襲われるのが英士くんだけだと断言したんだね? それで、その理由が『ウズメの印』?」
けっきょく、ウズメの印ってのが何なのかはわからないままだ。焼き印のような目印をつけられたのかと思ったんだけど、オレの体にそれらしいものはない。
あの猿に食い物にされるための印。
……ってことは、サルヒコはその印がない動物は食わないってことなんだろうか……?
……ってことは、定期的に、あの村がサルヒコの食い物にする動物や人間を選んでいるってことなんだろうか……。
ぞくぞくと鳥肌が立った。
岩の下敷きになっているサルのほうをちらっと見る。巨岩は猿の体すべてを潰しはしなかった。ここから見ると、頭を挟まれた猿の首から下が、水にゆらゆらとたゆたっている。
……白い毛が赤黒い血に染まっているのが、すごく不気味だった。
こんな恐ろしい化け物に餌を与えつづけた村人ってのは、いったい何を考えているんだろう……。
貴さんはまた少し考え込んだ。
そして、言った。
「ウズメ、っていうのは、もしかしたら、英士くんを犯しかけた女性のことかもしれない。もともと『石女』(※一)というのは子どものできない女性の蔑称なんだ。だから、ウズメの印、というのは、女性につけられた唾液のことじゃないのかな。知能の高い動物の中には、餌を選り好みする習性もあるしね」
貴さんの話によると、比較的賢い肉食、雑食動物は、偏食をする場合があるんだそうだ。菓子や弁当などの人間の食い物に味を占めた熊が、人間を襲ってそれらを奪い取る事件も過去にあったし、さらに柔らかい女の肉を好むヒグマも出現したことがある。
猿も頭はいいと言われる。おそらく白髪猿は、かつて人間の女を食ったことがあるんだろう。だからその匂いとかで食欲が誘発されるんだ。
…………。
……………………。
……ここまで考えて、オレはまた少し落ち込んだ……。
……そっか。
……じゃあ彼女も、オレを猿に食わせる気で、あんなことをしたんだな……。
あの村が人間の犠牲を出してまでサルヒコを育てようとした理由。
これは、さすがに貴さんでもわからなかった。
「日本には、たしかに、怨霊信仰のような『恐ろしいものを信奉する』って考え方がある。けどこれは、実質は無害になった死者に対してするものなんだ。いまも実際に脅威になっている猛獣に生贄を捧げて崇めるなんて、ちょっと考えられないけどなあ」
と首をかしげる。
人食い猿に餌を用意し続ける、メリット。
村の近くに出没する大きな恐怖を、村の連中はどう感じるのか……。餌づけなんかして、下手したら、自分たちも襲われるかもしれないのに……。
…………。
……………………。
「あ」
と声を上げたのは、オレも貴さんも同時だった。
「そうか。難しく考えすぎてた」
と貴さんが微笑う。
「そうだよ。村人の身代わりだったんだ、オレ」
オレも苦笑った。
いつ村を襲うかわからないサルヒコの脅威。
そこから逃れるためには、サルヒコを空腹にさせないのが一番なんだ。動物は腹が減らなければ獲物を獲ることはないんだから。
だから、オレたちみたいな村外の人間が格好の代用品になった。サルヒコの餌にして死んだとしても、なにも惜しくはないもんな。
「……なんか、聞いてて腹立ってきたんだけど」
風汰が眉を寄せて吐き捨てた。
「おんなじ人間じゃん、オレらって。それなのに、村に住んでるか住んでないかで、そこまで差別すんの?」
「そういう時代なんだよ」
貴さんが穏やかに諭す。
「人間同士が仲良くできる時代っていうのは、あんがい少なくてね。僕らの時代ですら、同じ病気で同じ治療は受けられない。お金のある人は高度医療で生きる可能性を延ばせるけど、入院費用のない人は病院からも追い出されちゃうんだ。人の生死は平等じゃないんだよ」
そう続ける。
人間の命の重さは一緒じゃない。
……オレは、それを、もうとっくに知っていたのかもしれない。だって、オレは風汰たちを守るために他の人間を殺してもいいと思っていた。他のやつらの存在なんて、それぐらい軽いものにしか認識しなかったんだ。
ミニ姫のことだって、最初は、ないがしろにしてもしかたがない、と考えていた。あの娘はオレたちにとっては部外者で、どんなに可愛くても守るべき対象には入れられなかったから。
でも。
「……そういえば、ミニ姫は?」
ずっと姿を見ないことにいまごろ気づいたオレは、貴さんに彼女の所在を尋ねた。
「ここにいるよ。血まみれの君にショックを受けて、いままでずっと泣いてたんだ」
貴さんがポケットを押し開く。
目を真っ赤にした小さな少女が、、ゆっくりと、ポケットから顔半分だけを覗かせた。
そうなんだよな……。
オレは、この娘がいたことで、慕われて嬉しいという気持ちを、初めて知った。
こんなに愛し返したいという気持ちを、初めて知った。
手を差し伸べてミニ姫を受け取ると、折れそうに細くて頼りない彼女に、そっと頬ずりをした。
「大丈夫。必ず帰ってくるから、心配すんな」
そう言うと、ミニ姫はまた、無邪気なほど素直な表情で、大粒の涙を流して号泣した。
※一 『石女』の読みは『うまずめ』が一般的ですが『うずめ』の呼称も現存しています。




