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……大きなカブト虫が飛び回るような羽音が、ごくわずかに聞こえた気が、した。
バタバタバタ。
バタバタ、ジー、バタバタ。
耳障りなその響きは上空を移動しているようだった。オレの頭の上、猿の立っている場所あたりから流れてくる。
ぼんやりと目を開けたオレは、水中に沈んでいることを忘れて、思わず呼吸をしてしまった。とたん、気道に液体が流れ込んできて、盛大にむせる。
「げほっ! げほっごほっ」
反射的に上半身を起こしていた。咳に阻まれて吸えない酸素を、涙目になりながら、必死で確保する。
「げほっ。はあ……、げほっ……けほ……」
……はあ……。
……はあ……。
……い……。
……生きて、たあ……。
猿はすぐにでも大岩を落としそうな気配だった。なのに、なぜ、まだオレは潰されずにいるんだろう。
上を見上げて確認する。
月光の下、オレのすぐ脇に立った猿は、相変わらず、滑稽なぐらいバランスの悪い巨岩を頭上に掲げていた。実際、相当に無理をしているんだろう。腕から胸にかけての重心がふらついている。
サルヒコの目はオレを見てはいなかった。金色の眼光が、右から左、左から右に忙しなく移っていく。
それに合わせて、さっきの羽音のような異音が、やつの周囲を巡っていた。
……なにかがまとわりついているんだ……。
と気づいた。
それも、サルヒコが嫌がるような存在なんだろう。そっちに気を取られてくれたおかげで、オレは命拾いしたらしい。
大きなサルヒコの頭の向こうから、徐々に、それが正体を現してきた。
LEDの青い点滅と赤い点滅が交互に闇を裂いている。
月明かりに反射する小さなプロペラの金属光。
一人前に耳障りな飛行音を立てる極小の機体。
「……た」
救世主の名前を呼びたかったのに、どうしてだか声が詰まって、オレは代わりに嗚咽を漏らした。
……ありがとう。
だから、心の中だけでくりかえす。
……ありがとう。
……来てくれてありがとう。
……助けてくれてありがとう、貴さん……。
と……。
貴さんの操縦の腕は確かだった。ミニヘリコプターの飛行軌跡は、動物が接近を一番嫌がる耳元に集中していた。
サルヒコは、ときどき犬のような吠え方でそれを威嚇したけど、両手が塞がっているものだから払い落とすことはできないみたいだ。
サルヒコの注意力がヘリに向けられるたびに、頭上の岩が不安定に揺れた。
……もしかして貴さんは、あの岩を、サルヒコ自身に落とそうとしているんじゃないだろうか……。
そう気づいたオレは、巻き添えを食う可能性のあるこの位置から離れなければならないことを理解した。オレからは貴さんは見えないけど、貴さんからはオレが見えているのかもしれない。ミニヘリの動きがあまり積極的じゃないのは、オレの移動を待ってのことかもしれなかった。
急いで立ち上がろうとして、膝を浮かせた。
……けど、そのまま体が右に傾いて、また水中に埋没する。
なんとか顔だけは起こして呼吸を確保した。でも。
……どうしよう。立てない……。
今度は情けなくて涙が出た。
せっかく助かるのに。せっかく助けてくれているのに。もうちょっとのことなのに。
なんでオレの体、動いてくれないんだ……。
もがきながら這いずって、なんとか流れに乗って、少しだけ下流に移ることはできた。
小ぶりな岩をつかまえて、渾身の力で身を引き上げる。
岩に寄りかかりながらではあったけど、オレはかろうじて立ち上がることができた。
ふらつく肉体を叱りながら、次の岩に移ろうと手を伸ばす。
こうやって支えを確保しながらなら、たぶん、もうちょっと遠くまで行ける。サルヒコがあの場でうまく潰れてくれれば、これ以上逃げまわる必要はないんだ。だから、いまが正念場。
すぐ隣りの同じぐらいの岩にとりつき、オレはまた引きずるように自分の体を動かした。
サルヒコさえいなくなれば、ゆっくり休める。だから限界までがんばってくれ、オレの体。自分自身にエールを送る。
……でも、オレはそこで思い出してしまった。
……敵は、まだいる……。
なんでこんなにタイミングがいいんだ……。
忍ぶように近づいてきた水音に、絶望で、足から崩れそうになった。
キスケの姿を認めるのが耐えがたかった。もういっそ、気づかないふりのまま斬られたほうがましだとさえ思った。
だから、オレは取りすがっていた岩に顔を埋めた。
なにも見ない。なにも聞かない。なにも期待しない。この世界がオレを要らないと言っているのに、オレが抵抗する意味なんかない。
だから、死にたくないなんて思うほうが間違っているんだ、きっと。
右の二の腕を控えめな力が引っ張った。
オレは顔を上げず、されるがまま、相手のほうに向き直った。
裸足に草履、くるぶしまでの着物姿。抜身の刃先が、うつむいた視界に入る。
……はずだった。
でも、実際には、そこにあったのは運動靴だった。
「山に行くんだから登山靴のほうがいいよ」
と貴さんにさんざん言われながらも、履き慣れたスニーカーで同道した馬鹿な風汰の……。
「動ける?」
耳元で、聞き慣れた声が、した。
「もう少し離れよう。お前が安全圏に入ったら、貴史があの猿に追い込みをかけることになってるから」
風汰はそう言って、オレに肩を貸してくれた。
オレは、ごまかせないほど震える声で、
「生きてたんだ……」
とつぶやいた。
「よかった……」
その言葉と同時に、涙がぼろぼろ落ちてきた。
風汰は黙ってオレを引っ張っていたけど、やがて、
「ばーか」
と湿った声音で返事を返した。
バチン、バチン。
という、さっきからのプロペラ音とは異質の音が、サルヒコの元で鳴る。
かなりの距離を稼いだオレと風汰は、同時にやつのほうを見返った。
ミニヘリがサルヒコの顔に体当たりしていた。ぶつかるたびにバランスを崩して落ちかかる機体を、手慣れた操縦が、何度も復活させている。
サルヒコの苛立った咆哮が周囲に響いた。
その口元すれすれをプロペラがかすめていく。
「巧いなあ」
と風汰が羨望を込めて感心した。
「貴さんだからね」
なぜかオレが得意な気分になった。
サルヒコの目が、ぐるぐると、ますます落ち着きなくさまよい始めた。
同時に、頭上の岩が大きく傾いだ。
ミニヘリが左耳に突撃した。
「ぐあ」
と小さく呻いて、白い猿の大きな左手が、支えていた岩から離れた。
がつん!
白髪猿の頭に巨岩が直撃した。
オレと風汰は同時に歓声を上げた。
「よし!」
「やった!」
若干、前方に押し出されながらではあったけど、大岩はサルヒコの体を巻き込んだまま、盛大な水しぶきを上げて落下する。
そして。
猿の仁王立ちで塞がれていた視界が拓けて、向かい側に立った貴さんの姿が顕わになった。
額の汗を拭いながらコントローラーを握っていた貴さんは、オレたちの姿を見ると、
「おかえり」
と満面の笑みで手を振ってくれた。




