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残酷な表現があります。ご注意ください。
びりびりと震えるほどの咆哮が背中を押した。
オレは恐怖に全身の毛を逆立たせたまま、猿から逃れようと、闇雲に川を這いまわった。
足が重い。水の流れが進行方向と真っ向からぶつかってくる。
上流に向かって歩いていることに気づいた瞬間、
「松田、そっちじゃない!」
と風汰の叫ぶ声が聞こえた。振り返ってみると、二〇メートルほど下流に立った風汰が、大きく手を振って誘導している。
オレと風汰の間には猿。
でも、猿のくせにあまり身軽そうじゃないあいつは、岩の上を飛び回ることができない様子で、不器用に川の中をさまよっていた。
……あの横をすり抜けて、風汰のところまで……。
……行けるか?
砕けそうになる足を、とりあえず、一歩進めた。
……大丈夫。
猿からできるだけ距離を取るには、対岸に近い岩を渡るルートが確保できそうだ。
オレは目の前の巨岩をよじ登り、そのまま白髪猿を大きく迂回して、下流方面へと身を返した。
「ゴールゴール。よくがんばった」
風汰の待つ浅瀬に辿り着いたオレは、我ながら情けないぐらいに呼吸を乱しながら、風汰の腕にすがりついた。
「あの猿、相当に鈍いみたいだな。このままなら楽勝で逃げ切れる」
そうつぶやいて、オレを深みに誘う風汰。
「泳いでいくのか? 岩伝いのほうが早くねえ?」
動きの取りにくい水の逃避行を怖がって、オレがそう言うと、
「オレたちのほうがあいつよりスリムだから。もしあいつがオレたちを追って泳いできたとしても、とちゅうで岩に挟まれて身動きが取れなくなるよ」
オレを待つ間に冷静に状況を判断していた風汰は、自信たっぷりにそう答えた。
そして、風汰の予想はそのとおりになった。
もともと岩に上がることが苦手そうだった巨躯の白髪猿。だからだろう。当然のように、泳ぎ始めたオレたちの真似をして水の中を流れてきた。
でも、ゴリラほどの体格に成長してしまったあいつには、この岩だらけの渓流は障害が多すぎるらしい。ごつごつとあちこちに体をぶつけ、そのたびに立ち止まって別のルートを模索している。
ちょっと余裕の出てきたオレたちは、膝までぐらいの深さの場所に立ち、猿の動向を観察し始めた。
「……にしても、なんであいつ、あんなにでかくなったんだ?」
風汰の疑問に、
「やっぱりあれ、ただの猿じゃなくて、ミニ姫みたいな人外の生き物なのかな」
答えるオレ。
そこでオレたちは顔を見合わせて、
「いきなり空とか飛んだりしないだろうな!?」
と、また慌てて水の中に体を沈めた。
夏とはいえ、深い山中の清水は、痺れるほどに冷たかった。
ここに来てから何度も水に馴染んでいた風汰と違って、オレは早々に、疲労から意識が朦朧としてきた。
風汰に手を引いてもらっての道行だったけど、ともすれば、その手からも力が抜けていく。
ふらっと制御を乱したオレの体が、すぐ前にあった岩に激突した。
「大丈夫か、おま……っ」
痛みでやっとちゃんと覚醒したオレの耳に届いた風汰の声は、でも、途中で、不自然にとぎれた。
目の前に、月光を映した刃先がきらめいている。
見えてはいるけど、その光景の意味がつかめなかったオレは、
「なんで、またお前が……」
と、口から出るままの言葉をつぶやいた。
一三〇センチを超える長刀は、夜の闇に粗が隠されて、恐怖ですくむほどに切れ味がよく見える。
三角のとがった輪郭の顔が、昼間以上に酷薄な印象を与えた。
風汰の喉元に刀の切っ先を突きつけたキスケは、にんまりと口元を歪めて、視線をオレのほうに向ける。
そして。
やつは、顎を後方にしゃくると、オレに、短く、こう命じた。
「戻れ」
…………。
……戻れ……って……。
振り返って後ろの白髪猿の位置を確かめた。
まだ遠い。三〇メートルはある。
けど確実に近づいているし、乱暴に岩を叩きながら吼える様子は、危害の可能性を無視していいものではまったくなかった。
オレはキスケに向き直った。
「……お前にも、あの猿、見えてるんだろ? 戻ったらどうなるかわかるよな……?」
一〇〇歩譲って、怪我程度に抑えた加虐をするようなキスケの性質を、容認したとする。
でもあの猿に向かわせるのは、それこそ、からかう、とか、サド、とかの範疇じゃ済まない。明確な、殺意、だ。
「……オレたちのこと、許してくれるんじゃなかったの……?」
風汰が声を震わせながらそう聞いた。
キスケはそれには答えず、再度、はっきりと悪意を乗せた笑みを浮かべながら、
「サルヒコの元に戻れ」
と明言した。
サルヒコ……。
サルヒコ……。……どっかで聞いた名前……。
けど、そんなことより、オレは沸騰した怒りで頭が一杯になった。
ホームグラウンドでの狼藉なら、まだ我慢できる。よそ者のオレたちは立場が弱くて当たり前だからだ。
でもここはもう村じゃない。キスケに強制される言われはない。しかも、こいつの命令は、オレたちに死ねって言っているのと同じだ。そんな権利、こいつにあるはずがない。
何様なんだ、この阿呆!
腰から斧を抜きかけたオレの動きを察して、キスケが風汰の肩口に刀を振り下ろした。
ひやっと肝が冷えたけど、刃は風汰を傷つけることなく、すんでのところで止まった。
「……風汰」
キスケの威嚇を躱してオレのほうに逃げてきてくれと期待して囁きかけたけど、猿のときはあれだけ機敏だったのに、いまの風汰は萎縮しきっちまって、まったく動けないみたいだった。
キスケがまた構えを直して、風汰の顔に刃先を向ける。
「……ああ、もう」
しかたがないから、オレは斧を捨てた。
白髪猿の吼え声が、さっきよりずっと近くに迫ってきている。
前門の虎、後門の狼っていうけど、こんなとき、どうしたらいいんだよ。
後ろに戻るのはもちろんパスだ。体の小さかった前回の遭遇のときでさえ、オレは白髪猿に翻弄されるしかなかった。いまの巨体と対峙すれば、一瞬で握りつぶされかねない。
かと言って、話の通じないキスケを強引に排除ってのも、風汰が取られているかぎり難しい。
ちらっと、いま捨てたばかりの斧を見た。水の底に沈んではいるけど、深い場所じゃない。拾って攻撃に転じるのに……二秒ってとこか……。
……決めた。
風汰とキスケを離すことを先決としたオレは、わざとキスケの刀の間合いに入るべく、近づいた。
風汰がここまでキスケを恐れるのは、きっと、なにか精神的なダメージを引きずっているからだ。また刺されることを怖がっているのか、それとも、オレの知らない間に村で脅迫でも受けたのか。
だから、キスケと風汰の間に入って、風汰の視界からキスケを消してやれば、行動力はある風汰のことだ、おそらく自力で離れてくれる。
一三〇センチの刀の長さが幸いした。この距離があれば、オレは必要以上にキスケに近づかずに、風汰を逃がせる。
「サルヒコってあの猿の名前?」
油断させるために、頭の片隅で考えられるどうでもいい会話を、キスケに放った。
「昨日も会ったんだけど、もっと小さかった覚えがあるんだよね。もしかして、このへん、あんな猿がうようよしてんの?」
自分で言ってから(そういや猿が複数の可能性もあるな)とちらっと思った。……けど、いや……それはないな。だって雰囲気がまったく一緒だ。
キスケは黙ってオレを睨んでいる。切っ先はぶれることなく風汰の鼻のあたりに定まっている。
オレは、風汰の隣まで進んだ。
そして、風汰を抜いた。
身を交わしざま、軽く風汰の指に手を当てると、
「っ」
と息を呑む音が聞こえた。
ものすごく強ばっていた様子の風汰の体が、その一瞬で弛緩して、よろけるように後ろに下がる。
いまだ!
オレは足下の水を思いっきり蹴った。
自然の流れも加味した水撃は、キスケの頭を超える位置まで跳ね上がった。
視界を遮られて慌てたやつは、闇雲に刀を振り回す。オレは風汰を抱えるようにして後方へ逃げた。数歩行ったところで、まだ動きの鈍い風汰を、
「ごめん!」
と突き飛ばして斧を拾う。
構え直した瞬間に頭上から斬撃が降ってきた。反射的に斧の横殴りでそれを防ぐ。
い……。
意外に立て直し速かったな、キスケのやつ……。
守り本尊なんて尊大な扱いを受けていても、キスケのことを『弱い者いじめしかできない卑怯者』としか見ていなかったオレ。でもこの動きでやつの本性を見直す必要に迫られた。
キスケの攻撃は、正直、脅威じゃない。オレたちに武器を向けるときの気構えが、本気には受け取れないからだ。ちまちまとねちっこく追い詰めるような迫り方は、やっぱりキスケの小心ぶりを物語っているのだと思う。
でも運動神経はよさそうだった。考えてみれば、これほどの長刀を扱うのには強い腕力と優秀な動体視力が要るはずだ。キスケは、戦闘中にしろ、一方的ないたぶりの最中にしろ、一回も刀の操作を誤ったことがない。この狭い岩場の中にあっても、刃をどこかにぶつけるようなヘマはしなかった。
また膠着状態に陥ったオレとキスケ。
でもこっちはキスケだけに注意を払うわけにはいかなかった。背後からは白髪猿が迫っている。
「風汰。猿、どこまで来てる?」
視線はキスケに据えたまま、まだ水の中でへたり込んでいる雰囲気の風汰に、オレはそう聞いた。
「え……? あっ。さ、猿!?」
やっと正気づいた様子のやつは、たぶん首を巡らせたんだろう、
「あと一〇メートルってとこ!」
と怒鳴って、立ち上がったようだった。
あと一〇メートル……。
背中を怖気が駆け上る。
もうすぐそこじゃねーか。一分もしないうちにここまで到達しそうだ。
オレは慎重に構えを解き、キスケがすぐに踏み込んでこないことを確認してから、
「とりあえず逃げよう。お前だってあんな化けもんに襲われたくないだろ?」
と交渉した。
そのとたん、キスケが足が一歩踏み出した。慌てて防御の姿勢を取ると、
「ははははははっ」
と狂ったような笑い声を上げて、また元の位置に戻る。
……なんなんだよ、こいつ……。
……なんなんだよ、この阿呆!
「……あと八メートル。なあ松田……」
オレの背中に張りついた風汰が、また目測を伝えてくる。
「猿のほう、オレが陽動しようか。その間に、このキチガイ男をなんとかしてくれ」
さすがに風汰も、キスケのことを、もうさんづけはしないようだ。
「そうしてくれれば助かるけど、あんまり無茶すんなよ」
風汰の敏捷さがあれば、あの愚鈍な猿に捕まる心配はほとんどない。任せようと返事を返した。
すると。
いきなり、キスケが大声で、
「無駄だ!」
と叫んだ。
「サルヒコはウズメの印を追ってくる。お前以外を食おうとすることはない!」
そう言って、切っ先でオレの胸のあたりを指した。
ウズメ、ウズメの印、サルヒコ。
なんだかよくわからない固有名詞の羅列は、でもそのときのオレにはどうでもいい単語だった。
頭の中には特定の言葉だけがぐるぐるとうずまく。
猿が……オレを食べようとしている……?
なぜ、という疑問は同時に三つ湧いた。
肉食らしいとはいえ、ほとんど体格の変わらないオレを捕食対象と見る不自然さは、なぜ?
他の人間ではなくオレに限定されるのは、なぜ?
つけられた覚えのない『ウズメの印』がオレについているのは、なぜ?
すぐそばで白髪猿の雄叫びが聞こえた。
オレは自分でもわかるほど震え始めた。
なんで? なんでオレが食われんの? なんで?
指先に、朝折ったスズメの背骨の感触が蘇った。
オレも? オレもあんなふうに骨折られて裂かれるの?
白髪猿の握力で引きちぎられた自分の胴体の様子が、鮮明に脳裏に浮かぶ。
「っのやろ!」
真横を風汰の声が走り抜けた。
見ると、あれほど苦手としていたキスケに、風汰が組みついている。
「松田、先に逃げろ! すぐに追いつくから!」
怒鳴る風汰に促されて、オレは弾かれたように走りだした。
流れを横に突っ切って川原に出ようとしたとき、ちらりと振り返った視界の中に、空中に踊る風汰の手足が見えた。
キスケが風汰を投げ飛ばしている最中だったんだ。
常時でも異様な筋肉の盛り上がりを見せていたキスケの上腕は、倍ぐらいにふくれあがっていた。
見事に全身を放り投げられた風汰は、水の上ではなく、岩の側面に叩きつけられた。
鈍い音とともに、まりのように跳ね返った体は、そのまま頭から水中に没する。
……オレたち、ここで死ぬの?
絶望という圧力が希望を塞いだ。
……せっかく生きる意欲を取り戻したのに、こんな意味のない形で死ぬの?
気づいたら、キスケに向かって飛びかかっていた。
やつの構えた刀の刃先が左肩に食い込む。でももう避けられない。貫通するに任せて、オレはそのままキスケを押し倒した。水中に沈む顔を押さえつけ、浮き上がろうともがくやつを窒息させる。
このまま殺してやる!
オレの邪魔をするキスケに、強い殺意が湧いた。
オレは自由に生きちゃいけないのか?
オレはいつまでも自分を抑えなきゃいけないのか?
オレは無味無臭な人間じゃない。言いたいことを隠すのは誰かを傷つけないためだ。なのにそれを当然と受け止めるのはなんでなんだよ!
キスケがオレの障害のすべてを肩代わりした存在に感じた。
死んでもいいと思った。むしろオレのためには殺さなきゃならないと思った。
でも。
キスケの指が肩の傷をえぐった激痛に、オレは絶叫して、手を離した。
とたん、水月を蹴り上げられて息が詰まる。
うずくまったオレの隣に、怒髪したキスケの影が立った。
無理やり面を上げさせられたオレは、再度蹴り倒されて、それから近場の岩に押しつけられた。
キスケの荒い息遣いが間近で顔にかかる。
それからキスケは、ゆっくりと、のこぎりを引くような動作で、オレの肩から長刀を抜き始めた。
自分の悲鳴で鼓膜がおかしくなりそうになった。
水の中にオレの血が溶けて流れていくのが、見える。
一瞬、とどめを刺そうとしたキスケは、でもオレを放置して場を離れた。
代わりに、猿の生臭い呼気が、オレのもたれていた岩の裏から漂ってくる。
……もう、駄目なんだな……。
岩がぐらっと動いた。
次の瞬間、オレは支えを失って、水に仰向けに倒れこんだ。
揺らぐ視界の中に、綺麗な満月と、信じられない怪力で大岩を持ち上げた白髪猿の姿が、映る。
猿は……サルヒコは……、その岩をオレの上に落とそうとしているみたいだった。
目を閉じて、覚悟を、した。
死んだら、オレ、武内宿禰に頼みに行くよ。
みんなをこんな不条理な世界から逃してやらなきゃならないから……。




