7
猫背たちがオレたちを送ってくれたのは、村と山の境目に当たる鬱蒼とした林の入り口までだった。
どうやら、すでに真っ暗になっている山中に、明かりもなしに放り出すつもりらしい。
「来たときと同じように、川沿いを帰りたいんだけど」
道に迷う懸念を覚えたオレは、あわよくば船を出してくれないだろうかと期待して、そう聞いた。
でも猫背は、
「川から村に入る口は村のもん以外には案内できん」
とにべもない。
一応、小さいほうのおじさんが、
「暗いから怖いわな」
と理解は示してくれたけど、
「川の畔には人が見ちゃいかんもんが祀ってあるで。村のもんなら上手く避けるけど、お前さんたちには無理だろう。だからこっちの道から帰ってくれ」
と、やっぱり同じ答えを返した。
でも、オレたちがここに連れて来られたときに、意識のなかったオレはともかく、風汰はそのあたりを見たはずじゃないのか?
そう疑問に思って視線を送ると、やつは指をバツに交差させて、
「目隠しされてた」
と説明した。
……はあ。
本当に禁忌の場所なんてあるんだな、この時代には……。
仕方がないから、オレと風汰は、心もとない視界の中に、恐る恐る一歩を踏み出した。
猫背と背の低いおじさんは、声をかけるでもなく、黙って見送っている。
…………。
なんだか妙な圧力を感じて、オレは振り返った。
そしたら、二人は慌てた様子で笑顔を作った。
…………。
……まただ。……またあの違和感が……。
馬小屋に縄を解きに来てくれたとき、この二人はとても親切だった。
オレを殴り倒した相手、から、態度が急変したことについては、風汰の話でいったんは納得した、んだけど……。
ただ、なんというか……。
…………。
……………………。
風汰は無条件に彼らを信頼している。……だから言い出しづらいんだけど、オレはこの二人をそこまで信用はしていない。
……これはもう勘としか言いようがないんだけど、何かをあえて言っていない気が……重要なことを隠している気がしてしょうがないんだ。
少しためらったあと、オレは、もう一度、二人の元に踵を返した。
なにか……なんでもいいから会話をして、この違和感の原因を探りたかったから。
「えっと……」
二人の前に立って、急いで話題を探す。
「あ、そう……えっと……。い、いまの将軍さまって誰ですか?」
うっかり敬語になった。どうやら、オレ、取り繕おうとするときにこの癖が出るみたいだ。
でも、二人は特にその点には言及しなかった。
顔を見合わせて、そんなことを人に聞かなければならないオレに驚いた、とでもいうような気配を漂わせる。
「義尹(※一)さまが京に無事にお戻りになられて、また将軍さまに返り咲かれたと聞いているが……知らんかったかね?」
猫背が怪訝そうに聞き返した。
オレは愛想笑いを浮かべて、
「なにせ未来から来たもので」
と軽口でごまかす。
すると、猫背は気味悪そうに、背の低いほうは能面のような感情のない笑顔を張りつかせた。
……やっぱり、この二人は、風汰が説明した『オレたちは未来人』という言葉をまったく信じていなかったんだな……。
異常者扱いされつつあることをひしひしと感じながら、オレは、もう一度だけ、
「本当だよ。だからオレたち、この時代のことはなにもわからないんだ」
と弁解した。そして、さらに、
「将軍さまが京都に戻ったってことは、いまは室町時代とかなのかな?」
と踏み込んでみた。
日本の首都が京都にあったのは、平安時代以降のことだ。
しかも鎌倉時代には神奈川に移っているし、江戸時代まで行くと東京になる。ということは、ここに該当するのは、平安時代でなければ、南北朝、室町、安土桃山ぐらいの時代になるわけだ(※二)。
義尹、という将軍に心当たりはなかったけど、『将軍』というからには、いまは武士の統治する社会なんだろう。とすると、貴族社会だった平安時代は除かれる。
南北朝から安土桃山時代までの将軍は、すべて、足利氏が務めていたはずだ。義尹は、じゃあ足利義尹って名前なんだろうな。貴さんに聞けば、このへんはわかりそうな気がする。
猫背が、
「室町時代? そういう言い方は知らんが、将軍さまがおはっせるのは京都の室町には違いない」
と教えてくれた。
とりあえず、時代区分だけははっきりしそうな状況になった。
……残念ながら戦国時代の可能性はますます高まったけど(※三)……。
けっきょく、違和感の正体には至ることができず、オレと風汰は夜の山に身を投じた。
足下の藪には薄い道の痕跡があるということだったけど、視界が効かない中、そんなものを探すのは不可能だった。
それでも数十メートルはなんとか進む。
背後の集落は、もう影も形も見えなくなっていた。
再度に別れる間際、猫背と小さいおじさんが、妙に薄気味の悪いことを言った。
「お前さんたちの行く末が少しでも極楽に近づけるように、祈っているよ」
……なんか、オレたちがこれから死ぬみたいな言い回しじゃないか、これって……。
……この時代独特の気の使い方なんだろうか……。
お互いに抵抗はあったけど、風汰とオレは、この闇の中で離れてしまうことのないように、手をしっかりとつなぎあった。
……正直、ものすごく心細い……。
真っ暗な空間っていうのは、情報がないっていう条件とは逆に、いろいろな妄想をかきたてる。
オレの前で風汰がとつぜんいなくなる幻想が、頭をもたげた。
それから、風汰を残してオレが消える想像も、してしまう。
……怖い……。
思わず力のこもったオレの手を、風汰が強く握り返してきた。
……風汰の掌も汗で滑っている……。
……貴さんは言っていた。
山の中で道がわからなくなったら、迷っていると悲観してはいけない、って。
山に住んでいる動物のような気持ちになって、常に寝食の確保だけは怠らないようにしておきなさい、って。
一呼吸入れてから、風汰に呼びかける。
「なあ、貴さんたち、ちゃんとキャンプの支度できたかなあ」
風汰は、
「あいつのことだから抜かりはないっしょ。いまごろ、スズメ、バリバリ食ってるかもよ」
と、ことさらに明るい声で答えた。
オレも釣られたふりをして、わざと笑い声を立てる。
「あはは。だったらオレたち、食料持参で戻らないと晩飯ないよ」
すると風汰は、急に元気よくアニソンを歌い出して、
「無理に戻らなくても、いざとなったらここで朝まで野宿しちゃえばいいのよ」
と一部の歌詞を替えて返答をした。
……風汰も貴さんの教えをちゃんと覚えていたらしい。
生き物を殺さなければ食べていけないこと。
死に直面した自分があんがい頑固であること。
真闇の中で耐えるのがこんなに怖いこと。
ここに来てからの短い時間に、オレはたくさんのことを学んだ。元の世界にいたら、たぶん、一生経験しなかったことを。
ここにいると、オレはオレを見失わなくて済む。自分をごまかさなくて済む。
本当に生きている気が、する。
……でもそれは……死の緊張感といつも隣り合わせにいるからなんだ……。
「あー」
そこから五分も行かないところで、風汰がしわがれた声を出した。
「喉カラッカラなのに、歌なんか歌うんじゃなかった。水欲しい、水!」
アニソンを歌いっぱなしだった喉が限界に来たみたいだ。
……もう少し考えて行動すればいいのに。
風汰とつないでいる手が、急に極端な方向転換をした。
「わ! 待って待って! こけるって!」
強い力で引きずられたオレは、転げそうになりながら、風汰のあとを追う形になる。
右側からかすかに水音が聞こえていた。
風汰は川に向かうらしい。
均されていない藪をかき分けての道行は苦労したけど、オレたちはわりとすぐに水場まで辿り着いた。
「わ。明るい」
思わぬ副産物。月が出ていた。枝の切れた渓流の上に、満月に近い光源が上がっている。
見渡せば、川の様子は、オレたちが昨日寝泊まりした場所よりも、もっと大岩で埋め尽くされていた。川幅は六メートルぐらいあるし、流れも急だけど、岩が足場になるから、下流へ進むのは、思いの外、楽にできそうだ。
顔ごと水中に沈めて水分補給をしている風汰に、
「なあ、このまま川沿いに行かない? それなら道にも迷わないし」
と提案すると、
「がぼがぼがぼ」
と……おそらく、賛同が返った。
つか、よくこの姿勢で水が飲めるな、こいつ……。
いったん腰を下ろすと、オレも風汰も、ちょっとの間、立ち上がる気力が失せてしまった。
川原の草地に寝転がって、これだけは元の世界と変わらない月の模様をしげしげと眺める。
風汰が、
「なあ……なんでオレたち、タイムスリップしたんだと思う?」
と答えようのない質問を放ってきた。
「さあ……。あんがい、武内宿禰が願いを叶えたんだったりしてね」
オレはおざなりに返して、目を閉じた。
礼拝した人間の望みを聞き届けるという武内宿禰の怨霊。
オレたちは、……神社は見つけていないけれど、きっとこの神さまの近くまでは来ている。
オレは……この土地を訪れるまでの道中、頭の隅でずっと(帰りたくない)と願っていた……。風汰と貴さんっていうオレにとって居心地のいい人たちと(いつまでもここにとどまりたい)って、ぼんやりとだけど望んでいた……。
そしていまも、こんな不便な目に遭っていても、その気持ちは変わっていない……。
「ごめんな」
と聞こえないように風汰に謝った。
武内宿禰が、オレの願いを叶えて、オレたちをこの世界に引き込んだ。
それはオレの想像に過ぎない。
……でも、たとえそれがただの加害妄想だったとしても、オレが、帰りたいと思っている風汰の気持ちを無視していることに変わりはない……。
……どうして、オレ、帰りたいと思えないんだろう……。
……どうして、こんな不便で危険な世界のほうがいいと、思ってしまうんだろう……。
ぽちゃん、と水音が響いた。
ちらっと見ると、半身を起こした風汰が、川に小石を投げ込んでいる。
ぽちゃん。
自然の中に静かに混じる風汰の存在。
ぽちゃん。
無言で小石を投げ続ける風汰の表情を確かめたくなくて、オレは腕で目を覆う。
ぽちゃん。
ごめんな、と、また繰り返す。
古代の死者の怨念を肩代わりしている凶神、武内宿禰……。
もしこの世界に来たことがオレの願望の産物だというなら、その力で、今度は関係のない風汰と貴さんを元の世界に戻してもらえないだろうか……。
それとも、二人が巻き添えを食ったのは、都合のいいことを願ったオレへの罰なんだろうか……。
ざらっとした感触が顎をなでた。
驚いて目を開けると、石の表面についていた砂粒をまとったままの風汰の手が、オレの顔を這っていた。
「な、なに?」
妙に真剣な様子の風汰に気圧されてどもると、やつは、思いつめた声で、ぼそりと、
「お前ってひげ薄いね」
と言ってきた。
…………。
…………。
…………は?
風汰の言葉の意図がわからなくて、不気味な行動にやや引き気味になりながら、
「……それがなに?」
と聞き返す。
すると風汰は、自分の顎を指さして、
「オレ、もうこんなに伸びちゃったよ。貴史、まさかひげ剃りは持ってないだろうなあ。サバイバルナイフで剃ろっかな」
と、本当にどうでもいいことを相談してきた。
……ひげ?
……ひげなんて、伸ばしっぱなしにしておけばよくない?
オレが困惑しているのに気づいたのか、風汰は、苦笑いしてから、
「だって、ここにいる間中、剃らないわけに行かないだろ。仙人みたいになったら嫁の来てだってなくなるじゃん」
と説明した。
…………。
…………。
…………。
……嫁?
風汰の言うことは、ますますわからない。
この世界で結婚なんかしたら、向こうに戻ったときに、むしろ困るだろうと思うのに……。
「なんでそんなに計画的にここに馴染もうとしてるんだよ、お前?」
わざと軽い調子で、オレはやつに真意を聞き出そうとした。
すると、風汰は、
「道に迷ったときは、迷ったと思わずに、そこに住んでると思ったほうがいいんだろ」
と貴さんの言葉を引用して答えた。
……ああ、そっか。
右も左もわからないこの異世界は、オレたちにとって、道のない山に迷い込んだようなものだったんだ。
そんな中で、オレは、正常な道に戻るべき方法だけを考えていた。日光東照宮を探そうとしたり、覚えのある時代区分に当てはめてみたり。
……そして、思い通りに行かないことに苛立ったり、罪悪感を持ったりした……。
でも風汰は……そうじゃなくて……。
「……もし長い間、元の世界に帰れなくても……風汰、お前だったら……なんとかなると……思う?」
この世界に根を下ろして、住み着く覚悟をした様子の風汰に、そう確認すると、
「まあ、他に人間もいるし、言葉も通じるしな。なんとかなるっしょ」
楽天的な考えが返ってきた。
……なんとかなる、か……。
……なんとかなる、かな……。だったらいいな……。
……それにしても……。
「切り替え早くね、風汰?」
ついさっき、今日の夕刻に『帰りたい帰りたくない』でオレと揉めたばかりの風汰が、あっさりと順応しようとしているのには、驚きを通り越して、少し呆れた。ポジティブすぎるというか……。
悩みを作らないやつだなあと、改めて思う。
そしたら、風汰は、
「切り替えたっつーか……」
とちょっと言葉を濁らせながら、こう続けた。
「だってさ、松田にとってここはけっこう理想なんだろ? 就職だ進学だ、なんて悩まなくて済むもんな。あっちの世界だったら、オレが本当に宝くじ当ててお前の進学の面倒を見てやろうと思ってたんだけど、でもそれって不確定すぎるでしょ? だからこのままでいいかと思ってさ」
…………。
……………………。
……月が明るい……。
……明るすぎて、ごまかせない……。
オレは、腕で隠していた目を風汰に見られないようにしながら、勢いよく起きだして、川面に向かった。
一瞬水面に映った自分の泣きっ面を、手を突っ込んで盛大に壊す。
風汰の優しさが大きすぎて、受け入れたいのに、逆に苦しい……。
わざと大きな音を立てて顔を洗い始めたオレに、風汰は、
「ど、どうしたの、急に」
と面食らったようだった。
でもすぐに、
「ああ。あの女にべろべろにされてたもんな」
と、勘違いして、笑う。
……オレはどうすればこの借りを返せるんだろう。
……なにをすれば、風汰や貴さんやオレが幸福になる結果を出せるんだろう。
川べりにしゃがみこんで、なかなか立ち上がれなかったオレを、風汰が心配して、
「……なんかあったの?」
と隣に寄り添ってきた。
何を返していいかわからなかったオレは、川面を見たまま、
「あの……」
と、とりあえず礼だけでも言いかけた。
水鏡の中、風汰の誠実な表情と、オレの情けない顔が、並ぶ。
その後ろに……。
刹那。
オレと風汰は揃って叫び声を上げた。
風汰がいち早く反応して水の中に逃げ込む。
オレも遅れて追随しながら、振り返って、自分の見たものの正体を確認した。
風汰の誠実な表情と、オレの情けない顔が並んだ、水の鏡の中。
そこに、オレたちに覆いかぶさるように現れたのは、白い毛と金色の目を持つ巨大な獣の影だった。
振り返った視界の中に立つ白髪猿は、どういうわけだか以前より一回りも大きくなっていた。発光しそうなほどの威圧感を備えた目が、ゆっくりとオレと風汰を見回し、それからオレに据えられる。
激しい興奮を思わせる歯ぎしりの音に混じって、生臭い涎の臭いがあたりに漂った。
肉食獣の雄叫びが空気に満ちる。
※一 のちに足利義稙と名乗った室町幕府一〇代将軍のことです。
※二 南北朝時代と室町時代を同時期に扱う考え方もありますが、ここでは歴史の流れとして『天皇が京都と奈良の南北に分裂して存在した時代』を南北朝、『京都に統括された時代』を室町時代と捉えています。
※三 『戦国時代』というのは室町時代の中期から安土桃山時代にかけての動乱期の別称になります。




