5
馬小屋の入口あたりから声が聞こえた。
また寝かけていたオレは、そっと頭を起こして、その主を探った。よくは見えないけど、どうも二人以上の人間がひそひそと話をしているらしい。
風汰に呼びかけようとして……。
……やめた。完全に寝入っている……。
昨日は徹夜で、しかもいままで絶食。無理もなかった。
もし外にいるのが筋肉男かなにかで、またオレたちに危害を加えようとしているのなら、むしろこのまま寝ていたほうがいいようにも思えるしな……。
どうせ刺されるときは刺されるし、殺されるときは殺される。起こして無用な恐怖心ばかりを与えるのは可哀想だった。
囁くような声がやんだと思ったら、急に、
「続きは今夜な!」
と怒鳴る男の声が響いた。
思わぬ展開にびっくりして、入り口をガン見する。
すると……。
……えっと……。
女、の人、だよね、あれ?
赤っぽい着物を来た、髪の長いシルエットが、逆光の中に浮かんでいた。
……この村って女もいるんだ……。
なんだかちょっと新鮮な気持ちになった。
この世界に来てから、女性といえばミニ姫ぐらいしか見ていない。……まあ、ミニ姫は女というより子どもだけど。……もっと言うなら人間じゃないけど。
姿を現した彼女は、一見では若い感じのシルエットだった。顔は翳になっていて見えないけど、細く締まったウェストと、その下の……えーっと……その……、お、お尻のあたりがちゃんと吊り上がっているのが、母さんのような中年を過ぎた人の体型とは違ったからだ。
…………。
……………………。
……変なところを観察したからか、オレはなんとなく気恥ずかしくなって、彼女から目を逸らした。
尻とか……あんまり女の人に視線を向ける場所じゃない……。
着物の擦れる音が近づいてきた。
……静かな歩き方だった。草履……なのかな……、あまり足を上げないで進む、慎ましい感じがする。
途中で何か呼びかけるかと思って、顔は背けたままだったけど、オレは彼女の言葉を待った。
でも……無言が続く。
衣擦れの音が、止まった。
風汰の前あたりだと気づいて、オレは、
「あ、そいつには……」
構うな、と忠告しようと、した。
……そして、そこで、初めて彼女の顔を見た。
…………。
こんなに綺麗な女性って、いるんだな……。
真っ白な肌と長い睫毛……。
紅い唇とぼんやりと開いた口元……。
目が、何の意思も示していなかった。オレたちに対して、嫌悪とも、珍奇とも思っていないみたいだった。薄い茶色の瞳が、ただ、こちらをまっすぐに見ている。
……無垢。
そんな言葉が頭に浮かんだ。
少しの間、彼女の顔に見とれたオレは、そこから自然に視点を下にずらして行った。
顔と同じく色白のなめらかな首元。ちょっとだけ緩んだ襟口からは、華奢で頼りない鎖骨が覗く。
続けて、くすんだえんじ色の着物に目を移したオレは、
「……! ごっごめん!」
と慌てて、また顔を背けた。
……ものっすごく薄い着物……だった。
……しかも、中には何も身につけていないようだった。
胸元の赤い突起をはっきりと見ちゃったオレは、心臓がバクバクし始めた。
視線を戻したい欲求に強く駆られたけど……その度胸はなかった……。
なんで美人がこんな無防備な格好してるんだよ……。
反則すぎだろ、これ……。
筋肉男が来たほうがまだましだったと思いながら、オレは、できるだけ自然に、……いや、もうバレバレだけど……、彼女の機嫌を損ねることだけはしないようにと配慮しながら、少しずつ体を彼女から遠ざけた。
……ちょっと鼓動が……やばいぐらい早いんだけど……。鼓動だけじゃなくて、いろいろまずいことになってるんだけど……。
しっかりしろよ!
と自分に喝を入れてみたけど、目の裏にさっきの突起が焼きついちゃってて、どうにもならない。
何一つ魅力を覚えないクラスの騒がしいだけの女子どもを思い出して諌めようとしたけど、駄目だった。
最悪の方法で、貴さんの○モセリフを反芻したけど、これも駄目だった。
「椿……」
あいつの名前を口にしたのは、ほとんど無意識の行為だった。
とたん、すとん、という感じで、舞い上がっていた理性が腹に落ちた。
深呼吸をして、さらに気分を落ち着ける。
……収まった。
縛られた後ろ手を極力ポケットのそばに持って行き、気持ちだけでも椿に寄り添う。
そうしたら、唐突に、今度はものすごく切ない感情が押し寄せてきた。
……会いてーなあ……。
椿がこんな格好していたら、オレ、いまなら遠慮しないのになあ……。
彼女の足音が、再度、進んだ。
そして、すぐそばに腰を落とした気配がした。
昨夜、風呂に入っていないことを思い出して、オレはまた慌て始めた。
「あんまり近づかないほうがっ……。はっ、話があるならそこから喋ってくださいっ」
パニクって思わず敬語になる。
なにやってんだよ、オレは!
未だに一言も発しない彼女の視線を、痛いほど感じた。
この人もなにやってんだよ。言いたいことがあるんなら、さっさと言って、さっさと帰ってくれよ!
右脇腹に熱い空気が当たった気がした。
……?
目を移す。
それから、
「ちょっ……!」
思わず叫んだ。
彼女がオレの腹に噛みつかんばかりに顔を寄せていた。呼気が服を通して皮膚にかかるのを感じる。
体をひねって逃れようとすると、今度は、オレの胴を抱えるように腕を回して、それを阻止してきた。彼女に抱きつかれたような格好になって、オレはますますどうしていいかわからなくなった。
頬をすり寄せて唇を押しつける、所作。
指先でゆっくりとあちこちを撫で擦る、動き。
……これって……あ、あれかな。……愛撫……ってやつ……かな。
なんでこんな状況でこんなことになるんだよ?
……って、ものすごく理不尽に感じた。
感じた……けど……。
……この先ってどうなるんだろう……。ついつい要らん好奇心と期待が頭をもたげる。
主に腰回りにつきまとっていた彼女は、少しすると、オレの服装の仕組みに興味を持ったようだった。
Tシャツを引っ張ってみたり、ズボンの履き口に指をかけたりと、まるでおもちゃの機能でも試すような無邪気な様子で、オレの服を脱がそうとしている。
抵抗の仕方もよくわからなくて、オレはされるがまま、でも緊張は解けつつあったから、こんな軽口を叩いてみた。
「着物とは違うだろ。簡単には脱げないよ」
と。
そしたら彼女は、ひどく悲しそうな顔をして、
「お前、サルヒコの匂いがする」
と言った。
それから、
「お前、サルヒコに会っただろ? サルヒコに触れただろ?」
と矢継ぎ早に続けた。
サルヒコ……?
聞き覚えのない名前に強く引っかかったのと同時に、オレは、彼女が喋ったことに驚いた。なんとなく、この女は口が利けないんじゃないかと思い込んでいたんだ。
何の感情も宿していなかった瞳。人前に平気でこんな格好を晒す常識のなさ。このへんの特徴から、もしかしたら精神が破綻しているんじゃないかと感じたから。
だから……その……。色情狂みたいな相手なら、……その……、話が通じないんだから、オレには非はないとか……、えっと、まあ……そういう都合のいいことを言い訳していたりしたんだけど……。
…………。
……はあ……。
自分がひどく卑怯な男になったような気がして、オレは、目礼で彼女に詫びた。
そして、
「サルヒコって人は知らないよ。オレがいままでに会ったのは、この村にいるはずの男三人だけだけど、サルヒコはその中にいるのかな?」
とできるかぎり親切に彼女の質問に答えてやった。
でも彼女は、長い睫毛を伏して黙りこんだあと、寂しそうに、
「サルヒコはここにはいない」
とだけ返す。
……コミュニケーションを取るの、難しいな……。
やっぱり、まともではないんだろうな……この人……。
会話では埒が明かないと思ったのは、向こうも一緒だったらしい。
彼女の手が再びオレのTシャツにかかった。そして、今度はすんなりと上方へ引き上げていく。
裾がズボンから引き出されて、右脇腹が顕わになった。
……ズボンのほうを下げられたらやばかったけど、こっちでよかった……。
オレの腹には、まだ、昨日の白髪猿に鷲掴みにされたときの痣がくっきりと残っていた。
彼女がその痕を指先でいじるので、
「あ……と。大きな猿にね……ええと……捕まっちゃって……」
としどろもどろに説明する。
すると彼女は、いきなり、痣の部分に歯を当てた。
痛くはなかったけど、びっくりして、
「ひう」
と喉から変な声が出た。
そのまま彼女は、貪るように、脇腹に吸いつき始めた。
くすぐったいし痛いし……でもそれ以上に……。
……恥ずかしいし……。
そんなんで、オレはもう涙目だった。
さっさとどっかに行ってくれよお……。
どれぐらいの時間が経ったんだろう。
仰向けに転がったオレの上から、すっと、彼女の体重がなくなった。
見ると、すでに薄闇に包まれたかつての馬小屋の中を、来たときと同じような優雅な足取りで、入口のほうに遠ざかっていく。
……終わった……。
ゆっくりと体を起こすと、彼女がめくり上げたTシャツをふるい落とした。
あっちこっち舐められて皮膚がべたべただった。気持ち悪いとは思わないけど、(なんでこうなったんだ)という疑問だけは盛大に残っている。
性交、に関して、オレはあんまり詳しくない。でもなんとなく(あれをこうするんだろうなあ)ぐらいのイメージは持っていた。
あの女がオレにしたのは……だから、性交ではなかった。なんつーか……その前の段階……なのかな、あれ? 上着は取られたけど、下半身にはまったく触れられなかったし……。
あーうん……。
……………………キスはされた。
……………………それもすっごい長い時間。
……………………窒息死するかと思った。
なんかまた泣きたくなってきて、代わりに、オレは彼女の消えていった方向に向かってつぶやいた。
「馬鹿野郎。二度と来んな」
……本心では未練があったから、本当に聞かれないように小声にしておく。
風汰がもぞもぞと動き出した。
オレは慌てて口まわりを肩口で拭き取った。
……よし。表向きの痕跡は消した。これで風汰には気づかれないはず。
身じろぎはするけどなかなか起き出さない風汰に、オレのほうが痺れを切らして呼びかけた。
「まだ寝足りない? でもそろそろ起きてくれよ」
と。
そしたら風汰は、目を閉じたまま、口だけ開けて、こう言った。
「……もう起きてもいい感じ?」
…………。
……いつから、目、覚ましてた、こいつ……?
オレはますます泣きたくなった。




