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ミニ姫を虐待した人間がいたかもしれない場所から流れてきた、椀と箸。
頭までびしょ濡れになりながら、
「さみー。服くれ、服」
と嘆く風汰は、見事に両方ともを持ち帰ってきた。
椀はともかく、箸なんて小さいものを、しかも一膳分の二本とも回収した根気には感心する。
サッカーの練習中にはユニフォームの下に隠れているはずの肩や上半身まで真っ黒に日焼けしている風汰を見て、
「お前、水泳部に転部したほうがいいんじゃない?」
と密かに褒めると、風汰は、
「そろそろ部活から追い出されそうな受験生に向かって、よく言うな、お前」
とやり返された。
体を拭いたタオルをわざとミニ姫の上に落として、ミニ姫から盛大に抗議をもらうところまでが、風汰らしい。
夏の午前の陽光が、ようやくこの山の中にも降り注ぐようになってきた。意外にもまだ九時前だ。
陽だまりを見つけて、
「あったけー。ちょい休憩」
と寝転ぶ風汰を囲みながら、オレと貴さんは、今後の動きについて詳細を詰め始める。
「とにかく、はっきりとしているのは、ミニ姫が人間にひどい目に遭わされたってことなんだ。その人間が誰であるかがわからないうちは、むやみに近づかないほうがいいと思う」
提案するオレに向かって、まず異を唱えたのは風汰だった。
「近づくも何も、どこにいるかもわかんねーやつを避けることなんかできないぜ? だからとりあえず村だか家だかを探したほうがいいとは思う。万一、そのきょーあくな人間に会っちまっても、チビのことはなんとでもごまかせるだろ?」
と。
オレの膝に乗り込んで会話の行く先にきょろきょろと顔を向けているミニ姫を、オレはそっと掌に移した。
……たしかに、巣箱ごとってことならともかく、ミニ姫単体のこの大きさなら、どこにだって隠せないことはない。
心地よい重さを感じたまま、オレは会話を再開した。
「それじゃあ予定どおり、このまま上流に向かって進むってことでいいんだな? その途中で村や人間を発見したら、そのときにまた考えるってことで?」
確認すると、今度は貴さんが、
「それしかないんじゃないかな。逆方向に進路を取っても実りはなさそうだし、いつまでもこのあたりに留まることもできないしね」
と賛同する。
「念のため、チビは貴史が隠しといて。オレか松田が先陣切って進むから、もしやばそうな事態になったら、お前らだけでも逃げてくれよ」
風汰がさらに作戦を強化した。
川から拾い上げた椀と箸。
どんな人間が使っていたものかを推測しようと、オレたちは、そのあとのちょっとの時間、それらをいじくりまわしてみた。
飾り気はないけれど綺麗に成形された白木の椀。均等な長さと太さが技術の高さを思わせる箸。少なくとも、ある程度の技能者の手が入っているのは間違いがなさそうだった。
貴さんに、
「こういう技術っていつごろからあったの?」
と聞くと、
「平安時代にはあったとされるけど、木地師(※一)の保護が行われたのは、それ以降から室町時代までかな。もっとも、有名な飛騨の匠って呼ばれる加工集団は室町以降に栄えたはずだから、年代を特定するのは難しいね」
と難渋を示した。
つまり、この椀を作れる人間は、平安時代よりあとだったらいくらでも存在したってことか。
他になにか特徴はないかと、椀をひっくり返したオレの指が、わずかな引っかかりを感知した。
「あれ?」
よく見ると、椀の底の脚の部分(※二)に深い切り込みが入っている。
「これ……」
貴さんと風汰に見せると、
「刃物の傷だよな、これ」
「ずいぶん乱暴に扱われたんだね」
と二人から返事が返ってきた。
食い物を入れる食器に刃物の痕がつく……。
それって、どんな状況が思いつくんだろう……。
食器が使われるのは食事の時間だ。飯を囲んだ、きっと、和やかな時間。家族で集まっているだろうし、もっと大人数の会合とかも考えられる。
いずれにしても複数の人の居合わせる場面。そして、そんな席では、ふつう、刃物の扱いにも慎重になるだろう。
しかも、たとえば食材等を食器の上で切り分けていて、うっかり手が滑ったのなら、傷は表側につくはずだ。こんな裏に、こんなに力の入った状態でつくわけがない。
…………。
……………………。
「なあ……。この椀と箸、なんで川を流れてきたんだと思う?」
オレが質問すると、また風汰と貴さんは、今度は同時に、
「食事の後かたづけで洗い物をしてたときに、誤って流しちゃったんじゃないの?」
というニュアンスのことを答えた。
……うん。
オレも最初はそう思ったんだ。
……この傷を見るまでは。
オレは椀の内側を二人の前でこすって見せた。丁寧に磨かれた道具が奏でる、きゅっきゅっ、という音がする。
「これ、洗い物の途中だったとしたら、こんなに綺麗な状態でいるものなのかな? ちょっと考えてみてよ」
オレの質問の意図は、二人にはまったく読めなかったらしい。
再度、風汰がまず先に、
「流れてくるうちに飯粒とかが剥がれたんだろ」
と反論し、
「洗い物じゃなかったとしたら、英士くんは、わざとこのお椀が流されたと思うの?」
と貴さんは聞き返す。
オレは次に、椀をひっくり返して右手で握りこみ、それを額の前に掲げた。
「もし目の前に刃物を持って襲ってきたやつがいたとして、そばにこの椀があったとしたら、とっさにこんな風にかざしたりしない?」
ミニ姫を容赦なくあんな目に遭わせる人間たちなんだから、他に殺伐とした状況を作っていてもおかしくない。
オレの推理は、オレの偏見から来ていた。それは認める。
でも、なんだかひどくしっくりと納得したんだ。
ミニ姫は小人だから捨てられたんじゃない。もともと関わった連中が、人間同士の間でも諍いを起こすような野蛮なやつらだったからなんだ、と。
「山賊、ってこと?」
貴さんの問いに、オレはうなずいた。
「考えてみたら、こんな山の中に住んでるってのもおかしなことだよね。昨日からオレたち、人の痕跡なんかまったく見なかっただろ。逆にあんな猿が堂々と住み着いてるようなとこなんだぜ、ここ。山賊ほどの凶悪性はないとしても、それなりの戦闘力を持ってるやつらの根城のような気がするんだ」
風汰が、たぶんいままで頭が回ってなかったんだろう、やっと会話に参戦する。
「なあ。もしお前の言うとおり、刃物で襲われたような状況があったとして、……で、この椀が綺麗な意味って何なの?」
「それは……」
オレは一瞬言葉を濁した。答えが思いつかなかったからじゃない。あんまりにも自分よがりの発想だったからだ。
でも、もうここまで話しちゃったんだから、いまさらバカバカしいとか遠慮するのはなしにしなきゃ……な。
オレは、自分の考えが正しいとあえて結論づけて、風汰と貴さんに、断定的に説明した。
「刃物を持ってる相手に椀一つで防ぎきれるわけはないだろ。だから……襲われたやつは死んだんじゃないかとオレは思うんだ。椀を流したのは、死んだ人間が最期に命乞いの盾に使った道具だったから、気味悪くて残しておけなかったと感じるんだよ。だから鎮魂の意味を込めて綺麗に清めたあと、川の流れに任せたんじゃないかな」
と。
食器の並ぶ席に同席していたはずの殺人者と殺害された人間。それは、もしかしたら家族並みに近しい間柄だったのかもしれない。
とっさにかざすことができたほど使い慣れた椀は、死んだ人の愛用していたものだったのかもしれない。
自らが手を下した殺人者。そしてその現場を間近で見ていた他の人間たち。そいつらにとって、形見となってしまった椀や箸は、精神衛生上あまりそばに置きたいものではないだろう。かと言ってただ無下に捨てるのも抵抗があったはずだ。
だから、死者の魂が自然の流れの中に還っていけるようにと、精霊流しの送りをしたんじゃないだろうか。
「……松田って」
複雑な表情を見せる風汰に、いまさらながら恥ずかしくなったオレは、
「妄想が激しくて悪かったな」
と先制した。
でも、風汰から返った言葉は意外なものだった。
「よくそんなこと思いつくな。うん、でもわかるわ、それ。つか、オレ、人が死んだら怖いとかって、あんま考えたことなかった。生きてたときに使ってたものが気になるとかさあ。死んだらなんとなくその先が切れてるような気がしたんだ」
風汰の家は家族の誰もが健在だということだった。
オレは父さんを早くに亡くしている。母さんは未だに父さんの霊魂に頼っているようなところがあった。だから考えの差が生まれるんだろう。
自らが生死の間で揺れ動いたことのある貴さんは、
「僕も死んだら怖がられるのかな?」
とちょっとずれたことを言った。
でもすぐに、
「死んで何も影響を残さない人間なんて、いないか……」
と微妙な意味合いで、オレの推測を……たぶん、肯定した。
風汰がオレの手からミニ姫を受け取って、若干、乱暴に頭を撫でる。
「山賊の村だって。どうするよ、チビ?」
軽い口調でそう話す風汰に、かなり迷惑そうな顔をしながら、ミニ姫は、それでもおとなしくされるままになっていた。
「いったんは遠ざけた姫ちゃんがまだ生きてると知ったら、そういう血気盛んな集団は、今度こそ姫ちゃんをどうにかしちゃうかもしれないね……」
貴さんがうつむきながら暗い声でつぶやく。
「大丈夫だって」
風汰が無責任に請け負う。
「オレと松田でなんとかしてやるから」
適当に希望的観測を放つその顔は、でも、目が笑っていなかった。
……オレは、一瞬でも『ミニ姫を置いていく』という選択をしたのがオレだけだったと、知った……。
「ごめん……」
こっそりとミニ姫に謝ると、わずかな声量をちゃんと聞き分けた彼女は、オレのほうに顔を向けた。
そして。
……案外、お見通しだったのかな……。
信頼しきった無邪気な笑顔で、オレのほうに腕を伸ばした。
※一 木材からロクロ状の機械を使って木製品の加工を行っていた人々のこと。極めて高い技術を持っていたことから、幕府や朝廷に重用され、明治の初めまで国の庇護を断続的に受けたとされています。
※二 正式には『糸底』と言います。




