番外編「本日の閣下」第3話
幸薄い、ないすみどるな閣下の唯一の楽しみであり、息抜きなのが、午後のお菓子作りです。
服を汚さないように前掛けをつける姿は年季が入ってらっしゃいます。
しゅっと紐を結ぶ様子など、奥様方がご覧になったら鼻血ものですよ?
今日はこの間、チトセさんが作ってみせた、ぷりんというお菓子を作られるようです。
ただし、チトセさんが元いた世界とこちらとでは、食材に違いがあるので、まったく同じもの、というわけには、いかないのだそうです。
さて、用意する材料は、キテンフォーの乳、同乳を濃縮した生くりーむ、グレンフィビスの卵、お砂糖、ベベラの実から抽出されたえっせんす、ウーゼン酒です。
ちなみにチトセさんはそれぞれを、キッチンブラボー、べレッタヒッピー、ゴモラ、ウーロン、と呼んでいました。
どういう耳をしているんでしょうね、彼女は。覚える気があるとは思えません。
まぁ、それはさておき、閣下の特技として、一度作られたお菓子の作り方は絶対に忘れない、というものがありまして、今回も書付など見ずに、手際よく作られております。
その脇で数人の若い料理人見習いたちが、熱心に見学していました。
そう、閣下は彼らの尊敬対象、お菓子作り界の星なのです。
おそらくお菓子作りにおいては、閣下の右に出る者はいないことでしょう。
何せ、年季が違いますからね。
人間の何十倍も長生きの閣下が蓄えた作ることが出来るお菓子の種類は、実に数千種類とも数万種類とも言われています。
古今東西の菓子を作り続け、腕を磨き、たまに新作を発案する、閣下のお菓子への飽くなき情熱は、今すぐ宰相を辞めて菓子職人になってしまえばいいのに、と思われなくもないほどです。
しかし閣下が辞職されないのは、宰相の地位にあれば珍しく手に入れるのが難しい食材でも、城に献上されることがあったり、権力によって手に入れやすくなるからという説がもっとも有力です。
さすがは閣下。計算高くていらっしゃいますね。
おや、型に入れたぷりんを蒸している間に、もう一つお菓子を作られるようです。
実はぷりんというお菓子は、作ってから一日置いた方が卵臭さが抜けて美味しいのだと、閣下が見習いの料理人たちに説明しておられます。
へぇ、そうなんですか。作りたてじゃない方が美味しいこともあるんですね。ためになります。
閣下はあらかじめ寝かせておいた生地を取り出して、形を作ってゆかれます。
どうやらハバンナという焼き菓子のようです。チトセさんはくっきーだと言っていました。
蒸し終えたぷりんを魔力で稼動する氷室に入れて、ハバンナを焼き始めると、閣下は使った器具を、ご自分で洗われます。
いくら見学していた見習いたちが「自分たちが洗いますから」と言っても、閣下は首を横に振ります。
この辺りに閣下の几帳面さが現れているのではないでしょうか。
自分の道具は自分で手入れをする。
その職人気質に、見習いたちは更に閣下に心酔していくのでした。
お菓子作りはその過程も楽しいものですが、やはり食べてもらう時が一番でしょう。
閣下は焼き上がったハバンナを、いくつか見習いたちと味見をして、意見や感想などを求めた後、茶道具一式と共に厨房を出られました。
閣下は毎日、陛下のためにお菓子を作られるのですが、閣下の足は執務室とは別の方向に向かっています。
それは陛下がこの時間帯におられるのは、別の場所だとご存知だからです。
城のとある一角に、その部屋はありました。
重く頑丈な扉を叩くと、短い返事と共に扉が開かれました。
「宰相閣下、どうぞいらっしゃいまし」
「あぁ、邪魔をする」
にこやかに閣下を出迎えた人物は、初老の女性でした。
閣下がお茶時にここを訪れるのは、一年前からの日課となっているので、彼女も慣れたものです。
手際よく机の上を片付けて、閣下が用意されるのを手伝います。
「いつもすまないな」
「いいえ。ちょうど休憩時間でございますからね。チトセ以外の者は出払っておりますし。それにご相伴にあずかれるのですから、これくらいのことは致しますわ」
「陛下も来ておられるのだろう?」
「えぇ、奥にいらっしゃいます」
ちょうどその時、女性の示した扉が開き、隣の部屋から件の人物が顔をお出しになりました。
「あぁ、やっぱり。いい匂いがしたから、そうだと思ったんだ」
陛下はにっこりとお笑いになると、後ろを振り返って呼びかけられます。
「チトセ、お茶の時間だよ」
「……う〜、今行きます」
首をベキバキならす音がして、チトセさんが出てきました。
そして既に用意が済んでいる机を見て、申し訳なさそうな顔をします。
「すみません。いつもここまで運んでいただいて」
朝とは打って変わって丁寧な口調で言いました。
正確に言うと、いつもは丁寧な口調なのですが、主に陛下のことについて頭に血が上っている時に、口が悪くなるようです。
次いでチトセさんは中年女性の方にも頭を下げました。
「室長もすみませんでした。本来なら下っ端の私が出迎えるべきですのに……」
室長と呼ばれた女性は、ころころと笑いながら言いました。
「気にすることはありませんよ。それよりも執筆の方は進んでいますか?」
「はい、おかげ様で」
チトセさんは現在、故郷に伝わる古い書物を、こちらの言葉で書いているのだそうです。
それも魔力が目覚めてから得た、興味があること限定の記憶力のおかげだと言います。
なんでもあちらで何度も何度も読み返して、一字一句残さず頭に叩き込んできたとか。
それが一つや二つではないというから、驚きです。
もはや執念と言っても過言ではないでしょう。
彼女はそれを仕事の休憩時間や就寝前を利用して、少しずつ書き溜めています。
いずれこちらの世界全土に普及させることが、彼女の野望なのだそうです。