番外編「本日の閣下」第2話
「……で、当の陛下はどこにいらっしゃるのだ?」
気を取り直して、閣下はチトセさんにお尋ねになります。
チトセさんは肩をすくめて答えました。
「さぁ? とりあえずベッドから蹴落として、着替えるからって追い出して、ドアから出たらまた面倒なことになるから、こっそり窓から飛び降りて来からさ」
こちらに来て一年になるチトセさんも、だいぶ魔力の制御方法を覚えてきたみたいです。
しかしその主な用途は、魔王陛下から逃れるためのようですが。
「あ、チトセ。 こんな所に居たの?」
噂をすれば、なんとやら。
魔王陛下がチトセさんのやって来た方からやってらっしゃいます。
それを見たチトセさんは、
「げっ、じゃあ兄さん、あとよろしく!」
と言い残して、一目散に反対方向へ駆け出して行きました。
それを見送った閣下は、腹を決めて振り返りました。
そこには、先ほどからバチバチどころか、グサグサと刺さるような殺気を醸し出している魔王陛下のお姿がありました。
「お早うございます、陛下。今日もいい天気ですね」
会話に困った時には、天気の話題を出せばいいのです。
しかし残念ながら会話の奥の手は、陛下に通用しませんでした。
「お早う、ジュトー。ねぇ、一つ聞いてもいい?」
「何でございましょう」
「どうしてチトセと話していたの?」
陛下は笑っていらっしゃいますが、目は全く笑っていません。
大抵のことでは動じない閣下も、背中に嫌な汗が流れるのが分かりました。
「いえ、たいしたことではございません。偶然会って、朝の挨拶を交わしていただけですので」
「ふぅん。ここはチトセの部屋から大分離れているけれどね。仕事場に行くにも通らないでしょう?」
「そういえば、そうでございますね。散歩でもしていたのではありませんか?」
一時は焦ったものの毎度のことなので、閣下はすっかり立ち直してとぼけます。
亀の甲より年の功。
宰相なんぞを長年やっていると、面の皮も厚くなるというものです。
まぁ、こうして朝のひと時は過ぎて行きました。
しかし、閣下の一日はまだ始まったばかりです。
この程度では終わりません。
魔王陛下は政に私情を挟むようなお方ではありませんが、休憩時間には、閣下の淹れたお茶を飲みつつ、愚痴をこぼされることもあります。
「ねぇ、ジュトー」
「はい?」
「どうしてチトセの職場は、執務室の近くではないのだろうね」
この一年近く、毎日のようにくり返されてきた陛下の問いに、閣下は内心、
(またか)
と思いつつ、お答えになります。
「この城内で空いていて、且つチトセに合った職場がたまたま書庫だっただけでしょう」
「……僕の秘書官でも良かったのではない?」
実は閣下も陛下から圧力を受けて、チトセさんに秘書官にならないか、と打診をしたのですが、彼女は、
『はっ、冗談じゃない。あんなのと四六時中一緒にいたら、絶対神経持たないって』
と言って、頑として首を縦に振らなかったのです。
しかしそんなことを陛下に言えるはずもなく、閣下はもっともらしい理由をでっちあげました。
これも毎度のことですから言い慣れたもので、すらすらと出てきます。
「秘書官は足りておりますよ。それに書庫係も秘書官と同じくらい、大事な役目でしょう。今までの書類を全て保管しているのですから。チトセが提案した書類分別法で、かなり書類が探しやすくなったと評判ですよ」
後半は本当のことです。
チトセさんとしては元いた世界で学んだことを、応用しているだけらしいのですけれどね。
閣下はまだ不満そうにしている陛下を軽く無視して、ご自分の仕事に戻られます。
何しろ仕事は山ほどあるのですから、いつまでも陛下のお相手ばかりはしていられません。
「じゃ、さっさと片付けて、僕の方から行こうかな」
悪巧みを考えついた子どものように笑う陛下に、新たな嵐の予感を感じ閣下はそっと目を閉じました。
(……頑張れ、チトセ)
心の中で哀れな、それでもたくましい教え子に声援を送り、そして自分にもきっと回りまわって被害が及ぶだろうことを予想し、閣下は嘆息なさるのでした。