第9章 もう、あなたのものじゃない
ハルランが驚愕に目を見開いたのも、ほんの一瞬だった。すぐにその眉間に深い皺が刻まれ、激しい怒りへと変わる。男は怒りに顎を震わせ、荒い呼吸が静かな空気を乱した。
「おい! お前、誰だ?!」
ハルランの怒鳴り声が響き渡り、周囲の数人が怪訝そうにこちらを振り返る。
彼は足早に詰め寄り、トリアの腕を掴もうとした。だが、それよりも早く隣の男の手が動いた。迷いのない、鋭い動作でその腕を振り払う。
「あんたには関係ないことだ。出発の時間なのでね」
男は淡々と言い放った。トリアの肩に置かれた手は、片時も離されることはなかった。
「彼女は俺の恋人だぞ! 貴様、一体何者だ?!」
ハルランは完全に理性を失い、金切り声を上げた。
隣の男はわずかに首を傾け、ハルランを冷ややかな目で見据えた後、困惑に震えるトリアへと視線を落とした。
「君は、彼の恋人なのか?」
トリアは危うく頷きそうになった。長年の習慣が染み付いた、無意識の反応だった。しかし、その動きを瞬時に飲み込む。彼女は力なく肩を落とし、静かに首を振った。
「違う……もう、違うの」
床を見つめたまま、消え入りそうな声で呟く。
「聞いたか。彼女は君の恋人じゃないと言っている」男は短く息を吐き出した。「見苦しい真似はやめるんだな」
男はトリアのスーツケースのハンドルを握り、彼女の肩を抱いたまま歩き出した。トリアは抗う気力もなく、ただその導きに従うしかなかった。
「トリア……待ってくれ、行かないでくれ!」
背後からハルランの叫びが聞こえる。
トリアが思わず振り返ろうとすると、男の低い囁きがそれを遮った。その声は、彼女の耳にだけ届くほど近かった。
「振り向いちゃいけない。そのまま歩くんだ。シャニアから君のことは聞いている。今は離れる必要がある……少なくとも、しばらくの間は」
シャニアの名を聞き、トリアの身体がわずかに強張った。「はい……」
彼女は再びうつむき、男の歩調に合わせて足を動かした。
「トリア! まさか、適当な理由をつけて逃げるつもりか! 浮気をしていたのは、お前の方なんじゃないのか!」
その言葉は、鋭い刃となってトリアの背中に突き刺さった。唐突に足が止まり、彼女の瞳は衝撃に見開かれる。激しく上下する鼓動に耐えきれず、反射的に肩に置かれた男の手を振り払った。
だが、男は素早く彼女の腕を掴んだ。乱暴ではなく、しかし彼女の足を止めるには十分な強さだった。
「トリアさん……」
男が名を呼ぶ。
トリアが顔を上げると、彼は穏やかな眼差しで彼女を見つめ返していた。そして、背後の罵声など聞く必要はないとなだめるように、静かに首を振った。
張り詰めていた糸が、ぷつりと切れた。
最初の涙が、こらえきれずに頬を伝う。続いて溢れ出した涙が、止まることなく彼女の顔を濡らした。肩が激しく震え、押し殺した嗚咽が漏れる。
男は、少しずり落ちていたトリアのサングラスを、壊れ物を扱うような手つきで優しく直した。それから再び彼女を促し、騒ぎの中心から遠ざけるように歩き出した。
ハルランはまだ何かを叫んでいたが、その声は感情に押し潰され、形を成していなかった。彼がさらに近づこうとした瞬間、駆けつけた警備員に制止され、その騒乱は強制的に幕を閉じた。
トリアは二度と振り返らなかった。ただ、導かれるままに歩き続けた。溢れ出す涙を拭うことも忘れ、ただ泣き続けた。
見知らぬその男は、ずっと彼女の隣を歩いていた。トリアの腕を支えるその手は、まるで崩れ去った世界の中で唯一残された支柱であるかのように、決して離されることはなかった。
近くの売店から漂うコーヒーの香りが、床を転がるスーツケースの音と混ざり合う。頭上の案内板は、数秒おきに点滅しながら出発便の情報を書き換えていた。
二人はチェックインの列に並んだ。男は背筋を伸ばして立ち、手際よくモバイルチケットと身分証を提示した。トリアはその後に続いた。
カウンターの横で、トリアは時折濡れた頬を拭いながら立ち尽くしていた。スタッフは事務的な微笑みを浮かべ、余計なことは一切尋ねない。数秒後には、二人のボーディングパスが手渡された。
保安検査場へと向かう道中、聞こえるのはX線検査機の作動音と係員の指示の声だけだった。検査を終え、二人はより静かなエアサイドへと足を踏み入れた。
男は数歩先を歩いていたが、トリアの足取りが重くなるたびに、何も言わずに歩幅を合わせた。
通路の突き当たりに、ようやく「ゲート9」の文字が見えてきた。搭乗を待つ乗客たちは、スマートフォンを眺めたり本を読んだりと、思い思いの時間を過ごしている。モニターには『デンパサール(DPS)―搭乗開始 16:25―ゲート9』と鮮やかに表示されていた。男は足を止め、トリアの様子を伺うように振り返った。
「まずは座って。ゆっくり呼吸を整えてください」
その声は、驚くほど柔らかかった。
トリアは力なく頷き、窓際の椅子に腰を下ろした。男も無言でその隣に座る。
しばらくの間、沈黙が流れた。やがてトリアの嗚咽は、短く震える吐息へと変わっていった。
「すみません……あの、あなたは一体……?」
トリアは少し首を傾け、サングラスの奥から彼を覗き込むように尋ねた。
「ユダです。ユダ・プラディプタ」
ユダは深く頭を下げた。その声には、先ほどまでの毅然とした響きはなく、どこか決まり悪そうな色が混じっている。
「さ、さっきは……失礼なことをしてすみませんでした。許可も得ずにいきなり肩を抱いたりして。正直、あの時はそれしか思いつかなかったんです」
トリアは顔を上げた。先ほどの冷徹なまでの強さとは対照的な、彼のぎこちない態度に少しだけ驚く。
「いえ……大丈夫です。気にしていませんから」
トリアが静かに答えると、ユダは再び顔を上げ、照れくさそうに小さく笑った。
「僕はバリにいるシャニアの友人なんです。たまたま出発便が同じだったので、彼女から君を探してほしいと頼まれていました。事情も、少しだけ聞いています」
トリアは改めて彼を観察した。ハルランに対峙していた時の圧倒的な自信は影を潜めている。そこにいたのは、女性の扱いに慣れていないような、少し不器用で、少しだけ緊張した様子の男だった。
「でも……どうして私がトリアだと分かったんですか? 適当に声をかけたわけじゃないですよね?」
「ああ……さっきのコーヒーショップで、君の後ろの席にいたんです。君がオンラインチケットを開いた時、画面に名前が出ているのが見えて」
トリアは納得したように小さく頷いた。少し考えた後、彼女はユダの方へそっと手を差し出した。
「……改めて、よろしくお願いします。それから、助けてくれてありがとうございました」
ユダはその手を握り返した。
「こちらこそ。よろしくお願いします」
ようやく息をつける展開でした。ユダさん、頼もしいですね。次の章も楽しみにしてて。ブックマーク忘れないでね。




