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第8章 出発の前に

 ハルランは執務室を飛び出した。顔は険しく強張り、指先はトリアの退職願を、まるで信じがたい現実を握りつぶすかのように強く握りしめている。


 ドアも閉めずに部屋を後にする彼の背中に、数人の社員が怪訝な視線を向けた。だが、誰一人として声をかける勇気はない。ハルランから放たれる刺々しい焦燥感は、周囲を沈黙させるに十分だった。彼は迷うことなくスタッフのデスクが並ぶエリアへと突き進み、サンティの席の前で足を止めた。


 モニターの青白い光がサンティの横顔を無機質に照らしている。彼女の指先は、いつものように速いリズムでキーボードを叩いていた。目の前にハルランが立っても、彼女は顔を上げようとはしない。まるで、そこに誰もいないかのように扱っていた。


「サンティ……トリアはどこだ?」


 ハルランの声が、わずかに震えた。


 サンティの指が止まった。それでも視線は画面に固定されたままだ。表情一つ変えず、突き放すような冷ややかな声が返ってくる。


「もう行ったわ。遠くへね」


「遠くへ? 両親が来るんじゃなかったのか?」


「さあ。自分で連絡してみたら?」


 サンティは再びタイピングを始めた。


「サン――」


 ハルランは思わずサンティの手首を掴んだ。


 その瞬間、サンティは激しくその手を振り払った。わずかに身を引き、拒絶を露わにした鋭い視線で彼を射抜く。


「触らないで……」


 ハルランは息を呑み、お手上げだと言わんばかりに両手を上げた。そして、声を絞り出す。


「すまない……ただ、お願いだ。トリアがどこにいるか教えてくれ。会いたいんだ」


 彼は手に持っていたトリアの退職願を、サンティのデスクに置いた。


 サンティはその紙を一瞥した。深く、重い溜息が漏れる。隠しきれない失望がそこにはあった。それでも、彼女は再びモニターへと向き直る。


「悪いけど、忙しいの」


「サンティ……頼む」


 ハルランの声から力が抜け落ちていく。「俺が悪かったのは分かっている。せめて、謝らせてくれ。ちゃんと別れを言いたいんだ」


 初めて、サンティが彼を正面から見据えた。その瞳には、深い嫌悪の色が宿っている。


「正直、反吐が出るわ。ハル」


 彼女は短く息を吸い、噛みしめるような低い声で続けた。


「あの子はあんなに優しくて……あんなにあなたのことを想っていたのに。それをあんな風に踏みにじるなんて」


 ハルランは少しうつむき、感情を押し殺すようにぐっと顎を強張らせた。「ああ……分かっている。もう修復できないことも。でも、頼む……謝る機会をくれ」


 サンティは背もたれに身を預け、胸の前で固く腕を組んだ。数秒の沈黙。葛藤の末、彼女はついに口を開いた。


「空港よ。四時半の便」


 再び、突き刺すような視線がハルランを捉える。


「それだけ。どこへ行くかは教えないわ」


 ハルランの表情が一変した。目を見開き、すぐさま手首の時計を確認する。デジタル数字は『15:10』を示していた。


「まだ、間に合う……」


 消え入りそうな声で呟くと、彼は短く「ありがとう」と言い残し、エレベーターへと小走りに駆け出した。大理石の床に、焦燥に駆られた足音が虚しく響く。


 エレベーターの扉が閉まると、サンティは虚ろな目でモニターを見つめた。胸の奥に溜まっていた重苦しい塊を吐き出すように、長い溜息をつく。


 彼女はそっと目を閉じ、再びキーボードを叩き始めた。


「これで良かったのよね……これ以上、あの子が傷つかなければいいけど……」


 祈るような呟きは、静かなオフィスに溶けて消えた。


 *


 夕暮れ時のスカルノ・ハッタ国際空港は、行き交う人々の波で溢れかえっていた。国内線出発ロビーの隅にあるコーヒーショップで、トリアは一人、椅子に深く腰掛けていた。


 大きなサングラスが、赤く腫れた瞼を隠している。指先は、すでに冷めきったコーヒーカップを力なく包んでいた。隣には青いスーツケースが、主人の出発の合図を待つかのように静かに佇んでいる。


 周囲にはバリスタの声や人々の足音、賑やかな話し声が満ちているというのに、彼女の視線はテーブルの一点を見つめたまま動かない。


 数時間前、サンティが当てもなく車を走らせていた時のことを思い出していた。トリアはついに、自分の決意を打ち明けたのだ。ハルランに会うのがもう限界だと告げた時、声がどれほど震えていたか。


「もう無理なの、サンティ……耐えられない」


 その言葉は今も耳の奥に残り、胸を締め付ける。


 サンティは涙を浮かべながらも、親友の前では毅然と振る舞おうとしていた。トリアの手を握り、距離を置くことが最善の選択だと優しく諭してくれた。


「落ち着く必要があるわ、トリア。まずは自分を取り戻して」


 トリアは力なく頷くことしかできなかった。ジョグジャカルタの実家に帰れば、両親に心配をかける。まだ何も説明できる状態ではない。ただ、一時的に消えてしまいたかった。


 そこでサンティが提案したのが、バリ島だった。リゾートで働く姉のシャニアのところに身を寄せればいい、と。


 最初は迷惑をかけたくないと拒んだトリアだったが、サンティは強引にシャニアへ連絡を入れた。「休暇だと思って、心を癒やしてきなさい。シャニアなら何も聞かずに受け入れてくれるから」


 迷いの末、トリアは首を縦に振った。バリには何度かサンティと行ったことがあり、シャニアとも面識があった。電話の向こうでシャニアは快諾してくれ、トリアの行き先はバリに決まった。


 そこまで思い返し、トリアは重い溜息を吐き出した。時計を見る。十六時。もう、行かなければならない。


 ゆっくりと立ち上がり、スーツケースのハンドルを握る。混雑の激しさを増す出発ゲートへと歩き出した。


 ターミナル内はさらに騒がしくなり、搭乗案内が繰り返し流れている。スーツケースのキャスターが床を叩く音が響く中、トリアは俯き加減に歩いた。腫れた目を誰にも見られないように。


 だが、数歩進んだところで、突然、強い力で腕を掴まれた。


「トリア……ハァ、ハァ……ッ」


 トリアは息を呑み、勢いよく振り返った。サングラス越しに映ったのは、この場所に現れるはずのない人物だった。


 肩で息を切らし、必死の形相で立つハルラン。


 トリアは反射的に腕を引き、逃れようとした。「離して、ハル」


「トリア、頼む……説明を聞いてくれ」


「説明なんて、もう十分よ! 全部わかってる!」


 トリアは身を捩った。あまりの衝撃に、足元がふらつく。


「俺が悪かった。謝りたいんだ。お願いだ……こんな風に行かないでくれ」


 サングラスの奥で、再び涙が溢れ出した。声が悲鳴のように裏返る。


「クラリッサがいるじゃない……!」


 ハルランはパニックに陥ったように、言葉を畳みかける。「トリア……あれは、嵌められたんだ。彼女は少し休ませてくれと言っただけで、あんなことになるなんて。俺だって一人の男だ、つい……」


「離して!」


 トリアの叫び声に、周囲の数人が足を止めた。少し離れた場所から、警備員が様子を伺い始めている。


 だが、ハルランはさらに強引になった。トリアを自分の方へ引き寄せると、突然――。


 ギュッ、と。


 彼はトリアを力任せに抱きしめ、その身体を固く包み込んだ。


「ごめん、トリア……許してくれ。クラリッサとはもう会わない。君だけを愛すると誓う。覚えているだろう? 来年には結婚しようって約束したじゃないか」


 トリアは彼の胸を押し返そうとした。だが、その抵抗は次第に弱まっていく。張り詰めていた糸が切れ、嗚咽だけが漏れた。


「大嫌い……大嫌いよ、ハル……」


「ああ、分かっている……本当にすまない。全部やり直そう」


 トリアはただ泣き続けた。抵抗も拒絶もできず、かといって受け入れることもできない。感情は混濁し、どうすればいいのか自分でも分からなくなっていた。


 その時、別の手が彼女の腕を掴んだ。動きは素早く、そして揺るぎない。


 一瞬の出来事だった。トリアの身体はハルランの腕から引き離された。


 驚きに目を見開くトリア。よろめきかけた背中に、男の腕が回される。倒れないよう、しっかりと支えられた。


「トリアさん、ですね?」


 その男は言った。


「すみません。私たちの便、もう出発の時間ですよ」


 トリアはゆっくりと顔を上げた。サングラスが少しずれ、至近距離で男の顔を捉える。


 整った顔立ちに、薄い笑みを浮かべている。だが、その微笑みはトリアをさらに困惑させた。


「あ……あなたは、誰……?」


 消え入りそうな声で、トリアは問いかけた。


 目の前では、ハルランが呆然と立ち尽くしている。突如現れた謎の男を前に、一歩も動けずにいた。


新しい出会いが、運命を動かすかもしれません。トリアの選択、見守ってくださいね。ブックマークで更新通知を受け取れます。

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