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第7章 裏切りの果て

 カーテンの隙間から差し込む淡い光が、乱れたシーツの上に黄金色の筋を描いていた。薄暗い寝室には、重なり合う二つの吐息だけが不規則に響いている。


 毛布がわずかに揺れ、その下で睦み合う二人の熱がまだ冷めていないことを物語っていた。


 ハルランは身を乗り出し、下から見上げるクラリッサの顔に自分の顔を寄せた。二人の動きが止まり、濃密な沈黙の中で視線が絡み合う。


「こんな風にされると……癖になりそうだ」


 ハルランが低く呟いた。その声には、隠しきれない悦びを含んだ薄笑いが滲んでいる。


 クラリッサは指先で彼の頬をなぞった。まだ整わない呼吸のせいで、彼女の言葉は途切れ途切れに漏れる。


「自分の男に溺れるのは、何も悪いことじゃないでしょう?」


 甘ったるい声が空気を震わせる。


 再び二人の体が重なり合った。規則的なリズムで毛布が揺れ、クラリッサの手がハルランの肩を愛おしそうに、しかし強く掴む。


 その熱情が静寂の頂点に達しようとした、その時――。


 ガチャリッ。


 外からドアノブが回される音がした。毛布の下の動きが止まり、二人の体は石のように固まった。


 ハルランが弾かれたように顔を向けると、その表情は一瞬で土気色に変わった。クラリッサは上半身を少し起こし、乱れた髪を肩にこぼしながらも、その唇には隠そうともしない不敵な笑みを浮かべた。


 開いたドアの先に、トリアが立ち尽くしていた。


 赤く腫れ上がった目からは涙が溢れ続け、ドアノブを握る手は激しく震えている。


「嘘つき……ハルラン、あなたは嘘つきよ!」


 叫び声の語尾が、悲鳴のように裏返った。


「信じていたのに! あんなに信じていたのに! なのに、あなたは――」


 言葉が続かない。溢れ出す嗚咽が、彼女の喉を容赦なく締め上げる。


 クラリッサは、トリアの登場をまるで予期せぬ余興でも楽しむかのように、さらに深く口角を上げた。トリアの背後では、親友のサンティが顔を背け、目の前の光景に対する嫌悪感に表情を歪ませていた。


「トリア?」


 ハルランは毛布で必死に体を隠しながら、ベッドの上に座り直した。


「これには事情があるんだ! それに、どうして急にここへ?」


 トリアは信じられないというように目を見開いた。涙が頬を伝い、床に落ちる。


「……そんなことを聞くの? こんな姿を見せておいて、よくそんなことが言えるわね!」


 ハルランがベッドから降りようとした瞬間、クラリッサの手が彼の肩に滑り込んだ。


「行かないで。ここにいて」


 囁き声は穏やかだったが、そこには拒絶を許さない強制力が宿っていた。


「でも……」


 ハルランは困惑し、視線を彷徨わせる。


 クラリッサは彼のうなじを優しく撫でながら、冷徹な瞳で彼を見つめた。


「ちょうどいいじゃない。この機会に、彼女との関係を清算したら?」


 その言葉は、鋭い刃のように空気を切り裂いた。


 ハルランは数秒間沈黙し、やがてベッドの上から見下ろすようにトリアを見据えた。その瞳には微かな後悔の色があったが、それ以上に、保身からくる焦燥が勝っていた。


「……もう、すべて分かっただろう? さあ、僕のマンションから出て行ってくれ」


 その一言が、トリアの心を粉々に打ち砕いた。膝の力が抜け、崩れ落ちそうになる彼女の腕を、サンティが素早く掴んで支える。


 トリアは力なく親友を振り返った。


「サン……サンティ……」


 消え入りそうな声。サンティは静かに首を振った。


「もういいわ、トリア。帰りましょう」


「でも、サンティ……」


「すべてはっきりしたのよ。これ以上、自分を貶めるような真似はしないで」


 サンティの声は低く、しかし断固とした響きを持っていた。彼女はトリアの手を強く握りしめる。


 トリアはうなだれ、肩を激しく震わせた。制御できない涙が次々と溢れ出す。だが、ついに彼女は小さく頷いた。たった今、自分を根底から打ち砕いた現実に、ついに膝を屈したのだ。


 サンティがトリアを連れて歩き出す際、その視線がハルランを射抜いた。冷たく、鋭く、そして底知れぬ軽蔑を込めた眼差し。彼女は吐き捨てるように顔を背けると、トリアを連れて部屋を出て、背後でドアを乱暴に閉めた。


 静寂が戻ると、ハルランは深くため息をつき、苛立たしげに眉間を押さえた。


 クラリッサは微かな笑みを浮かべたまま彼を見つめ、その顎を指先で掬い上げた。


「どうしてそんな顔をしているの? トリアを失って悲しいのかしら?」


「……トリアと一緒にいた女は、僕の会社の部下だ。このことが漏れたら、面倒なことになる」


 クラリッサはさらに距離を詰め、ハルランの首の後ろに腕を回した。そして、この場の主導権が自分にあることを誇示するように、短いキスを落とす。


「後で彼女に会って、口止めすればいいだけのことよ。今は……私だけを見て」


 ハルランは短く息を吐き、力なく頷いた。


「ああ……分かったよ」


 彼は再びクラリッサを抱き寄せた。再び重なり合う二人の動きに合わせて、毛布がゆっくりと揺れ始めた。




 その頃、サンティとトリアは駐車場に辿り着いていた。トリアの足取りは危うく、二度も前のめりに倒れそうになるのを、サンティが必死に支えた。車に乗り込むと同時に、トリアの抑えていた感情が爆発した。


「どうして……どうしてあんな残酷なことができるの……サンティ……」


 ひび割れたガラスのような、痛々しい声だった。


 サンティは彼女を短く抱きしめた。「あんな男、あなたが命を懸ける価値なんてないからよ」


 車内という密室で、トリアの絶望が渦巻く。彼女は自分の腿を叩き、髪をかきむしり、制御不能な震えに身を任せた。


 サンティは彼女の両腕を掴んで制止した。


「トリア、自分を傷つけないで。あなたは大切な存在なの。私を見て」


 トリアはゆっくりと顔を上げた。腫れ上がった目は焦点が合っていない。


「何年も……この関係を守ってきたのに……」


「死ぬほど信じていたのに……」


「すべてを捧げてきたのに……」


「なのに彼は……私のことなんて、どうでもよかったみたいに……」


 サンティは手のひらで口を覆い、漏れそうになる悲鳴を堪えた。彼女は窓の外に目を向け、奥歯を噛み締める。怒りで指の関節が白くなるほど、ハンドルを強く握りしめた。


 今すぐ車を飛び出し、あの部屋に戻ってハルランを殴り飛ばし、クラリッサを罵倒してやりたい衝動に駆られる。だが、今のトリアに必要なのは騒動ではなく、ただ寄り添ってくれる存在なのだ。


「トリア……あなたは必ず立ち直れるわ」サンティは静かに、しかし確信を込めて言った。「でも、それはハルランのような男と一緒じゃない場所でよ」


「私が悪かったの? 何か足りなかった? 私があの人より綺麗じゃないから?」


「自分を責めるなんて絶対にやめて! 壊れているのは彼の方よ。あなたじゃない」


 サンティはエンジンをかけた。トリアを家には送らず、親友の心が少しでも落ち着くまで、あてもなく車を走らせ続けた。




 午後一時半。ハルランはクラリッサを送り届けた後、何食わぬ顔でオフィスに戻った。足取りは軽やかだったが、スタッフのデスクが並ぶエリアを通り過ぎる際、サンティの席が空席であることに気づき、わずかに眉を寄せた。


 彼は足を止め、サンティのデスクをじっと見つめる。


「……まだトリアと一緒にいるのか?」


 独り言のように呟き、自分の執務室に入ると、車のキーをデスクに置き、ジャケットを無造作に掛けた、椅子に深く身を沈める。


 ノートパソコンを開いたが、集中力は散漫だった。トリアの泣き顔が、断続的に脳裏をよぎる。


 ハルランは鼻筋を指でなぞり、胸の奥に澱のように溜まる微かな罪悪感を振り払おうとした。クラリッサは自分が追い求めていた、華やかで刺激的な女だ。だが、トリアは……トリアはいつも自分を安らげ、自尊心を満たしてくれた。


「……ちっ、どうしてあんな女のことが頭を離れないんだ」


 こめかみを押さえ、舌打ちをする。


 画面上のスプレッドシートの数字は、意味をなさずに通り過ぎていく。メールを二行書いては消し、貧乏ゆすりが止まらない。


 無意識のうちにトリアとのチャット画面を開き、空白のメッセージ欄をぼんやりと眺めては、また閉じる。


「……後で説明すればいい。いつものように謝れば、どうせまた許してくれるさ」


 自分に言い聞かせるように呟いた。


 頭の中で言い訳を組み立てる。『仕事でストレスが溜まっていた』『クラリッサはただの友達だ』『少し時間が必要だったんだ』。次から次へと都合のいい理由が浮かぶ。やがて、彼は小さく鼻で笑った。


「まあいい……あいつは僕に首ったけなんだ。放っておいても戻ってくる」


 集中できないまま作業を続け、時計が午後三時二分を指した時だった。返信メールを送ろうとしたハルランの耳に、ドアが開く音が届いた。


「おい、これ本気か?」


 聞き慣れた男の声に顔を上げると、そこには人事部のランディが立っていた。手には一枚の紙を持ち、困惑と確認が入り混じった奇妙な表情を浮かべている。


「本気って、何のことだ?」


 ランディは椅子に座ることもせず、半歩踏み出してその紙を差し出した。


「これだよ」


 ハルランはそれを受け取り、折り畳まれた紙を開いた。最上段の文字が目に飛び込んでくる。


 ドクン、と心臓が跳ねた。


「トリアが……退職?」


 見間違いではないかと、何度も読み返す。


「冗談だろう? ランディ、これは冗談だよな?」


 ランディは静かに首を振った。「いや、こんなことで冗談なんて言わないさ」


「……いつ、これを出したんだ?」


「ついさっきだ。メールでも届いているはずだよ。サンティが直接、人事に持ってきたんだ」


 サンティの名を聞いた瞬間、ハルランの思考が凍りついた。紙を握る手が、わずかに震え始める。彼は気づいていなかったが、ランディはその様子をじっと見ていた。


「……お前ら、何かあったみたいだな。僕は失礼するよ」


 ランディは気まずそうに言い残し、部屋を出て行った。


 ドアが閉まる。ハルランは立ち尽くし、手の中の退職願を見つめ続けた。


 唇が、かすかに動く。


「サンティ……サンティに会わなきゃ……」




ついに決断の時が来ました。トリアの選択、どう思いますか?コメントで聞かせてね。ブックマークも忘れずに。

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