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第5章 夜明けの秘め事

 午前四時。


 部屋はまだ深い闇に包まれ、リビングの隅にある小さなランプだけが一筋の光を投げかけていた。


 トリアは横たわったまま、うっすらと目を開ける。


 静まり返った空間に、エアコンの低い稼働音だけが響いていた。


 何度も眠りにつこうと試みたが、考えが頭を巡り、眠りは遠のくばかりだった。


 不意に、玄関のドアが微かな音を立てて開いた。


 廊下を渡る軽い足音が近づいてくる。


 トリアは呼吸を整え、瞼を固く閉じて眠ったふりをした。


 伏せた睫毛の隙間から、ハルランが入ってくるのが見えた。彼は音を立てずにドアを閉め、寝室へと向かう。


 ハルランは服を脱いで洗濯カゴに放り込むと、そのまま浴室へと消えた。


 トリアは胸の震えを必死に抑え、声を漏らさないよう唇を強く噛み締めた。


 数分後、浴室のドアが開く。


 パジャマに着替えたハルランはベッドに歩み寄り、毛布をめくってトリアの隣に滑り込んだ。


 数分もしないうちに、規則正しい寝息が聞こえ始めた。深い眠りに落ちた証拠だ。


 トリアは彼の横顔を一瞬だけ見つめ、再び暗闇へと視線を戻した。


 締め付けられるような胸の痛みが、さらに増していく。


 三十分が経過した。


 ハルランが眠っていることを確認し、トリアはゆっくりと体を起こした。


 数秒間、彼の寝顔を凝視した後、音を殺して浴室へと向かう。


 鏡に映った自分の顔は青白かったが、今の心の惨状に比べればまだましだった。


 目はわずかに腫れているが、それほど目立ちはしない。


 彼女は長い間そこに立ち尽くし、乱れた思考を整理するように、肌が冷たくなるまで何度も顔を洗った。ようやく、呼吸が少しだけ整った。


 浴室を出たトリアは、小さなタオルで顔を拭い、明かりをつけずにキッチンへと足を向けた。


 この部屋に泊まるとき、いつもそうしているように朝食の準備を始める。


 だが、今回彼女が作ったのは、ナシゴレンと目玉焼き、そして新鮮なカットフルーツと温かい紅茶だった。


 手は無意識に動く。フライパンがジュー、ジューと音を立て、ニンニクと唐辛子の香りが一瞬だけ心を落ち着かせた。


 ご飯を炒めながら、彼女は自分自身に問いかけるように小さく呟いた。


「はぁ……これから、どうすればいいの?」


 クラリッサの元へ乗り込み、答えを問い詰めるという考えが頭をよぎった。


 だが、理性がそれを押しとどめる。


 ハルラン自身が彼女に会いたがっているのなら、そんなことに何の意味があるというのか。


 彼女は唾を飲み込み、もう一度自分を落ち着かせた。


 午前六時ちょうど、料理がテーブルに並んだ。


 トリアはフォークの向きを整え、最後にもう一度確認すると、深く息を吸ってから寝室へ戻った。


 料理を作ったのは、彼に尽くしたいからではない。


 これまで続けてきた「日常」というルーチンを、ただなぞっただけだった。


 十五分後、彼女はシャワーを浴びて着替えを済ませた。


 ジーンズにクリーム色の長袖ブラウスを合わせ、髪を綺麗に整える。


 寝室の鏡で自分の姿を確認し、自然に見える笑顔を作ってみた。


 振り返ると、ハルランがベッドの端に座って顔をこすっていた。


「おはよう、トリア」


 ハルランが優しい声で言った。


「おはよう」


 トリアも努めていつも通りに振る舞う。


 ハルランはトリアの格好をじっと見つめ、少し眉をひそめた。


「仕事の服じゃないんだな?」


 トリアはブラウスの裾を整え、手の震えを隠しながら答えた。


「今日は休もうと思って。正直、あまり体調が良くないの」


 ハルランはすぐにベッドから立ち上がり、トリアに歩み寄った。


 彼は体を少し屈め、彼女の表情の些細な変化を探るように、手の甲をその額に当てた。


「熱があるのか?」


 トリアは小さく首を振り、彼の手をそっと払いのけた。


「ううん、ただ少し気分が悪いだけ」


 彼女は言葉を続けた。


「会社に行く前に、私のマンションまで送ってくれる? それから、人事部にも今日はお休みするって伝えておいて。……あ、それと、ちょうどジョグジャから両親が来ることになったの」


 ハルランは一瞬驚いたように眉を上げた。


「ご両親が? なんで言わなかったんだ?」


「今朝、電話があったばかりだから」


 トリアは声を平坦に保つよう細心の注意を払った。


 ハルランは頷いた。


「わかった。人事には伝えておくよ」


 彼はトリアの腰を引き寄せ、抱きしめようとした。


 だが、トリアは素早く彼の両手を押さえて拒んだ。


 その拒絶に、ハルランは困惑した表情で動きを止めた。


「トリア?」


 説明を求めるように、彼は彼女の名を呼んだ。


「もう、まだお風呂入ってないでしょ。臭いわよ」


 トリアは小さく笑いながら、おどけて見せた。


 ハルランは鼻を鳴らして笑った。


「はいはい、仰せの通りに」


 彼が浴室へ向かい、水の流れる音が聞こえてくると同時に、トリアは小さなバッグを手に取って部屋を出た。


 リビングのソファに数秒間座り、指先の震えを鎮める。


 深く息を吸い込み、彼女は一度も振り返ることなくハルランの部屋を後にした。


 エレベーターへ向かいながら、配車アプリでタクシーを呼ぶ。


 ロビーに着いて数分後、車が到着した。


 トリアは後部座席に乗り込み、静かにドアを閉めた。


 車が動き出すと、彼女はハルランにメッセージを打った。


『朝ごはん、用意しておいたわ。お母さんから今マンションに着いたって連絡があったから、タクシーで帰るね』


 送信ボタンを押した後、トリアはそっと目を閉じ、長い溜息をついた。


 唇を固く結んだ彼女の瞳に、再び涙が溜まっていく。




 マンションでは、シャワーを浴び終えたハルランが仕事着に着替えていた。


 寝室を出て周囲を見渡すが、恋人の姿が見当たらないことに気づき、怪訝な顔をした。


「トリアはどこだ?」


 彼は不意に不安に駆られた。昨夜、自分が部屋を抜け出したことに気づかれたのではないか。


 スマホを取り出し、彼女に電話をかけようとしたその時、トリアからのメッセージが目に入った。


 彼の口角に、安堵の笑みが浮かぶ。


「ああ……母親が来たのか」


 スマホをポケットにしまい、彼はダイニングテーブルへと歩いた。


 そこには、丁寧に盛り付けられた朝食が並んでいる。


 ハルランは椅子を引く前に、その料理を眺めた。


「へぇ……今朝はずいぶん張り切ったな」


 彼は独り言を漏らした。


「ってことは、昨夜のことは本当に気づいてないんだな」


 ハルランは席に座り、晴れやかな気分で食事を摂り始めた。



 ハルランのスマホが午前七時五十五分を告げたとき、彼はオフィスのロビーに足を踏み入れた。


 自動ドアの向こうにはまだ冷たい朝の空気が漂い、出勤してきた社員たちが短い挨拶を交わしている。


 ハルランは小さく頷いてそれに応え、迷いのない足取りでエレベーターへと向かった。


 デスクでは、サンティがハルランの背後にトリアの姿がないことに気づき、手を止めた。


 眉間に微かな皺が寄ったが、彼女はすぐにパソコンの画面へと視線を戻した。


 時間は刻一刻と過ぎていく。


 時計の針が十時を指しても、トリアの席は空席のままだった。


 ハルランのオフィスのドアが開き、彼が無表情で出てきた。


 何かに急いでいるような様子で、そのままエレベーターへと直行する。


 その動きに、サンティの視線が鋭くなった。何かがおかしい。


 サンティはスマホを手に取り、素早くメッセージを打ち込んだ。


『トリア……今日はお休み?』


 返信はすぐに返ってきた。


『うん、サンティ。ちょっと体調が悪くて。ハルランに人事へ伝えてもらうよう頼んであるわ』


『そっか……。だからハルラン、一人で来たのね。また何かあったのかと思ったわ。さっきも彼、一人で会社を出て行ったし』


『会社を出た? サンティ……お願い、ハルランを追って!』


 サンティの指が止まった。困惑して目を細める。


『どうしたの、トリア? また喧嘩でもした?』


『後で説明するわ。もし少しだけ外出できるなら、ハルランの後をつけて。状況を教えて。私もすぐに向かうから』


 サンティは小さく溜息をついた。唇を噛み、何が起きているのかを推測する。


『わかった。また連絡するわ』


 メッセージを送ると、サンティは立ち上がり、マネージャーの部屋へと向かった。


 外出の許可は、深く追求されることもなく下りた。


 彼女は急いでエレベーターに乗り込む。


 ロビーに着くと、ハルランが誰かと話しているのが見えた。


 サンティは急ぎ足で彼らの脇を通り抜け、駐車場へと向かった。


 車に乗り込み、ハンドルを握りしめて待機する。


「はぁ……もしハルランが会社から出なかったら、私、ここで何やってるのかしら」


 彼女は毒づいた。


 五分もしないうちに、正面玄関が開いた。


 ハルランが足早に自分の車へと向かっていく。


 サンティはハッとしてエンジンをかけた。


 ハルランの車が敷地を出るのを確認し、一定の距離を保ちながら追跡を開始した。




 二十分後、トリアのマンション。


 今朝戻ってきてからというもの、トリアは泣き続けることしかできなかった。


 静まり返った部屋に、彼女の途切れ途切れの呼吸だけが響く。


 両親が来るというのは、ハルランの部屋から逃げ出すためについた嘘だ。


 今はただ、一人で考えたかった。


 湿ったティッシュで頬を拭い、彼女は無理やり体を起こした。


 テーブルからサングラスを手に取り、腫れた目を隠すようにかける。


「準備しておかなきゃ。サンティから連絡があったら、すぐに出られるように……」


 彼女は低く呟いた。


 突然、スマホが震えた。


 届いたメッセージを、食い入るように確認する。


『トリア……ハルランが、またあの女と会ってるわ』


 ドクンッ


 心臓を鷲掴みにされたような衝撃が走った。


 全身が強張り、肺からすべての空気が消え去ったかのような感覚に陥る。


「またクラリッサに会ってるの? 昨夜だけじゃ、足りなかったっていうの……」


 震える唇から、悲痛な呟きが漏れた。


 彼女は震える手で返信を打ち、サンティの現在地を尋ねた。


 位置情報が送られてくると同時に、トリアは弾かれたように部屋を飛び出した。


 サンティの元へ向かうため、配車アプリでタクシーを呼び寄せた。




今回もありがとう。サンティの協力、心強かったね。トリアの次の一手、どうなるか楽しみにしてて。ブックマークしておくと更新が見逃せないよ。

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