第4章 嘘に抱かれて
その日の朝、オフィスビルの車寄せにハーランの車が滑り込んだ。彼は先に車を降りると、洗練された動作で助手席のドアを開け、トリアをエスコートした。
彼の手がトリアの頭を優しく撫でる。その親密な指先は、周囲の目にはいつも通りの仲睦まじい恋人同士に映った。トリアは小さく微笑みを返した。
「仕事、頑張ってね」
ハーランの柔らかな声が耳をくすぐる。トリアは静かに頷き、彼と共にエントランスへと歩き出した。その表情は、表面上は穏やかで、何一つ揺らぎは見られなかった。
上の階の窓から、サンティがその光景をじっと見つめていた。エレベーターから降りてくる二人を視界に捉えた彼女の瞳に、鋭い緊張が走る。彼女はデスクに座り直し、指先を震わせながら小さく呟いた。
「どうして……あんなに早く戻ってきたの?」
ハーランはトリアのこめかみに手早く口づけをすると、自分の執務室へと入り、重厚なドアを閉めた。その音が響き渡るやいなや、サンティは椅子を蹴るようにして立ち上がり、トリアのデスクへと詰め寄った。
「トリア……大丈夫なの?」
声を潜めてはいたが、その響きには隠しきれない懸念が滲んでいた。
トリアは顔を上げ、薄い笑みを浮かべた。「ええ、大丈夫よ」
サンティがさらに言葉を重ねようとしたが、トリアはそれを遮るように彼女の腕にそっと手を添えた。「本当に何でもないの、サン。ハーランが全部説明してくれたから」
その声は驚くほど凪いでいた。サンティは眉をひそめ、戸惑いを隠せなかった。「……本当に、彼を信じているの?」
トリアは一瞬だけ息を止めた。すぐに口角を上げ、先ほどよりも強い意志を込めた笑みを作る。だが、それはあまりにも整いすぎていて、どこか作り物のようでもあった。
「昨日の私は、少し感情的になりすぎていただけよ」
自分に言い聞かせるようなその言葉に、サンティはそれ以上踏み込むことを諦めた。彼女は短く溜息をつき、トリアを労わるような眼差しを向けた。
「わかったわ……あなたが大丈夫ならいいの。でも、何かあったら、いつでも私に話してね」
「ありがとう、サン」
トリアは静かに答え、椅子を引いて書類の整理を始めた。何事もなかったかのように振る舞う彼女の姿に、サンティは釈然としない思いを抱えたまま自分の席に戻った。
午前中の業務が続く中、サンティは時折トリアに視線を送った。トリアは普段通りに仕事をこなし、通りかかった同僚のミラにも笑顔を見せている。昨日、あの場所で起きた惨劇を知る者でなければ、誰も彼女の異変に気づくことはないだろう。
やがてハーランの執務室のドアが開き、彼が数枚の書類を手にトリアの元へ歩み寄ってきた。
「トリア、今日のランチは一緒に。いつもの店に行こう」
ハーランが彼女の耳元で囁くように身を乗り出す。トリアは即座に、先ほどよりも自然な、甘い微笑みを浮かべた。
「ええ、わかったわ」
ハーランが満足げに部屋に戻ると、隣のデスクでその様子を見ていたサンティは奥歯を噛み締めた。
(何かが、絶対におかしい……)
彼女は胸の内でそう毒づいたが、言葉にすることは選ばなかった。
昼休みが近づくと、トリアは立ち上がり、羽織っていたカーディガンを整えた。彼女はサンティのデスクに寄り、短く声をかけた。「サン、ハーランと行ってくるわね」
サンティは重い頷きを返した。「ええ、気をつけて」
エレベーターの扉が閉まるまで、サンティの視線はトリアの背中を追い続けていた。
「サン、さっきからトリアのことばかり見てるけど、何かあったの?」
不意に別の同僚が声をかけてきた。サンティは曖昧な笑みを浮かべ、首を振った。「ううん、何でもないわ。さあ、私たちもお昼に行きましょう」
夕闇がゆっくりと街を包み込む頃、二人はオフィスを後にした。ハーランの運転する車は、彼のマンションへと向かう。トリアは車窓を流れる夜景を、ただ黙って見つめていた。
部屋に着くなり、ハーランはソファに深く身を沈め、頭を後ろに預けた。「ひどく疲れたよ……。飲み物を持ってきてくれないか?」
視線は、点けたばかりのテレビに向けられたままだ。トリアはキッチンへ向かい、冷蔵庫から冷えたボトルを取り出した。表面の結露を丁寧に拭い、リビングに戻って彼の前のテーブルに置いた。
「はい、どうぞ」
彼女が寝室へ向かおうと背を向けた瞬間、ハーランの指が彼女の腕を強く引き寄せた。不意にバランスを崩したトリアは、彼の膝の上に倒れ込む。
ハーランは顔を傾け、彼女の唇に柔らかな熱を落とした。続いて、額にも。
「ありがとう、トリア」
低く、温かみのある声。トリアの頬が微かに赤らんだ。彼女は一瞬だけ視線を泳がせた後、彼の胸を軽く押し返して立ち上がった。
「もう……エッチね」
恥じらうように俯きながら、彼女は足早にバスルームへと逃げ込んだ。ドアを閉め、シャワーを捻る。降り注ぐお湯の下で、トリアは項垂れた。
(どうして、こんなに違和感があるの?)
胸の奥にぽっかりと穴が開いたような、奇妙な空虚感。笑い、冗談を言い、彼の言葉に頷いてはいるが、心の中に冷たい風が吹き抜けていく。自分の下した「信じる」という決断は、本当に正しかったのだろうか。
彼女は目を閉じ、深く呼吸を整えた。だが、拭いきれない疑念は澱のように心の底に沈み、消えることはなかった。
シャワーを終え、タオルを体に巻きつけて脱衣所に出た瞬間、背後から不意に腕を引かれた。
「ハ、ハーラン?」
トリアが驚いて振り返ると、腰に温かい腕が回された。ハーランが彼女の首筋に顔を埋めている。
「タオル姿の君は、本当に綺麗だ」
トリアは片手で彼を押し返そうとした。「ちょっと……どうしたの?」
ハーランは離れるどころか、さらに腕の力を強めた。「シャワーを浴びるなら、どうして言ってくれなかったんだ?」
「え……? どうして言わなきゃいけないの?」
ハーランは低く笑った。「一緒に楽しみたかったからさ……バスルームで」
トリアは息を呑み、全身を硬直させた。「ハーラン、待っ――」
その言葉は、彼によって再びバスルームの中へと引き戻されることで遮られた。ドアが静かに閉まり、二人の声は再び流れ出した水の音にかき消されていった。
夜の八時半、トリアが用意した夕食を二人は静かに囲んだ。食器が触れ合う音だけが、室内の沈黙を埋めていく。
食後、ハーランはテレビを点けると、隣のソファを叩いた。「今夜は泊まっていけよ」
甘えるような、それでいて拒絶を許さない瞳がトリアを射抜く。自分のアパートへ帰るつもりだったトリアは、一瞬だけ躊躇いを見せたが、結局は小さく頷いた。
「……ええ」
消え入りそうな声で答えると、ハーランは子供のように喜んだ。その後は、いつも通りの夜が過ぎていった。一緒にテレビを観て、他愛のない会話に興じ、時には笑い合う。外から見れば、それは完璧な恋人たちの姿だった。
夜の十時半、二人は寝室へ入った。ハーランはトリアを軽く抱きしめた後、枕に頭を沈めた。
ほどなくして、彼の寝息は規則正しくなり、深い眠りに落ちた。だが、トリアは眠れなかった。薄暗い天井を見つめながら、胸のつかえを感じていた。彼女は寝返りを打ち、隣で眠るハーランの横顔を見つめた。
「もう一度だけ、信じてみるわ……。昨日のことは、きっと何かの間違いだったのよ」
自分に言い聞かせるように呟き、目を閉じようとしたその時。
枕元のサイドテーブルで、スマートフォンのバイブレーションが静寂を切り裂いた。トリアは弾かれたように目を開け、音の主を探った。画面が青白く光り、そこに浮かび上がった名前に、彼女の心臓は凍りついた。
『クラリッサ』
「……クラリッサ?」
喉の奥でその名をなぞった瞬間、ハーランの体が動いた。トリアは慌ててスマートフォンを元の位置に戻し、固く目を閉じて寝たふりをした。
ハーランは欠伸をしながら身を起こした。スマートフォンを手に取った彼は、画面を見るなり表情を強張らせた。「おい……こんな時間に電話してくるなと言っただろう」
彼は声を潜め、ベッドから離れて部屋の隅へと移動した。トリアは呼吸を殺し、全身の神経を耳に集中させた。
「今から会いたい? ……今は午前一時だぞ」
短い沈黙の後、ハーランの声がさらに低くなった。「……ああ、俺も会いたい。だが、トリアが起きる前に、明け方には戻らなきゃいけないんだ」
その言葉は、鋭い氷の刃となってトリアの胸を深く突き刺した。彼女は毛布の下で、指が白くなるほど拳を握りしめた。
通話を終えたハーランがベッドサイドに戻り、トリアの肩を優しく揺すった。「トリア……起きてるかい?」
トリアは動かなかった。必死に呼吸を整え、眠っている振りを続けた。
ハーランは諦めたように立ち上がり、バスルームへ向かった。短く水の音がした後、彼は手早く服を着替えた。微かな香水の香りが室内に漂い、トリアの意識を逆撫でする。彼はジャケットを手に取ると、足音を忍ばせて部屋を出て行った。
玄関のドアが閉まる音が響き、完全な静寂が戻った瞬間、トリアの張り詰めていた糸が切れた。
暗闇の中で、涙が止めどなく溢れ出す。声を上げないように口を両手で覆ったが、激しく震える肩までは隠せなかった。
「私……本当に、馬鹿だった……」
その呟きは、誰に届くこともなく、冷え切った部屋の中に消えていった。
今回も読んでくれてありがとう。トリアの涙、無駄にならないといいんだけど。次回もどうか見守ってね。ブックマークしてもらえると嬉しいな。




