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第36章 その壁を突き破れ

 夕暮れ時のオフィスビル。駐車場は、少なくともトリアにとっては、いつもよりずっと静まり返っているように感じられた。足取りは軽いはずなのに、前を歩くユダの歩調に合わせて、心臓の鼓動だけが激しく刻まれている。


 ユダは自分のスクーターの横に辿り着くと、繋いでいた手をそっと離した。彼はそのままシートに腰を下ろし、バイクの脇に掛けられていた予備のヘルメットを手に取る。


 彼は体を横に向け、トリアと正面から向き合う形になった。数秒間、二人の視線が重なる。トリアは反射的に、素早く視線を伏せた。


 顔が熱い。今の自分の頬は、きっと林檎のように赤くなっているだろう。彼女はすぐに手を伸ばし、自分でヘルメットを被ろうとした。


 しかし、その手は空中で止まった。ユダはヘルメットを差し出す代わりに、彼女の顔へとゆっくりと近づいてきたのだ。


 ユダの大きな手が持ち上がる。そして、極めて柔らかな動きで、トリアの目元や額にかかっていた数本の髪をそっと整えた。


 どくん。


 指先から伝わるユダの体温が心地よく、全身に不思議な感覚が駆け巡る。トリアはただ硬直したまま、無意識に息を止めていた。


 ユダはそのままヘルメットを持ち上げ、トリアの頭に細心の注意を払って被せた。ヘルメットの位置が彼女にとって快適で、ぴったりと収まっているかを確認する。


 顎の下でストラップを留める「カチリ」という音が響いた。二人の距離は、ユダの服に染み付いた落ち着いた白檀の香りが、トリアの鼻先をかすめるほどに近かった。


「よし……これでいい」


 ユダは満足げに手を引くと、どこまでも誠実そうな、微かな微笑みを浮かべた。トリアはまだその場に凍りついたままで、言葉を返そうにも舌がうまく回らない。


「あ……ありがとう、ユダさん」


 ようやく絞り出した声は、少し震えていた。


 心臓はまるでマラソンでもしているかのように、激しく打ち鳴らされている。ユニが吹き込んだ過去にまつわる邪悪な囁きや恐怖は、いつの間にか消え去っていた。代わりに、これまでにないほどの緊張感が彼女を支配していた。


 ユダは自分のヘルメットを被ると、エンジンのスイッチを入れた。トリアはゆっくりと後部座席に跨る。彼の背中にあまり密着しないよう、体を強張らせて距離を保った。


 バイクがゆっくりと動き出し、オフィスを後にして、混雑し始めたバリの喧騒の中へと合流していく。


 ヘルメットのシールド越しに、ユダは時折バックミラーに目をやった。後ろでどこか上の空といった様子のトリアの顔が、鏡に映っている。


 トリアは知る由もないが、実はユダの心臓も、彼女に負けないほど激しく脈打っていた。冷静な振る舞いの裏で、彼はあまりの緊張に、心の中で叫び声を上げていたのだ。


(神様、どうかトリアさんに変な奴だと思われていませんように。どうしてあんな大胆な真似ができたんだ、俺は!)


 ユダは心の中で自分を叱咤した。


 思考は数時間前の出来事へと引き戻される。あの昼休みこそが、この予期せぬ勇気の始まりだった。


 #回想


 今日の昼、ユダはいつもの定食屋を訪れていたが、その心境はひどく不安定だった。隅の席に座り、いつもと同じ料理を注文する。


 頭の中では、今朝パントリーで別れた後のトリアの冷ややかな態度が、何度もリフレインしていた。自分は何か大きな間違いを犯してしまったのではないか。困惑と自問自答が止まらない。


「どうしてあんなに冷たくなったんだ? さっき頭を撫でたのがいけなかったのか……?」


 ユダは皿を虚ろに見つめながら、独り言を漏らした。


 その時、横から響いた野太い声が、彼の思考を遮った。


「やっぱりここにいたか」


 ユダは素早く顔を上げた。そこには、満面の笑みを浮かべて立つ男の姿があった。


「アルデン?!」


 ユダは思わず叫び、椅子から立ち上がると、旧友を力一杯抱きしめた。アルデンはジャカルタ時代の大学の友人で、もう長いこと会っていなかった。


「いつニュージーランドから戻ったんだよ?」


 ユダの顔に、ぱっと明るい色が差す。


「昨日だよ、ユダ。今は奥さんとこっちに休暇に来てるんだ」


 アルデンは快活に笑いながら答えた。


 二人は席に着いた。アルデンの話では、妻のナディアは長旅の疲れでホテルで休んでいるという。


 互いの近況を報告し合い、話に花が咲く。やがて話題がユダの恋愛事情に及ぶと、アルデンは茶化すような口調になった。彼はユダが極めて理想が高く、滅多に人を好きにならない男だと知っていたからだ。


「で、お前のほうはどうなんだ? まだ独身を謳歌してるのか?」


 ユダは思わず小さく咳き込んだ。抗う間もなく、トリアの顔が脳裏に浮かぶ。


 その反応を見て、アルデンの眉が鋭く寄せられた。彼は映画の悪役のような、大袈裟な真剣さでユダを見つめる。


「相手は誰だ、ユダ。今すぐ白状しろ……」


 ユダは深くため息をついた。この親友に嘘をついても無駄なことは分かっている。彼は心を落ち着かせると、正直に打ち明けた。


「トリア……っていうんだ。俺の会社の新しい社員で。正直、次にどう動けばいいのか分からなくて困ってる」


 アルデンの目が大きく見開かれた。その告白を聞いて、彼はひどく興奮した様子だったが、注文した料理が運ばれてきたため、一旦質問を飲み込んだ。


「よし、まずは食おう。話の続きはそれからだ」


 アルデンは店員から皿を受け取りながら言った。


「どうやら、お前は大きな壁にぶつかって、足踏みしてるみたいだな?」


 ユダは苦笑いするしかなかった。アルデンにはいつも簡単に見透かされてしまう。


 昼食を楽しみながら、ユダはすべてを話した。トリアのこと、彼女が抱える辛い過去、そして下手に近づけば彼女を傷つけてしまうのではないかという迷い。


 さらに、ようやく一歩踏み出そうと決めた矢先、今日の昼間に彼女の態度が急に冷たくなったことも。


 アルデンは一度も話を遮ることなく、全神経を集中させて聞いていた。ユダが話し終えると、アルデンはスプーンを置き、ユダをじっと見据えた。


「それで……今、そのトリアさんにはパートナーがいるのか?」


 ユダは首を横に振った。「いや、いない」


「お前の主観でいい。トリアさんはお前に好意を持ってると思うか?」


 畳みかけるようなアルデンの問いに、ユダは少し考え込んだ。彼女が自分に見せてくれた笑顔や、少しずつ打ち解けていく様子を思い出す。


「ああ……多分、そうだと思う」


「なら、どうしてアクセルを踏まないんだ? 正直、お前の考えが理解できないよ」


 アルデンは呆れたように言った。


 ユダは重いため息を吐く。「さっきの話を聞いてなかったのか? 彼女の過去が……」


「聞いたよ。理解もした。だが、それがどうしたって言うんだ?」


 アルデンは即座に言葉を遮った。


「好きなら突き進めばいいだろう? 彼女が誰のものでもないなら。どうして過去なんてややこしいことを気にする必要があるんだ?」


 親友の言葉に、ユダは沈黙した。自分の理屈が、単純明快で筋の通った現実に打ち砕かれたような気がした。


「未来のことなんて誰にも分からないんだよ、ユダ。俺とナディアだって、昔は宿敵みたいな関係だったのに、今じゃ結婚して幸せにやってる」


 アルデンは愉快そうに笑いながら付け加えた。


 ユダは呆然とした。自分が勝手に作り上げていた恐怖という名の檻から、強烈な平手打ちで目を覚まさせられたような気分だった。


「え……? ああ、そうだな」


 ユダは呆けたような顔で呟いた。


「ははは! そうだろう?」


 アルデンは親友の表情を見て、声を上げて笑った。


「本当に好きなら手放すな。一生後悔することになるぞ。今すぐアプローチの戦略を変えるんだ」


 ユダは小さく頷いた。先ほどまで迷いで一杯だった頭が、急に空っぽになり、軽くなったのを感じた。


「分かった。……具体的にどうすればいい?」


 ユダが真剣な面持ちで尋ねると、アルデンはニヤリと口角を上げた。


「もっと能動的に、もっと積極的に、もっと気にかけるんだ。たとえ彼女が壁を作っていても、そのままぶつかって突き破れ」


 そのあまりに大胆な助言に、ユダは生唾を飲み込んだ。


「それで……もし彼女が壁を崩さなかったら、いつ引けばいいんだ?」


「彼女の態度が明らかに不親切になった時、視線が凍りつくほど冷たくなった時、あるいは彼女に新しい誰かができた時だ。シンプルだろ?」


 アルデンは事も無げに答えた。


 #回想終わり


 アルデンからの啓示があったからこそ、ユダはオフィスの前でトリアの手を引く勇気を持てた。そして、彼女に直接ヘルメットを被せるという大胆な行動に出ることもできたのだ。


 バイクの上で、ユダはヘルメットの中で密かに口角を上げた。


 親友の助言に従った自分の決断が、トリアの目に奇妙に映っていないことを願いながら。

第36章、お読みいただきありがとうございます。

ユダさんの背中を押した親友の存在、そして彼なりの決断。

トリアさんの反応も気になるところですが、まずはこの展開を楽しんでいただけたら幸いです。

「アルデンいい奴」「ユダ頑張れ」など、コメントお待ちしています。

続きはまた次回。ブックマークしていただけると嬉しいです。

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