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第35章 暮れゆく空に、勇気を

 トリアは何度目か分からない視線を腕時計に落とした。ゆっくりと刻まれる秒針は、まるで見えない不安を煽るかのように、じりじりと彼女の心をかき乱していく。


 デスクに置かれたコーヒーはすっかり冷め、白い陶器の底には飲み残したおりが沈んでいた。二時間前から一度も口をつけていない。喉を潤す気力さえ、今の彼女には残っていなかった。


 昼休みが終わってからというもの、ユダの執務室のドアは固く閉ざされたままだ。彼が部屋から出てくる気配はない。いつもなら給湯器へ水を汲みに来るはずの時間になっても、その姿を見ることはできなかった。


 モニターに並ぶ数字の列に意識を向けようとするが、思考は今朝のパントリーでの出来事へと引き戻される。ユニが耳元で囁いた言葉が、呪文のように頭の中で繰り返されていた。


 その言葉は、喉に刺さった棘のようにトリアを苦しめる。だがそれ以上に、彼女を苛んでいたのは自分自身の態度だった。


 ユダを冷たく突き放してしまった時の、彼の落胆した表情が脳裏に焼き付いて離れない。このオフィスで、自分が一番残酷な人間になったような気がして、胸の奥がチクリと痛んだ。


 不意に、ドアの開く音が静かな空間に響いた。トリアは弾かれたように顔を伏せ、キーボードの上で指を忙しなく動かした。重要な報告書を作成しているふりをして、必死に視線を逸らす。


 足音が近づいてくる。だが、そのリズムは聞き慣れたユダの重く力強い歩調とは違っていた。


「トリアさん、これ。ユダさんから預かったベンダー報告書の追加データです」


 聞き覚えのある女性の声に、トリアは顔を上げた。デスクの傍らに立っていたのはアリンだった。ユダと同じ部署の同僚で、仕事以外の接点はほとんどない女性だ。


 アリンは青いファイルを手際よくデスクの端に置いた。彼女の視線が一瞬、強張ったトリアの表情を捉えたが、特に何も追求してくる様子はない。


「あ……はい。ありがとうございます、アリンさん」


 震える手でファイルを受け取ると、アリンは短く会釈をして、控えめな笑みを浮かべた。それ以上言葉を交わすことなく、彼女は静かに自分の席へと戻っていった。


 トリアは深く長い溜息をつき、強張っていた肩の力を抜いた。相手がユダではなかったことに安堵する一方で、心の片隅には、言いようのない落胆が広がっていく。


 再び閉ざされた執務室のドアを見つめる。彼は本当に怒っているのだろうか。それとも、深く傷ついてしまったのだろうか。答えの出ない問いが、断りもなく頭の中を占領していく。


 彼女は小さく首を振り、自分を責めるような思考を無理やり追い出した。これでいいのだ、と自分に言い聞かせる。これ以上、彼を傷つけないためには、この距離が必要なのだと。


 やがて終業の時刻が訪れると、オフィスはにわかに活気づいた。周囲のデスクからは、軽い冗談や笑い声が聞こえ始める。


 同僚たちがパソコンをシャットダウンし、帰宅の準備を整えていく中、トリアはわざと時間を引き延ばすように、ゆっくりと荷物をまとめ始めた。


 ノートや筆記用具をバッグに収めながら、視線は何度もユダの部屋へと向かう。彼の姿を一目だけでも見たいと願う自分と、顔を合わせるのが怖いと怯える自分が同居していた。結局、ドアが開くことはなかった。


 ユダの部署の男性社員たちが次々と退社していく。だが、彼女が待ち続けているその人は、依然として姿を現さない。


「トリア?」


 不意に名前を呼ばれ、トリアは小さく肩を揺らした。顔を上げると、バッグを肩にかけたミラとセラが心配そうな顔で立っていた。トリアは強張った頬を無理やり動かし、ぎこちない笑みを浮かべる。


「……本当に大丈夫?」


 ミラの声には探るような響きがあった。彼女はトリアの顔色がいつもより青白いことに気づいているようだった。隣に立つセラもまた、同様の懸念を瞳に宿している。


「もう、何を言ってるの。私は全然平気よ」


 トリアは短く笑ってみせたが、その声は自分でも驚くほど不自然に響いた。


 ミラは小さく息を吐いた。親友が何か重いものを抱え込んでいるのは明白だった。トリアのデスクはすでに片付いているというのに、本人はそこから動こうとしない。


「さっきからずっと、心ここにあらずって感じじゃない。いつもより口数も少ないし」


 セラも言葉を添える。「そうよ、トリア。急にそんなに静かになられると心配だわ。何かあったなら、私たちに話して」


 トリアは慌てて首を振り、バッグを掴んで二人の前を歩き出した。ミラに、今にも涙が溢れそうな瞳を見られたくなかった。


「本当に何でもないから。さあ、帰りましょう。渋滞に巻き込まれたら大変だわ」


 急ぎ足でエレベーターに向かい、せっつくようにボタンを押す。これ以上質問攻めに合わないよう、必死に話題を逸らそうとするトリアの後ろで、ミラとセラは顔を見合わせた。


 一階に到着し、オフィスのエントランスへと足を踏み出す。バリの夕暮れ時の涼やかな風が肌をなでたが、トリアの胸に渦巻く焦燥を冷やすには至らなかった。


 ロビーの前には、社員を迎えに来た車が列を作っている。ミラはロビーの方を振り返り、それからスマートフォンの画面をじっと見つめているトリアに視線を戻した。


「今日はユダさんと一緒に帰らないの?」


 トリアはバッグのストラップをぎゅっと握りしめた。画面には何の通知も届いていないが、忙しなくスクロールするふりをして視線を落とす。


「……ユダさんは忙しいみたい。今日は一人で帰るわ」


「えっ? いつも一緒なのに?」セラが不思議そうに尋ねる。


 トリアは無理に作った薄い笑みを浮かべた。「今日は配車アプリで帰ろうと思って。その方が気楽だし」


 見かねたセラが、すかさず助け舟を出した。


「家は反対方向だけど、良かったら送っていくわよ。遠慮しないで」


「いいえ、大丈夫。遠回りになっちゃうし、悪いわ」


 トリアは即座に首を振り、その申し出を丁寧に断った。


「本当にいいの?」


 セラの再度の確認に、トリアは力強く頷いた。「ええ、本当に。二人は先に帰って」


「そう……分かったわ。じゃあ、お先にね。家に着いたら連絡して――」


 セラの言葉が途切れた。ロビーの奥から、大理石の床を激しく叩く足音が聞こえてきたからだ。


 三人は同時に、その音の主へと視線を向けた。ガラス扉の向こうから現れたのは、シャツの袖を肘まで捲り上げた一人の男だった。


 ユダだ。彼は大股でこちらへ歩み寄り、走ってきたのか少し肩で息をしていた。


 彼はトリアの元へ一直線に向かう。背後で呆然と立ち尽くすミラとセラの存在など、今の彼には目に入っていないようだった。


「すまない、会議が長引いてしまった。どうしても今すぐ修正しなきゃいけない項目があって」


 少し切れた息を整えながらも、その声はどこまでも優しくトリアを包み込む。


 トリアは言葉を失った。ただ、ユダの顔を複雑な思いで見つめることしかできない。彼の笑顔を見た瞬間、胸の中で罪悪感と安堵が激しくぶつかり合った。


 ユダは彼女の返事を待たなかった。何も言わず、彼はトリアの右手を迷うことなく掴んだ。そして、その細い指を力強く、だが壊れ物を扱うような繊細さで握りしめる。


「帰ろう」


 短く、だが拒絶を許さないほど毅然とした、それでいて温かな誘いだった。


 ドクン、とトリアの心臓が大きく跳ねた。


 目を見開き、驚きに固まる。同僚たちの目の前で、彼がこれほど大胆な行動に出るとは夢にも思わなかった。


 その様子を間近で見ていたミラとセラは、口を半開きにしたまま石像のように固まっている。


 ユダは平然とした様子で二人に別れの挨拶を告げると、トリアの手を引いて歩き出した。周囲の視線など気にする様子もなく、彼女を駐車場へと導いていく。


「ユ……ユダさん?」


 困惑した声を漏らしながら、トリアは引きずられるように彼の後を追った。思わず振り返ると、ミラとセラがいた。


「お幸せに、トリア!」


 二人の親友は、いたずらっぽく笑いながら手を振っている。


 トリアの頬は一瞬にして朱に染まった。彼女は慌てて視線を逸らし、前を行く背中を見つめる。


(ユダさん、一体どうしちゃったの……!?)


 心の中で叫びながらも、繋がれた手のひらから伝わる確かな熱に、彼女の心は激しく揺さぶられていた。

第35章、お読みいただきありがとうございます。

ユダさんの予想外の行動に、トリアも読者の皆さんもドキッとしたのではないでしょうか。

「次が気になる」「この展開好き」など、気軽にコメントを残していただけると嬉しいです。

続きをお見逃しなく、ブックマークもよろしくお願いいたします。

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