第34章 再び築かれた高い壁
残る力のすべてを振り絞り、トリアは自分のデスクへと戻った。指先の微かな震えを悟られぬよう、細心の注意を払いながら、ホワイトコーヒーの入ったグラスを机に置く。
深く息を吸い込み、ゆっくりと吐き出す。乱れたままの鼓動を鎮めようと試みた。
「……ありがとう、ミラ。さっきは連れ出してくれて」
囁くような声で、トリアは言った。
ミラはトリアの顔をじっと見つめ、あの狭い空間で何があったのかを探ろうとした。親友の瞳の奥には、消えやらぬ不安の影が揺れている。
「またユニに何か言われたの? 顔色が真っ青よ」
探るような口調でミラが尋ねる。
トリアは慌てて首を振り、何事もなかったかのように装った。唇に浮かべた薄い笑みは、今にも壊れてしまいそうなほど脆い。
「何でもないわ、ミラ。少し目眩がしただけ。朝食を抜いたせいかしら」
当たり障りのない言い訳を口にする。
ミラは長く息を吐いた。それが嘘だと分かっていても、今はそれ以上踏み込まないことを選んだ。トリアの肩を一度だけ叩き、無言の励ましを送る。
「分かったわ。でも、ユニの言うことなんて気にしちゃダメよ」
トリアは小さく頷き、スリープ状態だったモニターを立ち上げた。
時間は緩やかに流れていくが、散り散りになった集中力は二度と戻らなかった。キーボードの上で指が凍りつき、視線は画面上の数字の羅列を空虚に追うだけだ。
ユニの言葉が、壊れたレコードのように頭の中で鳴り止まない。心の奥底に封印したはずのハルランの名が、このバリの地で再び平穏をかき乱す。
(ハルランへの腹いせに、彼を身代わりにしないで)
トリアは瞼を固く閉じた。胸の奥が急激に締め付けられ、呼吸が苦しくなる。ユダへの想いは本物なのか。それとも……。残酷な疑念が次々と湧き上がり、自分自身を信じられなくなっていく。
少し離れた席に座るセラが、凍りついたようなトリアの異変に気づいた。椅子をミラの方へ向け、目配せをする。
「トリアさん、どうしたの? ずっとあんな感じで固まってるけど」
セラが声を潜めて囁く。
「またユニよ、セラ。給湯室で何を吹き込まれたのか、魂が抜けたみたいになっちゃって」
ミラも同じように声を潜めて答えた。
セラは眉をひそめ、常に問題を探し回るユニの振る舞いに憤りを感じた。普段は明るいトリアが、これほどまでに追い詰められている姿を見るのは忍びない。
「直接聞いてみた方がいいかな? 一人で抱え込ませるのも良くないし」
セラの提案に、ミラはすぐに首を振った。個人的な問題に関しては口を閉ざしがちなトリアの性格を、彼女はよく理解していた。
「今はやめておきましょう。本人が話したくなるまで、無理に聞き出すのは逆効果よ。今は見守りましょう」
ミラの言葉に、セラも渋々同意した。二人は仕事に戻るふりをしながらも、時折、妹のように大切に思っている同僚の様子を伺った。
その静寂を破ったのは、聞き慣れた足音だった。
厚いファイルを手にしたユダが現れる。その表情は晴れやかで、先ほどの余韻を残すような穏やかな笑みが浮かんでいた。
彼はトリアのデスクの傍らで足を止め、優しく資料を置いた。給湯室で見せたのと同じ、熱を帯びた眼差しを彼女に向ける。
「業者の報告書作成に必要なデータだよ、トリア。指示通りに整理しておいた」
温かみのある声でユダが言った。
トリアはびくりと肩を揺らし、顔を上げた。反射的に、一瞬だけ明るい笑みがこぼれる。ユダの姿を目にした時の、抗いようのない反応だった。
しかし、ユニの「身代わり」という言葉が雷鳴のように脳裏をよぎる。笑みは瞬時に消え失せ、表情は冷ややかな無機質さへと塗り替えられた。
「……ええ。ありがとう」
ユダの瞳を直視できず、短く答える。
ユダがその劇的な変化を見逃すはずもなかった。眉をひそめ、数分前とは明らかに違う彼女の拒絶を感じ取る。
彼は少し身を乗り出し、伏せられたトリアの視線を追った。二人の間に、突如として目に見えない壁が立ちふさがったかのようだ。
「どうしたんだ? 具合でも悪いのか?」
心配そうに声をかけるユダに対し、トリアは手元の書類に目を落としたまま、文字を追うふりをした。
「いいえ、大丈夫よ」
ユダは引き下がらなかった。このあまりに急な態度の豹変には、何か理由があるはずだと直感していた。
「トリア……」
「本当に何でもないの、ユダさん。もうすぐ大事な会議があるんでしょう? 戻った方がいいわ」
言葉を遮り、穏やかに、しかし確実に彼を遠ざける。
「私もこのドラフトを急いで仕上げて、本部に送らなきゃいけないから」
突き放されたような感覚に、ユダは言葉を失った。困惑の色を隠せないまま、落胆を滲ませて小さく頷く。
「……分かった。何かあれば、いつでも言ってくれ。戻るよ」
わずかに肩を落とし、ユダは自室へと去っていった。給湯室で別れてからの短い時間に、一体何が彼女を変えてしまったのか。自問自答を繰り返しながら。
彼の姿が扉の向こうへ消えた瞬間、トリアが必死に保っていた防壁は音を立てて崩れ去った。椅子の背もたれに力なく体を預け、震える唇を固く結ぶ。
胸が痛い。自分に尽くしてくれる彼に対し、冷酷な態度をとってしまった罪悪感が押し寄せる。
髪で顔を隠すように深くうつむいた。ユニの言葉が真実だったら。ユダはただ、ハルランによって刻まれた傷を癒やすための「一時的な逃げ場」に過ぎないのだとしたら。
その考えが彼女を苛み、彼の優しさを受け取る資格など自分にはないのだと、絶望に近い感情が渦巻いていた。
隣では、ミラとセラが重苦しい沈黙の中で顔を見合わせていた。感情の荒波に呑まれ、独り闘い続けるトリアの背中を、ただ見守ることしかできなかった。
第34章、お読みいただきありがとうございます。
トリアの葛藤と、ユダへの距離感の変化、いかがでしたでしょうか。
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