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第33章 崩れ去る安らぎ

 ユダの背中がパントリーの扉の向こうに消えてから、トリアは数秒間、その場に立ち尽くしていた。


 肋骨の裏側で暴れる鼓動を鎮めようと、深く息を吸い込む。先ほどの、あの柔らかな指先の感触がまだ肌に残っているようだった。


 白いコーヒーカップを握る手に力がこもる。トリアは一瞬だけ目を閉じ、表情を整えた。頬の熱や、隠しきれない瞳の揺らぎを誰にも悟られたくなかったからだ。


 ゆっくりと歩き出し、自分のデスクに戻ろうとしたその時。


 出口を塞ぐように立っている人影に、足が止まった。


 ユニがドアの枠に寄りかかり、胸の前で腕を組んでいる。その立ち姿は、明らかにトリアの行く手を阻んでいた。


「今朝もまた、ずいぶんと特別な扱いを受けているみたいね」


 ユニの唇に、冷ややかな笑みが浮かぶ。品定めをするような視線が、トリアの頭の先から足元までをなぞった。


 トリアは一メートル手前で足を止め、あえて何も答えなかった。ミラやセラから言われた「挑発に乗ってはいけない」という言葉を思い出す。


 ユニは首を少し傾け、トリアの手元にある、まだ湯気の立つカップに目を向けた。


「ユダ様が、誰かがコーヒーを淹れるのを待つためだけにパントリーに長居するなんて、珍しいこともあるものね」


 クスクスと、刺すような笑い声が漏れる。


「普段の彼はもっと合理的だわ。自分で淹れて、一言も交わさずに仕事に戻る。それが彼のスタイルなのに」


 ユニが半歩近づき、二人の距離が縮まった。鼻を突くような強いムスクの香りが、トリアの嗅覚を刺激する。


「あんなに素敵な男性に気にかけてもらえるなんて、さぞかし気分がいいでしょうね」


 甘ったるく、それでいて空々しい声。トリアは唇を引き結び、カップを強く握りしめた。


「……何か、用事かしら。ユニさん」


 努めて平坦な、事務的なトーンで問い返す。ユニの瞳を真っ直ぐに見据え、怯んでいないことを示した。


 ユニは鼻で笑った。


「ただ、不思議なだけよ。新入りのくせに、随分と馴染むのが早いのねって」


 トリアは深く息を吐いた。これ以上言葉を重ねても、不毛な緊張感が増すだけだと悟る。


「話が終わったのなら、失礼するわ。仕上げなきゃいけない資料が溜まっているの」


 パントリーの淀んだ空気から逃れるように、ユニの脇を通り抜けようとした。


 ユニはわずかに身を引いて道を開けたが、肩が触れ合うほどの至近距離で、耳元に低い声を落とした。


「ユダ様はいい人よ、トリアさん。本当に、ね」


 その声には、逃げ場を奪うような圧迫感があった。


「ハルランへの腹いせに、彼を隠れ蓑にするのだけはやめてあげて」


 トリアの足が、凍りついたように止まった。見えない力で背中を殴られたかのように、全身が強張る。


 弾かれたように振り返ると、そこには平然とした顔のユニがいた。


「……どうして、その名前を?」


 声が震えた。ユダと一緒にいた時とは違う、冷たい恐怖が指先から這い上がってくる。


 ユニはトリアを見ようともせず、悠然とした足取りでパントリーの奥へと進んだ。棚から空のカップを取り出し、何事もなかったかのようにコーヒーを淹れ始める。


「ジャカルタとバリは、あなたが思っているほど遠くないのよ」


 静まり返った空間に、スプーンが陶器に当たる硬い音が響く。


 トリアは一歩、パントリーの中へ踏み戻した。足元が崩れていくような感覚に襲われる。


「どういう意味? 誰から聞いたの?」


 抑えきれない焦燥が声に混じる。しかし、ユニが口を開く前に、柔らかな手がトリアの腕に触れた。


「トリア? どうしたの?」


 心配そうな顔をしたミラが、そこに立っていた。


 トリアはハッとしてミラを振り返る。荒くなった呼吸を整えられず、言葉を失った。


 ハルランの名前を誰にも聞かれたくない。あの忌まわしい過去を、この職場の誰にも知られたくなかった。


「……なんでもないの、ミラ。ちょっと、驚いただけ」


 消え入りそうな声は、自分でも驚くほど説得力に欠けていた。


 ユニがコーヒーカップを手に振り返り、困惑するミラに薄い笑みを向けた。


「ただの世間話よ、ミラ。トリアさんのジャカルタの知り合いについてね」


 事もなげに、ユニは続ける。


「私の友人に、その男性をよく知っている人がいて。少し思い出話に花を咲かせていただけよ」


「その男性」という言葉に力を込めながら、ユニは俯くトリアを冷ややかに一瞥した。


 トリアは手元のカップを見つめた。黒い液体が、手の震えに合わせて小さく波打っている。


 ハルラン。


 その名が頭の中で渦を巻き、バリでようやく忘れかけていた痛みと裏切りの記憶を呼び覚ます。


 今朝、ユダが見せてくれた心温まる微笑みが、ユニの持ち込んだ過去の霧に飲み込まれていく。


 ミラはトリアの異変を察し、この場の空気が尋常ではないことに気づいたようだった。


「行きましょう、トリア。デスクに戻って、明日の会議の資料をチェックしなきゃ」


 ミラはトリアの腕を引き、守るようにしてその場を離れようとする。


 トリアは抵抗することなく、力のない足取りでミラに従った。


 積み上げてきたはずの安らぎが、たった一つの名前で音を立てて崩れていく。


 背後では、ユニが満足げにコーヒーを啜りながら、遠ざかるトリアの背中を眺めていた。その表情には、小さな勝利を収めた者の歪んだ悦びが浮かんでいた。


 デスクに向かうトリアの胸には、残酷な現実が突き刺さっていた。


 過去はジャカルタに置いてきたはずだった。けれど、それは予期せぬ形で、静かに、確実に彼女を追い詰めていた。


 そして今度はハルラン本人ではなく、彼女の古傷を抉ろうとする者たちの手によって。

第33章、お読みいただきありがとうございます。

ようやく手に入れた平穏を、ユニという存在が揺さぶる回でした。

「過去」は、決して勝手に消えてくれるものではありません。

トリアの心に再び影を落とすハルランの名前。

この先、彼女はどう立ち向かっていくのでしょうか。

緊迫した展開へ続くので、ブックマークしていただけると励みになります。

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