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第32章 迷いへの答え

 あの食事会から一週間が過ぎたが、シャニアの声は今もユダの耳の奥で鳴り響いていた。静まり返った執務室で、ユダは点灯したままのモニターをただ見つめている。画面にはプロジェクト報告書のドラフトが並んでいた。


 モニター上のカーソルが規則正しく点滅し、主人の思考が止まっている時間を刻んでいるかのようだった。キーボードの上に置かれた指先は微動だにせず、滞ったままの業務が進む気配はない。


 同じ段落を何度も読み返し、結局その意味を咀嚼できないまま、ユダは深く重い溜息をついた。椅子の背もたれに体を預け、真っ白な天井を見上げる。


 この七日間、トリアの過去の傷に向き合う覚悟があるのかというシャニアの問いが、壊れたレコードのように頭の中で回り続けていた。山積みの書類に追われている時でさえ、その問いが意識から消えることはなかった。自分は、あんなにも粉々に砕け散った心を持つ女性を、本当に幸せにできるのだろうか。


 完全に乾ききっていない傷口に、また新たな痛みを与えてしまうことなく、その繊細な心に触れることができるのか。


 これは単に近づく勇気の問題ではない。過去の嵐が再び吹き荒れた時、その場に踏みとどまり続ける覚悟があるかどうかなのだ。もし一歩でも踏み出し方を間違えれば、トリアを再び傷つけるだけでなく、二人とも同じ痛みの深淵に沈んでしまうことになる。


「……彼女が完全に癒えるまで、待つべきだろうか」


 独り言が小さく漏れた。ユダは深く頭を垂れ、両手で顔を覆うようにして溜まった疲れを拭い去ろうとした。漏れ出た長い吐息が、彼の中で渦巻く葛藤の重さを物語っていた。


 一方で、オフィスでの二人の関係は、以前のような刺々しさや気まずさが薄れつつあった。会話はより自然に、柔らかく流れるようになり、意図的な距離感も消え始めている。


 仕事の合間に、軽い冗談を交わすことさえあった。急激な進展はないものの、日々の小さな積み重ねが、二人の間に確かな親密さを育てていた。


 あの雨宿りのひとときは、言葉にせずとも二人だけが共有する秘密の境界線となっていた。その出来事について触れることは一度もなかったが、ふとした瞬間に視線が重なれば、あの時の熱が静かに蘇るのを感じる。


 ユダは背筋を伸ばし、散らばっていた集中力をかき集めた。気分を変えようと席を立ち、執務室の外へと足を踏み出す。


 朝の活気に満ちたスタッフたちの作業スペースを通り過ぎる際、ユダの視線は無意識にトリアのデスクへと向いた。


 書類が整然と積み上げられたその場所には、主の姿がない。ユダは一瞬足を止め、主を失った椅子を見つめてから、あてもなく歩き出した。


 導かれるように辿り着いたのは、パントリーの前だった。少しだけ開いたドアの隙間から、キャラメルコーヒーの甘く芳醇な香りが漂い、鼻腔をくすぐる。


 中では、トリアが入り口に背を向けて立っていた。白い陶器のカップを手に、小さなスプーンでゆっくりと中身をかき混ぜている。チリン、チリンと、繊細な金属音が静かな空間に響いた。


 ユダは敷居のところで足を止めた。すぐに声をかけることはせず、安全な距離から彼女の背中を静かに見守る。


 整えられた髪が背中で揺れ、コーヒーを混ぜる手の動きに合わせてわずかに波打つ。その所作は驚くほど穏やかで、迷いがない。


 誰かに見られていることなど露知らず、トリアは真剣な面持ちで手元に集中していた。水の流れる音とスプーンの音だけが、数秒間の沈黙を埋めていく。


 ユダはついに、静寂を破るように声をかけた。


「コーヒーを淹れているのか?」


 トリアは小さく肩を揺らして振り返った。その瞳がまっすぐにユダを捉える。唇には、以前のような戸惑いのない、自然な微笑みが浮かんでいた。


「はい」


 短く、柔らかな答え。狭いパントリーの中に、束の間の沈黙が流れた。だが、その沈黙は決して息苦しいものではなく、互いの存在を確かめ合うような、心地よい安らぎに満ちていた。


 ユダは再び言葉を失った。今朝のトリアが放つ、その純粋な微笑みに目を奪われていた。その微笑みは、この一週間彼を苦しめていた疑念を、いとも容易く打ち砕く力を持っていた。


 数秒の後、トリアがその沈黙を優しく解いた。


「ユダさんの分も、淹れましょうか?」


 ユダはハッとして、深い思考の淵から引き戻された。


「いや、いいんだ。自分でやるから」


「いえ、私に淹れさせてください」


 トリアは譲らなかった。


「手間をかけさせてしまう」


「手間なんて思いません。毎日、家まで送っていただいているお礼です。一度くらい、コーヒーでそのご恩を返させてください」


 そう言ってトリアは少しだけ目を細めて笑うと、再びカウンターに向き直り、新しいカップを取り出した。


 ユダはその言葉に、抗う術を持たなかった。降参するように小さく笑みを浮かべると、パントリーのハイチェアを引き寄せて腰を下ろした。


 トリアは細心の注意を払って、ユダのためのコーヒーを淹れ始めた。ユダは黙ったまま、彼女の背中を見つめ続ける。


 熱いお湯がこぼれないよう慎重に注ぐ手つき。コーヒーと砂糖の分量を量る際、わずかに寄せられる眉、その瞳、鼻、頬、そして結ばれた唇。そのすべてが、ユダの目には完成された絵画のように映った。


 ユダは静かに息を吸い込んだ。不思議なことに、あれほど彼を苛んでいた不安が、潮が引くように消えていくのを感じた。目の前で呼吸し、確かに存在している彼女を見ているだけで、すべての恐怖は意味をなさなくなった。


(準備は、できている)


 確信に満ちた言葉が、心の中で形を成した。


 それは唐突な決断だった。まるで、ずっと探し求めていた答えが、最初からそこにあったことに気づいたかのように。


 トリアがコーヒーを淹れ終え、湯気の立つカップをユダの方へと差し出した。ユダは椅子から立ち上がり、右手でそれを受け取る。


 カップが手渡された直後、ユダの空いた左手がゆっくりと持ち上がった。その大きな掌が、トリアの頭の上に、羽が舞い降りるような優しさで置かれた。


 それは衝動的なものではなく、明確な意志を持った、穏やかな動きだった。指先に触れる髪の柔らかさを数秒間、慈しむように確かめる。


「ありがとう、トリア」


 ユダは彼女の瞳をじっと見つめ、この上なく柔らかな笑みを向けた。


 その微笑みには、これまでのものとは違う、揺るぎない決意の光が宿っている。


 トリアは立ち尽くしたまま、動くことができなかった。後ずさりすることも、過剰に狼狽えることもなく、ただ至近距離にあるユダの顔を見つめ返した。


「……はい」


 不意に込み上げた熱い感情に、声がわずかに震えた。


 胸の奥から温かな感覚が広がり、全身の血が巡るのを感じる。あの雨の夜と同じようでいて、今のそれは、より深く、静かに心に定着していくような感覚だった。


 ユダはそっと手を離すと、小さく一度だけ頷き、パントリーを後にした。


 トリアは一人その場に残り、自分のカップを握りしめたまま、遠ざかっていくユダの背中を見送った。


 頭に残る、掌の温もり。二人の間で何が変わったのか、正確な言葉にはできない。けれど、それは確かに、彼女の心に刻まれていた。


 甘い言葉も、大げさな約束もいらない。ただ一つの静かな行動が、何よりも雄弁に、守るという誓いを告げていた。

第32章、お読みいただきありがとうございます。

ユダが出した答えは、言葉ではなく行動でした。

パントリーでの静かなひとときが、二人の関係を次の段階へと進めます。

迷いを断ち切り、彼女を守ると決めたユダの姿を描きました。

これからの二人の歩みが、温かいものになりますように。

次の展開へ続くので、ブックマークしていただけると励みになります。

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