第31章 トリアの過去
翌日、サヌール・プロパティのオフィスは、いつもの活気を取り戻していた。ウィーンウィーンと唸るプリンターの音、給湯室から聞こえるスプーンの触れ合う音、そして朝の渋滞を嘆く同僚たちの軽い雑談が、日常の背景音として流れている。
しかし、トリアにとって、そのすべてが昨日までとは違って感じられた。デスクに座り、モニターに映る契約書のドラフトに集中しようとするが、指先が何度も止まってしまう。思考は昨夜の出来事へと引き戻されていた。ユダの胸に頭を預けた時の感覚、ジャケットから微かに漂った落ち着いた香り、そして頭を撫でてくれた手の温もりが、今も消えずに残っている。
トリアは深く息を吐き、乱れてもいない髪を整えた。胸の奥で暴れる落ち着かない感情を、どうにかして追い出そうと抗う。
その時、聞き慣れた足音がデスクのすぐ横で止まった。反射的に顔を上げると、心臓が跳ねた。そこには、爽やかな水色のシャツを纏ったユダが立っていた。しかし、その表情はいつもほど余裕があるようには見えない。どこかぎこちない色が、その端正な顔に浮かんでいた。
「おはよう、トリア」
ユダの声は、いつもより少し低く響いた。
トリアは瞬きを繰り返し、「おはよう、ユダ」と短く答えた。すぐに視線を落とし、画面上の数字の羅列を熱心に確認するふりをする。
ユダは喉を鳴らし、この場に漂う硬い空気を解こうとした。彼は一冊の薄いファイルをデスクの上に置いた。
「これ……昨日頼まれていたベンダーのデータだ。再確認しておいたから、あとは入力するだけでいい」
「あ、うん。ありがとう、ユダ」
トリアがファイルを受け取ろうとした瞬間、指先がユダの手の甲に触れた。
静電気のような衝撃が走り、二人は弾かれたように手を引いた。あまりにも素早い動きに、周囲の空気が一瞬だけ凍りつく。
数秒間の奇妙な沈黙。ユダはぎこちなく口角を上げた。「ええと……仕事は順調か? 何か困ったことはないか?」
トリアはユダの瞳を直視できず、小さく頷くのが精一杯だった。
「順調よ。あなたは?」
「ああ……まあな。それじゃ、私は部屋に戻るよ」
ユダが短く答えて背を向けると、トリアはようやく止めていた息を吐き出した。それと同時に、抑えきれない小さな微笑みが唇の端にこぼれた。
トリアが鼓動を鎮める間もなく、二つのキャスター付きの椅子が滑り寄ってきた。ミラが探るような視線を向け、反対側からはセラが身を乗り出している。
「ふーん……何だか、いつもと違う空気が漂ってるわね」
ミラが目を細め、茶化すように言った。
セラも負けじと悪戯っぽい口調で続く。「二人ともどうしたの? 高校生が好きな人に会った時みたいにギクシャクしちゃって」
トリアは平然を装おうと努めた。「何言ってるの。ただの仕事の話よ」
ミラは手の上に顎を乗せ、くすくすと笑った。「嘘おっしゃい。昨夜、雨宿りしてる間に何か『特別なこと』でもあったんじゃないの?」
頬が熱くなるのを感じながら、トリアは必死にコンピューターに視線を固定した。「本当に、何もないわ。雨が止むのを待って、帰っただけ」
セラは諦めず、さらに身を乗り出した。「少しぐらいロマンチックな瞬間があったでしょ? トリア、隠しても無駄よ。その笑顔は嘘をつけないんだから」
トリアはついに顔を伏せ、真っ赤に染まった顔を隠した。
「本当に何もないってば。二人とも大げさよ」
ミラとセラは顔を見合わせ、肩をすくめて笑い声を上げた。「はいはい、信じたふりをしてあげるわ。でもね、恋の気配って隠し通せるものじゃないのよ」
ミラは意味深な笑みを残し、自分のデスクへと戻っていった。
部屋の隅で、ユニはそのやり取りを静かに見つめていた。茶化す輪に加わることも、激しい怒りを表に出すこともない。ただ、冷ややかな視線がトリアから、閉ざされたユダの部屋のドアへと移った。
彼女は椅子をデスクに引き寄せ、キーボードの上に指を置いたまま、思考を巡らせた。
「このままじゃ、彼女の立場が強くなる一方ね……」
ごく小さな声で呟く。
ちょうどその時、人事部のアルダンが数枚の書類を抱えて彼女の後ろを通りかかった。ユニはすぐさま、計算された愛想の良い笑みを浮かべた。
「アルダンさん、ちょっといい?」
アルダンが足を止める。「ん? どうしたんだ、ユニ」
「あの、トリアさんのことなんだけど。彼女、ここに来る前はジャカルタのどこで働いてたの? 仕事ぶりがすごく丁寧だから気になっちゃって」
アルダンはトリアの採用書類を思い出すように、少し考え込んだ。「ああ、トリアさんか。確か、ジャカルタのグラハ・アルジュナ・タワーにあるオフィスだったはずだよ」
そのビルの名を聞いた瞬間、ユニの瞳に鋭い光が宿った。
「グラハ・アルジュナ・タワー? ……そう。道理で仕事が洗練されているわけね」
ユニは口角をわずかに上げた。
「それが何か?」アルダンが不思議そうに尋ねる。
ユニは首を横に振った。「ううん、ただの好奇心。教えてくれてありがとう」
アルダンが去ると、ユニの笑みは冷酷な企みへと変わった。そのビルで働いている古い友人の顔が浮かぶ。トリアがなぜ、わざわざ遠いバリまで逃げてこなければならなかったのか。彼女がジャカルタに残してきた「ゴミ」を掘り起こすための計画が、ユニの頭の中で形作られていった。
昼時、ユダはいつもの定食屋で昼食を摂っていた。しかし、料理を口に運ぼうとした瞬間、肩を叩かれた。
「やっと見つけた」
聞き慣れたシャニアの声だった。
ユダは少し驚いた顔をした。「シャニア? どうしてここに」
シャニアは誘われるのを待たずに、ユダの向かいの席に腰を下ろした。「近くの銀行に用事があってね。あなたがよくここに来るのを思い出したの。昔、よく一緒にここで食べたじゃない?」
ユダは小さく頷き、微笑んだ。店員がシャニアの注文を取りに来る。二人はしばらく近況を語り合っていたが、料理が運ばれてくると、シャニアの表情が真剣なものへと変わった。
「ユダ、トリアのことなんだけど」
ユダの手が止まった。意識のすべてが彼女に向けられる。「トリアがどうかしたのか?」
シャニアは息を吐き、ユダの目を真っ直ぐに見つめた。「あなたに知っておいてほしいの……トリアを愛するということは、あなたが想像しているほど単純なことじゃない。彼女は、とても深い過去の傷を抱えているわ」
シャニアは声を潜め、語り始めた。トリアがジャカルタでどれほど無残に壊されたのか。長年連れ添い、結婚を約束していたハルランという男が、別の女と彼女を裏切ったこと。
トリアが再び笑顔を取り戻すまでにどれほどの苦しみを味わったか、そして、どれほど大きなトラウマを抱えてバリへやってきたのかを。
ユダは言葉を失った。手に持ったスプーンが、鉛のように重く感じられる。昨夜、軒下で激しく泣きじゃくっていた彼女の姿が脳裏をよぎった。今ならわかる。あれは単なる涙ではなかった。あまりにも長く押し殺してきた、裏切りによる心の叫びだったのだ。
「だから……彼女はあんなに距離を置いていたのか」
自分に言い聞かせるように、ユダは呟いた。
賑やかな店内の音が、ユダの耳には急に遠のいた。食べかけの皿を見つめるが、食欲は完全に消え失せていた。
シャニアからもたらされた情報は、彼の心に大きな衝撃を与えた。胸が締め付けられるような深い憐れみと同時に、ハルランという男に対する激しい憤りが込み上げる。しかし、それ以上に、ある疑念が彼の心に影を落とした。
シャニアは探るような視線をユダに送る。その瞳は、無言で問いかけていた。
――あなたに、その砕け散った心を受け止める覚悟はあるのか?
ユダは沈黙を守った。自分の存在が彼女にとっての癒やしになれるのか、それとも、新たな重荷になってしまうのではないか。
初めて、ユダは自問した。自分は本当に、彼女の暗く、未だ癒えぬ過去へと踏み込む準備ができているのだろうか。
第31章、お読みいただきありがとうございます。
トリアの過去が明かされ、物語の重みが増した回でした。
ユダの戸惑いと、それでも彼女を守りたいという想い。
彼の葛藤が、今後の展開をより深くしていくはずです。
シャニアの警告は、ユダにとってどのような意味を持つのでしょうか。
次の展開へ続くので、ブックマークしていただけると励みになります。
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