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第30章 盾となる背中

 軒先のトタン屋根を叩く雨音が、鼓膜を震わせるほど激しく響いていた。時折吹き付ける強い風が冷たい飛沫を運び、ユダはトリアを守るように、その一歩前へと足を踏み出した。


 ユダはわずかに顔を伏せ、逞しい体の影に隠れたトリアの様子を窺った。風に煽られた雨粒が、彼女の服の裾をじわじわと濡らしていくのが見える。


「これ以上、濡れてはいないか?」


 耳元で響いた低く落ち着いた声に、トリアはハッとして我に返った。一瞬だけ顔を上げたものの、言いようのない気恥ずかしさに襲われ、すぐにまた視線を落とす。


 彼女はただ、硬い動きで小さく頷くことしかできなかった。それと同時に、胸の奥から奇妙な温かさがじわりと広がっていくのを感じていた。


 目の前で荒れ狂う嵐の中でも、ユダの庇護下にいる今は、不思議なほどの安らぎを感じる。しかし、その安心感こそが、心の奥底に封じ込めていた苦い記憶を呼び覚ましてしまった。


 意識は唐突に、ハルランが世界の中心だったあの頃へと引き戻される。かつての彼もまた、今のユダと同じように優しく、些細なことから彼女を守ってくれていた。


 記憶の中の情景が滲み、トリアの瞳に熱いものが込み上げる。ハルランはいつも、誠実で疑いようのない愛情を装い、彼女を甘やかしてくれた。だが、その同じ男が、最終的には彼女の信頼も人生も、跡形もなく打ち砕いたのだ。


 ユダは隣の店舗に目を向けた。あちらの方が軒が深く、雨を凌げそうに見える。


「隣へ移動しよう。あそこの方が雨宿りもしやすいし、スペースも広い」


 ユダが移動しようと一歩踏み出した、その時だった。トリアの手が反射的に伸び、彼のジャケットの袖を強く掴んだ。


 その指先には確かな力がこもっており、ユダの足を止めさせた。彼は驚いたように動きを止める。


「……トリア? どうした?」


 トリアはゆっくりと顔を上げた。街灯の淡い光に照らされたその顔は、どこか青ざめ、瞳には涙が溜まっている。


「このままで……いい?」


 震える声が、雨音に混じって漏れ出した。彼女はユダのジャケットを掴んだ手を離そうとはしなかった。まるで、今の彼女にとって彼だけが唯一の縋るべき存在であるかのように。


「だが、このままではもっと濡れてしまう。風もこちら側に吹き付けているし――」


「お願い……少しだけ」


 トリアは消え入りそうな声で、彼の言葉を遮った。震える唇を噛み締め、溢れ出しそうな感情を必死に抑え込んでいる。


 その姿を見たユダは、言葉を失った。目の前の女性の顔に刻まれた、深い悲しみの色を読み取ったからだ。彼は静かに頷き、移動するのを諦めた。


 トリアは、どこか自嘲気味で切ない微笑を浮かべた。そしてゆっくりと手を動かし、ユダの腹部あたりのジャケットを掴んで、彼を自分の方へと引き寄せた。


 自分の額がユダの胸にそっと触れた瞬間、彼は微かに体を強張らせた。


「トリ……トリア?」


 隠しきれなくなった忍び泣きの声が、静かに漏れ始める。トリアの肩は小さく震え、溢れ出した涙が彼のジャケットをじわじわと濡らしていった。


 ユダは深く息を吐き、最初は躊躇うような動きを見せたが、やがてゆっくりと左手を持ち上げた。


 その大きな手は、壊れ物を扱うかのような手つきで、トリアの頭の上にそっと置かれた。


「ジャカルタで君に何があったのか、俺には分からない」


 ユダは一度言葉を切り、それから続けた。


「でも、これだけは分かる。君は立派だ。ここまで耐え抜き、この場所でやり直そうとしている君は、本当に強い」


 ユダは少しだけ顔を伏せ、腕の中で泣きじゃくるトリアに顔を近づけた。自分の言葉が、彼女の心に真っ直ぐ届くように。


「もう、一人で抱え込まなくていいんだ」


 その心からの言葉に、トリアの涙はついに決壊した。彼女は何度も、何度も小さく頷き、彼の胸から離れようとはしなかった。


 過去の裏切りによる痛みと、今感じている計り知れない感謝の念。その入り混じった感情で胸が締め付けられる。どん底にいた自分を、こうして守ってくれる人が現れるなんて、思いもしなかった。


 暗い軒下、止む気配のない豪雨の中。トリアは長い年月の末に、ようやく心から寄り掛かれる場所を見つけたような気がしていた。


 濡れた服の冷たさも、骨身に沁みる夜風も、もう気にならなかった。隣にいるユダが与えてくれる温もりは、今の彼女にとって何よりも価値のあるものだった。


 トタン屋根を叩く激しい音は、いつしか穏やかな小雨の音へと変わっていた。トリアはゆっくりとユダの胸から顔を離し、手の甲で頬に残った涙を拭った。


 ユダは、彼女が呼吸を整えるのを静かに待っていた。


 言葉を交わすことなく、ユダは手早くジャケットを脱いだ。そして、まだ微かに震えているトリアの肩に、それを差し出した。


「これを着て。服がかなり湿っている。風邪を引くぞ」


 トリアは差し出されたジャケットを見つめ、申し訳なさそうに首を振った。自分を守ってくれた彼が、濡れたシャツ一枚になってしまうのが忍びなかったのだ。


「いいえ、ユダ。あなただって濡れているわ。これを私が着たら、あなたが体調を崩してしまう」


 だが、ユダはその拒絶を受け入れなかった。彼は一歩踏み出し、半ば強引にジャケットをトリアの肩に掛けた。


「いいから、着るんだ。俺は君が思っているより頑丈だからな。今回ばかりは、我慢してくれ」


 トリアはその強引な優しさに折れ、大きな袖に腕を通した。


 胸元までジッパーを引き上げると、彼女はユダに向かって小さく、だが心からの微笑みを向けた。ユダも短く頷いてそれに応え、二人はバイクへと歩き出した。


 スクーターのエンジンが静かに鼓動を始め、雨上がりの涼しいサヌールの街を走り抜ける。後部座席に座るトリアの心は、行きとは比べものにならないほど穏やかだった。


 トリアの視線の先には、ユダの逞しい背中がある。この数日間、新しい職場で困難に直面するたび、常に盾となって守ってくれた背中だ。


 彼女は迷いながらも、慎重に右手を伸ばし、運転するユダの背中にそっと触れた。手のひらを通じて、彼の規則正しい呼吸の動きが伝わってくる。


 ヘルメットの中で、トリアの口元が自然と綻んだ。自分がいかにこの背中に守られてきたかを、改めて実感したからだ。軽くなった心の中に、新しい確信が芽生え始めていた。


「……もしかしたら、この人は違うのかもしれない」


 自分にしか聞こえないほどの小さな声で、トリアは呟いた。


 やがてバイクは、明かりの灯るシャニアの家の前で止まった。トリアはバイクを降り、ヘルメットと借りていたジャケットを脱いだ。


 それらをシートに座ったままのユダに手渡す。トリアの瞳は、先ほどよりもずっと明るい輝きを宿していた。


「本当にありがとう、ユダ。それから、ごめんなさい。私のせいで、あなたまでずぶ濡れにさせてしまって」


 ユダは左手でそれらを受け取ると、彼女の謝罪を聞いて低く笑った。


「気にするな。ただの水だ、劇薬じゃないんだから。溶けてなくなることはないさ」


 そのささやかな冗談に、トリアも声を立てて笑った。


 ユダはヘルメットをホルダーに掛け、再び自分のジャケットを羽織った。襟元を整えてから、傍らに立つトリアを真っ直ぐに見つめる。


「じゃあ、俺はもう行くよ。寝る前に温かいシャワーを浴びるんだぞ」


 そう言うと、ユダは無意識に右手を伸ばし、トリアの頭にそっと置いた。そして、慈しむように優しくその髪を撫でた。


「もう、悲しまないで」


 ユダは穏やかな微笑みを浮かべて言った。


 トリアは雷に打たれたように硬直した。そのあまりにも甘く優しい仕草に、心臓が止まるかと思った。


 しかし、ユダの顔から笑みが消えるのも早かった。自分が何をしたかに気づいた瞬間、彼は弾かれたように手を引っ込め、目に見えて狼狽し始めた。


 彼の顔は瞬く間に耳まで真っ赤に染まり、完全に挙動不審に陥っている。もはやトリアの顔を直視することさえできないようだった。


「あ……す、すまない! じゃあ、帰るよ! おやすみ!」


 トリアの返事を待つこともなく、ユダは勢いよくアクセルを回した。バイクは急加速し、逃げるようにシャニアの家の前から去っていった。


 呆然とその背中を見送っていたトリアだったが、やがて堪えきれずに小さな笑い声を漏らした。


 彼女は手を上げ、先ほどユダが触れた場所にそっと手を置いた。彼の温もりがまだそこに残っているようで、胸の奥が温かい幸福感で満たされていく。


「やっぱり、彼は違うわ」


 今度は確信を込めて、トリアはもう一度呟いた。


 彼女は晴れやかな気持ちで、家の中へと歩き出した。涙で始まった暗い夜は、最高に甘い微笑みと共に幕を閉じた。




第30章、お読みいただきありがとうございます。

雨宿りでの出来事が、二人の関係性を大きく変える転機になりました。

ユダの不器用な優しさと、トリアの心の氷が解けていく過程を描きました。

最後のユダの反応、可愛かったですよね?

そんなほっこりとした瞬間も大切にしながら、物語を進めていきたいと思います。

次の展開へ続くので、ブックマークしていただけると励みになります。

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