第3章 同じ傷跡に触れて
サンティは慎重な手つきでエンジンをかけた。重苦しい沈黙の中、低く静かなアイドリング音だけが響く。トリアは深くうなだれたまま座席に身を沈めていた。途切れ途切れの呼吸を繰り返すたび、その細い肩がかすかに震える。
サンティはちらりと隣を見たが、すぐに前方の道路へと視線を戻した。「トリア……まずは、深呼吸して」
その声はどこまでも優しかった。
トリアは手の甲で口元を覆い、喉の奥から溢れ出す嗚咽を必死に抑えようとした。赤く腫れた瞳からは、涙が止まることなく溢れている。
「サン……家まで送って。私……もう、耐えられない」
震える声は、今にも消えてしまいそうだった。
サンティは何も言わず、ただ静かに頷いた。余計な言葉を飲み込むように、その顎のラインが硬く強張る。今のトリアに必要なのは助言などではない。ただ、安らげる場所へ帰ることなのだと分かっていた。
車は一定の速度で進んでいく。トリアは再び顔を伏せ、激しく肩を揺らした。こみ上げる涙を堪えきれず、呼吸が何度も止まりそうになる。零れ落ちた雫が、彼女の手の甲を静かに濡らした。
「サン……」
掠れた声は、かろうじて聞き取れるほどに細い。
「人事の人に伝えて……体調が悪いって。今日はもう、オフィスには戻れない」
「分かった。あとのことは私に任せて」
サンティはいたわるように即座に答えた。
フロントガラス越しに見える街並みは、涙でひどく滲んでいる。トリアは一度も顔を上げようとはしなかった。まるで、外の世界に自分の脆さを晒すことを恐れているかのようだった。サンティは運転に集中しながらも、時折左手を伸ばしてトリアの肩を優しく撫で、静かに寄り添い続けた。
「落ち着いて、トリア」
トリアは小さく頷いたが、それは返事というよりも反射的な動きに近かった。抑えようとするほどに、また新たな嗚咽が漏れ出した。
ようやく車はアパートの敷地内に入った。人影のまばらな車寄せに停車すると、トリアは素早く涙を拭った。それでも、瞼に刻まれた赤い筋を隠すことはできなかった。バッグを掴む指先が、小刻みに震えている。
「上まで付き添おうか?」
サンティの問いに、トリアは力なく首を振った。
「いいの……今は一人になりたい」
サンティは小さく息を吐き、トリアの腕を軽く叩いた。「分かった。でも、何かあったらすぐに電話して。いつでもいいから」
トリアは微笑もうとしたが、その唇は力なく震えるだけだった。「ありがとう、サン」
「いいえ。ゆっくり休んで。私はオフィスに戻るから」
トリアはただ頷き、虚ろな瞳で車を降りた。足取りは覚束なく、ロビーまでのわずかな距離が果てしなく遠く感じられた。自動ドアを通り抜け、振り返ることなくエレベーターへと向かう。閉まる扉の中で、彼女はバッグを強く握りしめた。収まりきらない胸の苦しみに、呼吸が再び乱れ始める。
部屋の前に着くと、震える手でドアを開けた。中に入り、背後で扉が閉まる音をただ聞き送る。重い足取りで寝室へと向かうその体は、感情の重圧に押し潰されそうだった。
トリアは糸が切れたようにベッドへ倒れ込んだ。すべての気力を吸い取られたかのようだった。張り詰めていた糸が切れ、激しい泣き声が部屋を満たす。胸の奥を直接掴み上げられるような感覚。屈辱、心の痛み、そして容赦なく突き刺さる裏切りの記憶が、彼女を苛んだ。
両手で顔を覆っても、涙は溢れ続けた。昨夜の光景が脳裏に焼き付いて離れない。彼に触れた指先、預けた信頼、大切に守ってきたはずの何かが、今日の昼間、同じ男の手によって無残に壊された。
嗚咽が激しくなるにつれ、声が悲鳴のように裏返る。彼女は胎児のように体を丸めた。
問いが次から次へと頭をよぎる。いつから二人は会っていたのか。なぜ彼は嘘をついたのか。昨夜の言葉は、すべて空虚な戯言だったのか。
来年の約束を口にしたハルランの顔が浮かび、頭が焼けるように熱くなる。――ずっと私の背後で浮気をしていたの? 私はただの身代わりに過ぎなかったの?
閉ざされた部屋に、彼女の泣き声だけが虚しく響き渡った。
◇
一方、オフィスに戻ったサンティの呼吸は、まだ完全には整っていなかった。親友への同情から流した涙の跡が、まつげにわずかに残っている。平静を装おうとしていたが、その表情には隠しきれない憤りが滲んでいた。
サンティの姿を見つけるなり、ハルランが部屋の前で待ち構えていた。彼は強張った顔で歩み寄り、サンティの背後にいない「誰か」を探すように視線を彷徨わせた。
「サンティ、トリアはどこだ?」
サンティは顔を上げ、冷ややかな視線をハルランに向けた。「家まで送ったわ。気分が悪いって」
その声は低く、突き放すようだった。激しい怒りではない。だが、ハルランを沈黙させるには十分な冷たさがあった。サンティは彼に質問の隙を与えず、そのまま自分のデスクへと向かった。レストランでの出来事に対する嫌悪感を、その背中で雄弁に語っていた。
ハルランは鋭く息を吐き出した。スマートフォンを取り出し、画面に表示されたトリアの名をタップする。呼び出し音は鳴り続けるが、応答はない。二度、三度と繰り返しても結果は同じだった。四度目の試行も虚しく終わると、ハルランは低く毒づき、苛立ちを隠せない様子で端末をポケットにねじ込んだ。
彼は荒々しく鼻を鳴らすと、逃げるように自分の部屋へと戻っていった。
◇
夕闇が迫る頃、トリアはようやく目を覚ました。カーテンの隙間からオレンジ色の淡い光が差し込んでいるが、腫れ上がった瞼のせいで視界はひどく霞んでいる。彼女はゆっくりと上体を起こし、枕元にあるスマートフォンに手を伸ばした。
点灯した画面には、ハルランからの不在着信がずらりと並んでいた。トリアは深い溜息をついた。困惑と恐怖の狭間で、心が動けなくなっている。もし昨夜のことがなければ、もっと簡単に決断を下せただろう。けれど、すべてを捧げてしまった今、自分の中の何かが彼に縛り付けられ、逃げ出すことを拒んでいた。
画面を見つめたまま動けずにいると、突然、外でドアが開く音がした。トリアは弾かれたように顔を上げた。寝室の入り口に、肩で息を切らしたハルランが立っていた。
「トリア……。なあ、君が思っているようなことじゃないんだ」
ハルランの声は低く、震えていた。
トリアの目から、堪えていた涙がまた一筋零れ落ちた。昼間の光景がフラッシュバックする。クラリッサの視線、あの女の満足げな微笑み、自分を怒鳴りつけたハルランの声、そして彼が自分ではなく他人を庇ったあの瞬間。
「どうして嘘をついたの!? どうしてあの人を守ったのよ!」
トリアの声が悲鳴のように割れた。
ハルランは歩み寄り、ベッドの端に腰を下ろした。彼の手が伸び、トリアの顔を包み込むようにして、自分の方を向かせた。「まずは僕の話を聞いてくれ。僕が悪かった……。疲れていたんだ。仕事は山積みだし、締め切りに追われて正気じゃなかった。感情に流されてしまったんだ」
トリアは肩を上下させ、しゃくり上げた。ハルランは彼女の髪を、慈しむような手つきで優しく撫でた。
「嘘をついたのは、君に変な心配をさせたくなかったからだ」
ハルランは言葉を重ねる。「君を傷つけたくなかった。クラリッサと同じ店にいるなんて知ったら、君が誤解すると思って怖かったんだ」
トリアは震える瞳で彼を見つめた。心は粉々に砕けている。それでも、彼女は縋れるものを探していた。この状況を正当化してくれる説明を、あるいは、すべてを元通りにしてくれる微かな希望を。ハルランはさらに距離を詰め、彼女に寄り添った。
「ごめんね……」
そう囁きながら、彼はトリアの頬を指先でなぞった。
トリアは小さく頷いた。それは確信からではなく、あまりの脆さゆえに生じた拒絶する力を失ったのだ。ハルランはその頷きを見逃さず、顔を近づけた。彼の唇がトリアの唇に触れる。それは羽が触れるような、微かな謝罪の吐息に似ていた。
その感触はあまりに短く、優しさに満ちていた。だが同時に、トリアの世界を再び揺るがすには十分な強さを持っていた。ハルランの手がゆっくりと彼女の背中に回り、その華奢な体をあまりにも慣れた手つきで抱き寄せた。
彼は静かにトリアを導き、ベッドに横たわらせた。手のひらで背中を支え、壊れ物を扱うように慎重に。トリアは抵抗しなかった。ただ、彼のなすがままに身を委ねた。トリアが横たわると、ハルランもその隣に滑り込んだ。左腕を彼女の腰に回し、二人の間に隙間がなくなるまで引き寄せた。
「もういいよ……。君の泣き顔なんて見たくない」
その甘い囁きは、トリアの心の最も柔らかい部分を容赦なく突き刺した。
トリアはただ、小さく頷き返した。かつて自分を包み込んでくれた安らぎが、今は思考を濁らせていく。それでも彼女は、その罠に囚われることを選んだ。
二人の呼吸が重なり、次第に穏やかになっていく。ハルランは彼女をさらに強く抱き寄せ、額に口づけを落とした。そして再び唇を重ねる。穏やかで、安らぎに満ちたその感触は、疑うべき二人の関係を再び深い闇の中へと沈めていった。
言葉を交わすことなく、トリアはすべてが流れ去るのを待った。
夕暮れはいつしか夜へと移ろい、部屋には欺瞞に満ちた静寂だけが満ちていた。
物語の続き、気になってくれたら嬉しいな。トリアの気持ち、どう思う?コメントで教えてね。ブックマークも忘れずに。




