第29章 雨の中の砦
事務デスクを照らす蛍光灯の光が、広い室内の闇を切り裂いていた。先ほどまで響いていたキーボードの打鍵音は止み、今はただ、静寂を埋めるように空調の低い唸りだけが響いている。
ミラが不意に作業を止め、椅子を後ろに引いた。床との摩擦で、かすかな軋み音が静かなオフィスに広がる。彼女は両手を高く突き上げ、数時間も凝り固まっていた背中の筋肉をゆっくりと伸ばした。
「やっと終わったー!」
ミラの快活な声が、眠りについていた空気を震わせる。
その隣で、セラとトリアもようやく手を止めた。二人は深く、重い溜息を吐き出しながら、椅子の背もたれに身を預ける。明日の重要な会議に向けた膨大な報告書と事務データの山が、ようやく完璧な形に整ったのだ。
「お疲れ様。よく頑張ったね」
部屋の隅から、低く落ち着いたバリトンボイスが響いた。三人は弾かれたように顔を上げる。
そこには、すでに帰宅した社員の空席に腰を下ろしたユダがいた。彼は手元のタブレットを閉じると、労うような穏やかな微笑を浮かべて彼女たちを見つめている。
トリアは壁のデジタル時計に目をやり、わずかに息を呑んだ。時刻はすでに夜の十時を過ぎている。彼女は申し訳なさそうに眉を下げ、ユダの視線を受け止めた。
「ごめんね、ユダ。私たちのせいで、こんな時間まで付き合わせちゃって」
ユダは小さく笑い、ゆっくりと立ち上がった。スラックスのポケットに両手を忍ばせ、トリアのデスクの傍らまで歩み寄る。
「気にするな。シャニアさんからも、君のことを頼むと何度も念を押されているからね」
彼はトリアのすぐ隣で足を止め、言葉を継いだ。
「このオフィスにいる間、君は僕の責任だ。こんな時間に一人で帰すわけにはいかないよ」
その言葉に含まれた強い保護欲に、ミラとセラが顔を見合わせ、悪戯っぽく口角を上げた。
「ご馳走様です!」
二人の冷やかしに、トリアは燃えるように熱くなった頬を隠すため、深く俯いた。一方のユダも、きまりが悪そうに視線を逸らし、不自然なほど硬い動作で、別の方向へと視線を逸らした。
三人は手早く身支度を整え、静まり返ったビルを後にした。駐車場へと続く足音が、夜の静寂に規則正しく響く。
夜空は重く、星一つ見えない。低く垂れ込めた黒い雲が、湿った風を伴ってゆっくりと流れていく。ミラとセラは、整然と並ぶ車の間で手短に別れの挨拶を交わした。
二人は自分のバイクで通勤していたが、今にも降り出しそうな空模様を見て、無理をしないことに決めたようだ。スマートフォンで配車アプリを操作し、バイクを駐車場に残したままタクシーで帰路についた。
同僚たちを見送った後、トリアは駐車場の隅に止められたユダのスクーターへと歩み寄った。
彼女は横座りで後部座席に腰を下ろし、バッグのストラップをぎゅっと握りしめる。遠くで低く響く雷鳴に、不安げな視線を空へと向けた。ユダがエンジンをかけると、二輪車は静まり返ったサヌールの街を滑るように走り出した。
しかし、道のりの半分も行かないうちに、天の底が抜けたような豪雨が二人を襲った。冷たく大きな雨粒が、強い風に煽られて容赦なく叩きつける。ユダは素早くハンドルを切り、シャッターの降りた店先の軒下へとバイクを滑り込ませた。
二人は慌ててバイクを降りたが、事務服はすでに半分ほど濡れ、肌に張り付いている。ユダは手のひらで顔の雨水を拭い、済まないという表情でトリアを振り返った。
「……参ったな。メットインに合羽を入れるのを忘れてた。トリア、濡らしてしまって本当に申し訳ない」
トリアは冷えた腕をさすりながら、安心させるように小さく微笑んだ。
「大丈夫だよ、ユダ。謝らないで。これだけ激しい雨なら、きっとすぐに止むから」
二人は軒下の狭いスペースに並んで立った。コンクリートの屋根があるとはいえ、吹き付ける強風が容赦なく雨飛沫を運んでくる。急激に下がった気温に、トリアの肩が小さく震えた。
寒さに耐えるように壁に身を寄せる彼女を見て、ユダは迷うことなく一歩踏み出した。彼はトリアの正面に立ち、その逞しい体を盾にするようにして、吹き付ける風を遮った。
二人の距離が、劇的に縮まる。
トリアの視界は、すぐ目の前にあるユダの広い胸板で占められた。周囲の冷気とは対照的な、彼から放たれる体温が伝わってくる。
「風がすごく強いね」
ユダが雨のカーテンに覆われた路上を見やりながら、低く囁いた。
トリアは立ち尽くしたまま、ゆっくりと顔を上げた。至近距離で鼻先をかすめるのは、雨の匂いに混じった、彼特有の清潔感のある男性らしい香水の香り。
その瞬間、彼女の心臓が跳ねるように鼓動を刻み始めた。全身の神経が、これまでに感じたことのない高揚感に支配されていく。
周囲の時間が止まったかのような錯覚に陥り、トリアはバッグの端を強く握りしめた。これほど近くにいることで、彼がどれほど真摯に自分を守ろうとしているのかが、痛いほど伝わってくる。
(……ずるいよ。ただの友達なのに)
トリアは心の中で、誰に届くともない呟きを漏らした。
第29章、お読みいただきありがとうございます。
突然の雨と、狭い軒下での二人きり。
トリアの心が大きく揺れた回でした。
ユダの優しさが、時に毒にも薬にもなる……。
その微妙な距離感と、高まる鼓動を感じていただけたなら嬉しいです。
次の展開へ続くので、ブックマークしていただけると励みになります。
感想などもコメントで気軽にどうぞ!




