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第27章 廻り始めた因果の車輪

 サヌールの夜は更け、リビングの壁時計が刻む秒針の音だけが、静寂を規則正しく切り裂いていた。家の中は、穏やかで満ち足りた空気に包まれている。


 ソファに胡坐をかいたシャニアの眼鏡に、ノートパソコンの青白い光が反射していた。オフィスから持ち帰った仕事を片付ける彼女の指先は、キーボードの上で軽快に踊り続けている。


 その隣で、トリアは何度もソファの柔らかなクッションに頭を預けていた。瞼は鉛のように重く、時折、手のひらで口元を覆いながら大きなあくびを漏らす。


 限界を感じたトリアは、ようやく重い腰を上げた。身に着けていた部屋着を軽く整え、シャニアを見つめる。


「お姉ちゃん、お先に失礼するね。もう、すごく眠くて……」


 シャニアはタイピングの手を止め、慈しむような微笑みをトリアに向けた。ゆっくりと頷き、休息を促す。


「ええ、トリア。おやすみなさい、いい夢を」


 トリアは力ない足取りで自室へと向かった。閉まったドアの音が、彼女の一日の終わりを告げる。


 トリアの姿が消えると、シャニアは眼鏡を外してテーブルに置いた。深く息を吐き、ソファの背もたれに身を委ねる。


 長時間モニターを見つめていたせいで、鼻の付け根が重い。先ほど信頼について語り合った時の、トリアの壊れそうなほど脆い表情が、再びシャニアの胸をざわつかせた。


 シャニアは静かにノートパソコンを閉じると、テーブルの上のスマートフォンを手に取って立ち上がった。


 テラスへ出ると、バリの涼やかな夜風が肌を優しく撫でる。澄み渡った夜空を見上げながら、連絡先からある名前を探し、発信ボタンを押した。


 二回ほどの呼び出し音の後、元気な女性の声が響いた。


「もしもし、シャニア姉さん! こんな時間に珍しいね」


 妹のサンティの弾んだ声に、シャニアはふっと表情を緩めた。テラスの柱に肩を預け、リラックスした姿勢をとる。


「仕事が終わったところよ、サンティ。トリアも今、部屋に戻ったわ。ジャカルタの方はどう?」


 サンティは近況を短く伝えた後、急に探るような口調に変わった。その声には、抑えきれない好奇心が滲んでいる。


「トリアはどう? 少しは落ち着いた? それから、ずっと気になってたんだけど……ユダさんって、一体誰なの?」


 シャニアは眉を寄せた。サンティがこれほど熱心にユダの名を出すとは思わなかったからだ。


「ハルランがね、こっちですごく荒れてるのよ。ユダって誰だって、見苦しいくらい嫉妬して聞き回ってて」


 ハルランの名を聞いた瞬間、シャニアの瞳に冷ややかな光が宿った。街灯に照らされた道路を、鋭い眼差しで見つめる。


「ユダさんは私の古い知り合いよ。とても誠実で礼儀正しくて、オフィスでもトリアをずっと守ってくれているわ。初日から彼女を導いてくれた恩人なの」


 シャニアは、ユダが抱いている本心については口を閉ざした。親友の秘めた想いを、たとえ妹であっても漏らすわけにはいかない。


 サンティは電話の向こうで少し沈黙し、姉の言葉を咀嚼しているようだった。しかし、すぐに持ち前の茶目っ気を出して問いを重ねる。


「でも姉さん、そのユダさんって人はトリアのことが好きなんじゃない? トリアから話を聞く限り、そんな気がするんだけど」


 鋭い指摘に、シャニアは思わず苦笑を漏らした。


「さあ、どうかしらね。仕事仲間なんだから、助け合うのは当然でしょう?」


 シャニアはそれ以上追及させないよう、話題を切り替えた。ジャカルタに残った「あの男」の現状が気にかかっていた。


「ところでハルランだけど、最近の様子はどうなの? まだ自分が一番だとでも思っているのかしら」


 サンティは忌々しそうに鼻を鳴らし、満足げな声で語り始めた。


「もう、散々よ。ハルランは今、問題ばかり起こしてる。理由も言わずに遅刻してくるし、仕事もまともに手についてないみたい」


 サンティは言葉を切り、強調するように続けた。


「昼休みも戻るのが遅いし、夕方は定時前なのにいつの間にかいなくなってるわ」


 シャニアはそれを聞きながら、胸の奥で静かな充足感が広がるのを感じた。運命の歯車が、あるべき方向へ回り始めたのだ。


「パフォーマンスもガタ落ちよ。トリアがいなくなって、正気を失ってるみたい。完全に迷走してるわね」


 闇の中で、シャニアは勝利の笑みを浮かべた。それは、友を傷つけた者への当然の報いを見届けた者の顔だった。


「いい気味だわ。このままクビになればいい。それが因果応報というものよ、サンティ。彼にはお似合いの結末だわ」


 シャニアは深く息を吐き、肩の荷が少し軽くなるのを感じた。


「トリアをあんなに残酷に傷つけたんだもの。自分の人生が崩れていくのを味わえばいい。誰も同情なんてしないわ」


 サンティも強く同意した。職場の同僚たちも、ハルランの不誠実な態度に愛想を尽かし始めているという。


「本当にそうね! 昨日も上司にこっぴどく叱られてたけど、自業自得よ。トリアみたいな純粋な人を裏切っておいて、幸せになれると思ってたのかしら」


 しばらく他愛ない話をした後、シャニアは電話を切った。


 スマートフォンをポケットにしまい、再びバリの夜空を見上げる。トリアをここへ連れてきたのは、最良の選択だったと確信していた。ここでなら、彼女は失った笑顔を取り戻せる。


 シャニアは踵を返し、家の中へと戻った。玄関の鍵を慎重に閉め、リビングの明かりを消すと、静かな足取りで自室へと向かった。




第27章、お読みいただきありがとうございます。

ジャカルタでのハルランの惨めな現状と、バリで平穏を取り戻しつつあるトリア。

対照的な二人の姿を通じて、因果の輪が回り始めたことを描きました。

シャニアの妹、サンティからの情報も、今後の展開に大きく関わってくるはずです。

次の展開へ続くので、ブックマークしていただけると励みになります。

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