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第26章 希望と古傷の間で

 サヌールの空が、息をのむような橙と紅の階調に染まり始めた。沈みゆく陽光がアスファルトの路面を照らし、昼間の熱気をかすかに残した空気を震わせている。


 ユダの運転するバイクが速度を落とし、シャニアの家の前で静かに止まった。


 トリアは慎重な動作で後部座席から降りると、顎の下のヘルメットの留め具に手をかけた。カチリ、という小さな音が夕闇に響く。


 ヘルメットを脱ぐと、潮風に吹かれて乱れた黒髪を指先で軽く整えた。彼女は柔らかな笑みを浮かべ、ユダにヘルメットを差し出す。その瞳には、バリに来たばかりの頃にはなかった穏やかな光が宿っていた。


「送ってくれてありがとう、ユダさん。最近、甘えてばかりでごめんなさい」


 ユダがヘルメットを受け取ろうと手を伸ばした。その瞬間、二人の指先がわずかに触れ合う。


 ユダの動きが止まった。バイクに跨ったまま、彼は金色の残光に照らされたトリアの横顔をじっと見つめる。


 夕陽を浴びて、彼女の頬が自然な赤みに染まっていた。ユダは言葉を失ったかのように、ただ強い眼差しで彼女の瞳を捉えて離さない。


「……気にしないで。家も同じ方向だし、手間でも何でもないから」


 彼は視線を逸らさなかった。数秒の間、沈黙が二人を包み込む。


 あまりに真っ直ぐな視線に、トリアは居心地が悪そうに視線を泳がせた。


「あの……ユダさん? どうしてそんなに見つめるんですか?」


 その問いに、ユダはハッと我に返った。わずかに肩を揺らし、ぎこちない動作でバイクのハンドルへと視線を落とす。


 トリアは思わず小さく吹き出した。口元を片手で隠しながら、耳の先まで赤く染まっていくユダの様子を盗み見る。


「私の顔、何か変ですか?」


 トリアが指先で自分の頬に触れながら、重ねて尋ねた。


 ユダの鼓動が、エンジンの音よりも激しく胸の内で鳴り響く。


「いや……変なことなんてない。ただ、目に髪がかかっていたから」


 彼は早口でそう言い捨てると、再びエンジンを回した。低い排気音が夕暮れの静寂を切り裂く。


「じゃあ、もう行くよ。早く中に入って、ゆっくり休んで」


 返事を待たず、ユダは短く手を振ってバイクを走らせた。角を曲がってその背中が見えなくなるまで、トリアは門の前で立ち尽くしていた。


 彼女は仕事鞄から予備の鍵を取り出し、家の中へと足を踏み入れた。


 自室に鞄を置き、靴を脱ぎ。扉の裏にかけてあった清潔なタオルを手に取り、浴室へと向かった。


 温かいシャワーが全身を包み込む。トリアは目を閉じ、立ち上る湯気に身を委ねた。一日中、書類と格闘して凝り固まった体が、少しずつ解きほぐされていく。


 けれど、思考までは休まってはくれなかった。先ほどの、照れたようなユダの表情が、短編映画のリピート再生のように頭の中で繰り返される。


 シャワーの下で、トリアの唇が自然と弧を描いた。彼の些細な気遣いを思い出すたび、胸の奥に温かな何かが芽生えていくのを感じる。


 しかし、その微笑みはすぐに消え去った。昼間、オフィスで耳にしたユニの冷ややかな声が蘇ったからだ。


『ユダさんが、あんなに新人に肩入れすることなんて、今まで一度もなかったわ』


 トリアは腕を洗う手を止め、顔に当たる水しぶきをそのままにした。濡れたタイルの壁を、虚ろな眼差しで見つめる。


「……まさか。ユダさんが、私を?」


 独り言が、水音に混じって消えていく。彼女は激しく首を振り、浮ついた考えを追い出そうとした。


「だめよ、トリア。自惚れないで。また前みたいに、誰かの優しさを履き違えたら……」


 自分自身に言い聞かせるように、低く呟いた。期待が大きければ、裏切られた時の傷も深くなる。心に鍵をかけ、これ以上踏み込ませてはいけないと、自分を戒めた。


 風呂から上がると、白いタオルで濡れた髪を纏め、水色の花柄のワンピースに着替えた。


 リビングの明かりを灯し、柔らかなソファに深く体を沈める。天井を見上げながら、静寂の中に身を置いた。


 やがて、庭にシャニアの車が戻ってくる音がした。扉が開き、疲れを見せているシャニアの姿が現れる。


「あら、いい香りがするわね。仕事はどうだった? 順調?」


 シャニアはトリアの隣に腰を下ろし、大きく息を吐き出した。ソファの背もたれに頭を預け、束の間の休息を味わう。


 トリアは今日あった出来事を、弾んだ声で話し始めた。ミラやセラがいかに愉快で親切か、新しい環境での発見を一つ一つ丁寧に伝えていく。


 そして、ユダがいかに良き相談相手であり、丁寧に指導してくれているかについても。


 話の途中で、ユニの険しい表情が脳裏をよぎった。先輩からの嫌がらせについて話すべきか迷ったが、トリアはそれを飲み込んだ。忙しいシャニアに、これ以上の心配をかけたくはなかった。


「とにかく、皆さん良くしてくださるんです。ユダさんも、私が困らないようにずっと気にかけてくれて」


 ユダの名前が何度も出るのを聞いて、シャニアの表情がわずかに真剣味を帯びた。彼女は姿勢を正し、トリアの瞳をじっと見つめる。


「トリア、一つ聞いてもいい? もしもの話だけど」


 トリアは小さく頷いた。


「もし、ユダが同僚以上の感情をあなたに持っていたとしたら……あなたはどうする?」


 その問いに、トリアの顔が一瞬で赤く染まった。言葉に詰まり、視線を彷徨わせる。


 一瞬だけ、その可能性に胸を躍らせるような光が瞳に宿った。しかし、それはすぐに消え、深い不安の色に塗り替えられていく。


 トリアは膝の上で固く結んだ指先を見つめ、深く俯いた。


「……怖いんです。もう一度、誰かを信じるのが……本当に」


 震える声が、静かな部屋に響く。過去のハルランの裏切りが、消えない亡霊のように彼女の心を締め付ける。


「また同じように傷つくのが怖い。あの痛みに、もう一度耐えられる自信がないんです」


 親友のあまりに脆い告白に、シャニアの胸が痛んだ。彼女はそっと手を伸ばし、トリアの頭を優しく撫でる。


 シャニアはトリアを温かな抱擁の中に引き寄せ、その震えを鎮めるように抱きしめた。トリアは力なく、シャニアの肩に顔を埋める。


 シャニアは前方の虚空を見つめ、心の内で深く溜息をついた。ユダがトリアの心の扉を開くには、まだ長く険しい道のりが続いていることを痛感せずにはいられなかった。


(全部、あの最低なハルランのせいね……)


 トリアの自信をここまで粉々に打ち砕いた男への怒りが、静かに燃え上がっていた。




第26章、お読みいただきありがとうございます。

ユダとの距離の縮まり方と、それでも拭えないトリアの不安。

その狭間で揺れる心情を描きました。

シャニアの問いかけは、トリアにとってあまりにも重すぎるものだったかもしれません。

過去の傷と、新しい希望。トリアはどう答えを出すのでしょうか。

続きが気になる方は、ブックマークしていただけると嬉しいです。

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