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第25章 一目惚れ

 ユダの執務室のガラス扉は固く閉ざされ、先ほどまで外のフロアに満ちていた笑い声や喧騒が、嘘のように遠のいた。彼はいつもよりずっと軽い足取りで、自身のデスクへと向かった。


 ふかふかのワークチェアに深く腰を下ろし、背もたれに身を預ける。モニターには書きかけの報告書が表示されていたが、キーボードの上に置かれた指先は動く気配を見せなかった。


 視線は自然と、デスクの傍らにある大きな窓へと向けられる。地上三階からの景色には、立ち並ぶビル群と、その上をゆっくりと流れていくバリの白い雲が広がっていた。


 意識はもはや仕事にはなく、先ほど受付デスクで見かけた女性の姿へと向けられていた。トリアの面影が、静かに、しかし確実に彼の思考を占領していく。


 数日前、空港で初めて出会った時の記憶が蘇る。あの時の彼女は、幽霊のように青ざめた顔をし、その瞳には怯えの色が濃く浮かんでいた。あまりにも脆く、今にも壊れてしまいそうだった。


 見知らぬ男を前に、彼女の細い体が激しく震えていたのを、ユダは今でも鮮明に覚えている。あの瞬間のトリアは、人生の道標を失い、暗闇の中を彷徨っているかのようだった。


 しかし、その痛々しい残像は、今日目にした彼女の姿によって上書きされていく。今の彼女の頬には健康的な赤みが差し、かつての悲壮感は微塵も感じられない。


 アディティア部長から褒め言葉をかけられた時、彼女の瞳は眩いほどに輝いていた。ミラやセラにからかわれ、困ったように、けれど楽しそうに零した笑い声が、今もユダの耳の奥で心地よく反響している。


 ユダの口角がわずかに上がり、柔らかな弧を描いた。それは無意識のうちに溢れ出した、深い感嘆の証だった。彼は滑らかな木製のデスクを、人差し指で規則正しくトントンと叩く。


「あの空港で震えていた女性が、最近あんなに愛らしい笑顔を見せるようになるなんて……誰が想像できただろうな」


 独り言のような低い呟きが、静寂に溶けていく。


 その時、デスクの上に置いていたスマートフォンが激しく震え、室内の静けさを破った。画面に目を落とすと、そこには『シャニア』の名前が表示されている。


 ユダはリラックスした動作で通話アイコンをスライドさせ、端末を耳に当てた。椅子に深く座り直し、ゆったりとした姿勢で口を開く。


「やあ、シャニア。こんな昼日中にどうしたんだ?」


 受話器の向こうから、シャニアの快活な声が響いてきた。彼女特有のエネルギーに満ちたトーンが、ユダの執務室に明るい空気をもたらす。


『何してるの、ボス? もしかして、こっそりトリアのSNSでもチェックしてたんじゃない?』


 その指摘に、ユダは思わず苦笑した。図星を突かれたような感覚に、胸の奥でわずかな動揺が走る。


「月次の報告書をまとめていたところだよ。……まあ、君の友人がさっき三階のフロアを大騒ぎにさせてくれたのは事実だけどね」


 ユダは笑いを含んだ声で返した。


『えっ? 大騒ぎって、どういうこと?』


 シャニアが興味津々といった様子で食いついてくる。


 ユダは数分前に受付デスクで起きた出来事を話し始めた。ミラとセラが、大勢の社員の前で声を揃えて自分の名前を呼んだこと。


 そして、トリアが顔を真っ赤にして、ひどく恥ずかしがっていた様子を。話を聞き終えたシャニアは、電話の向こうで我慢しきれないといった風に爆笑した。


 ユダは彼女の笑い声が落ち着くまで、スマートフォンを少し耳から遠ざけた。やがて笑い声が止むと、シャニアの声は一転して、真摯で温かみのあるものに変わった。


『本当にありがとう、ユダ。仕事で彼女を支えてくれているだけじゃなくて、毎日家まで送ってくれていることも……感謝してるわ』


 旧友への心からの謝辞を述べる前に、シャニアは短く息を吐いた。


『今のトリアがこんなに落ち着いて、幸せそうに過ごせているのは、間違いなくあなたの助けがあったからよ』


 その言葉に、ユダは一瞬言葉を失った。彼はデスクの端にあるグラスを手に取り、乾いた喉を潤すように水を一口含んだ。


「……褒めすぎだよ。トリアはもともと、新しい環境に適応する能力が高いんだ」


 グラスを置き、再び背もたれに身を預ける。


「彼女は強い女性だよ、シャニア。君が思っている以上にね」


 シャニアは一秒ほど沈黙した。その沈黙に、ユダは何か嫌な予感を覚える。案の定、次に聞こえてきた彼女の声は、いたずらっぽく弾んでいた。


『それで……いつトリアに告白するつもりなの?』


 水を飲み込もうとした瞬間の問いかけだった。ユダは激しくむせ返り、口に含んでいた水がわずかに飛び散った。


 静かな執務室に、彼の激しい咳き込みが響き渡る。


「シャニア……君は、何を言っているんだ?」


 ようやく呼吸を整えたユダが、困惑混じりに問い返す。


 彼は手の甲で口元を拭いながら、激しく脈打つ鼓動を鎮めようと努めた。


「トリアへの感情は、純粋にプロフェッショナルな友人としてのものだ。それ以上の下心なんてない」


『ユダ、あなたのことは何年も前から知ってるわ。誰にでも親切だけど、女性に対しては一線を引いて、どこか冷淡なところがあるじゃない』


 シャニアは一言一言に含みを持たせるように強調した。ユダは反論できず、ただ座ったまま固まるしかない。


『でも、トリアに対してはどう? 毎日送り迎えまでして、あんなに尽くしてる。もういい加減、正直になりなさいよ。彼女には言わないからさ』


 シャニアの正確すぎる分析に、ユダは完全に沈黙した。彼は深く息を吸い込み、乱れた感情を落ち着かせるようにゆっくりと吐き出した。


 しばらくの沈黙の後、彼の口から漏れたのは、低く、しかし偽りのない本音だった。


「……正直に言うよ、シャニア。僕はトリアが好きだ。自分でも気づかないうちに、そうなっていた」


 ユダはそっと目を閉じ、長い間胸の奥に仕舞い込んでいた想いを、言葉に乗せて解き放った。


「実は……空港で彼女を初めて見た時からなんだ」


 その告白を聞いたシャニアが、安堵したように息を吐く音が聞こえた。


『やっぱりね。ただの「良い友達」になりたいだけの男が、そこまで労力を割くわけないもの。……つまり、一目惚れだったってことね、ユダ?』


 ユダは微かに微笑んだ。脳裏をよぎるトリアの笑顔を思い浮かべると、その眼差しは自然と柔らかくなる。


「そう言えるかもしれない。でも、この気持ちをすぐに彼女に伝えるつもりはないんだ」


「今は、彼女が毎日笑顔で過ごせて、このオフィスを安全な場所だと感じてくれているだけで十分だよ。遠くから見守っているだけでいい」


 ユダの言葉に、シャニアは優しく応じた。


『それについてはあなたに任せるわ。余計な口出しはしない。あなたが正直になってくれただけで、私は嬉しいから』


 ユダは少しの間を置いてから、声を潜めた。その声は、室外に漏れることを極端に恐れる秘密の囁きのようだった。


「シャニア、このことはトリアには絶対に秘密にしておいてくれ。僕の本当の気持ちを、彼女に知られないようにしてほしいんだ」


 しかし、シャニアはその願いを聞いて、楽しそうに声をあげた。


『あら、それについてはお約束できないわね、社長サマ!』


「シャニア、頼むよ……」とユダが懇願に近い声を出すと、彼女は満足そうに笑いながら「冗談よ、秘密にしておくわ」と約束し、トリアをよろしくねと言い残して電話を切った。


 暗転したスマートフォンの画面を見つめ、ユダはそれを丁寧にデスクの上に戻した。


「言われるまでもないよ、シャニア」


 彼は再び、コンピューターの報告書に目を向けた。その胸には、先ほどまでとは違う、確かな熱が宿っていた。トリアの笑顔を守り抜くという、新たな決意と共に。




第25章、お読みいただきありがとうございます。

ユダの本音が明かされた回でした。

彼なりの不器用な優しさと、トリアへの想いが伝われば嬉しいです。

シャニアとのやり取りも、二人の関係性を深める重要なポイントでしたね。

次の展開へ続くので、ブックマークしていただけると励みになります。

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