第24章 氷解の笑み
ユニが去った後の重苦しい空気は、トリアの胸の奥に澱のように溜まっていた。彼女は、明るく光るモニターの前でしばし呆然と立ち尽くす。
冷たいキーボードの表面を、目的もなく指先がなぞった。瞬きを繰り返すカーソルを、彼女は空虚な眼差しで見つめる。思考は遠く、現実から乖離していた。
デスクを並べるミラとセラも、どこか身体を硬くさせていた。時折、心配そうにトリアへ視線を送っては、彼女が大丈夫かどうかを窺っている。
二人は手元の書類をめくり、忙しそうに振る舞っていた。しかし、その意識は完全にトリアに向けられている。微動だにしない彼女の様子を、固唾を飲んで見守っていた。
静まり返ったオフィスに、不意に逞しい影が落ちた。その存在感が、トリアを深い沈思から引き戻す。
三人が同時に顔を上げると、そこにはユダが立っていた。彼は、心の底から通じているような、穏やかで誠実な微笑みを浮かべている。
ミラとセラは弾かれたように背筋を伸ばした。そして、何事もなかったかのように、猛烈な勢いでモニターに向かい始める。
視線は画面に固定されているが、その耳は限界までそばだてられていた。トリアのデスクで交わされる言葉を、一言も漏らすまいとしているのだ。
トリアは、先ほどから眺めるだけだったメールの画面を慌てて閉じた。深く息を吸い込み、できるだけ自然な笑みを作って彼を迎え入れる。
ユダは、青い表紙のファイルをトリアの机に置いた。
「トリア、今アディティア部長の部屋に行ってきたんだ」
彼は近くの椅子を引き寄せ、話しやすい位置に腰を下ろした。
「君が今朝送ったデータ、部長が褒めていたよ。非常に整理されていて、見やすいレポートだとね」
トリアは驚きに目を見開いた。目の前の男が口にした言葉が、にわかには信じられなかった。
「本当ですか、ユダさん? 部長が、本当にそう仰ったんですか?」
ユダは力強く頷き、その瞳には誇らしげな光が宿っていた。彼は椅子の背もたれにゆったりと身体を預け、満面の笑みをトリアに向ける。
「ああ、本気だよ。入社一週間で部長に認められるなんて、滅多にないことだ」
彼は言葉を区切り、その意味を噛み締めるように続けた。自分が指導した女性の成果に、心から満足しているようだった。
「君はこのチームにとって、素晴らしい戦力になると仰っていたよ」
その真摯な称賛に、トリアの胸を圧迫していた重荷が、霧散していくのを感じた。先ほど浴びせられたユニの棘のある言葉など、もうどうでもよくなっていた。
消えかけていた彼女の笑顔が、再び明るく花開く。この一週間の努力が、最高の形で報われたのだ。
「ありがとうございます、ユダさん。それを聞いて、本当に安心しました」
トリアは姿勢を正し、晴れやかな表情で彼を見つめた。心の中は、深い感謝の念で満たされている。
「でも、これは私だけの力じゃありません。三人のメンターが助けてくれたおかげですから」
ユダは少し不思議そうに眉を寄せたが、その口元には甘い微笑が残ったままだ。
「三人のメンター?」
「ミラさんに、セラさん、そして最後の一人は……」
トリアがその名を口にするより早く、聞き耳を立てていた二人が勢いよく立ち上がった。
「ユダさん!」
二人の声が重なり、オープンスペースに響き渡る。
その瞬間、オフィスは水を打ったような静寂に包まれた。社員たちの手が止まり、すべての動きが凍りつく。
他部署の視線が一斉にトリアのデスクへと注がれた。トリアの顔は、耳の付け根まで一気に朱に染まる。彼女は燃えるように熱い顔を隠すように、深く俯いた。
「す、すみません……お騒がせして、本当に申し訳ありません」
消え入りそうな声でトリアが謝罪する。彼女はシャツの裾をぎゅっと握りしめ、誰とも目を合わせることができずにいた。
ユダもまた、口を半開きにしたまま固まっている。信じられないものを見るような目で、ミラとセラを交互に見つめた。
だが、その気まずい沈黙は長くは続かなかった。端の席に座っていた年配の社員が、突然声を上げて笑い出したのだ。
「ははは! また事務の三人娘が騒いでるな! いつもはミラとセラだけだが、今日からは三人揃ってか!」
その言葉をきっかけに、オフィス中にどっと笑い声が広がった。張り詰めていた空気は一瞬で溶け、和やかな冗談が飛び交い始める。
トリアはあまりの恥ずかしさに、両手で顔を覆った。ユダもまた、決まり悪そうに項を掻いている。冷静な彼には珍しく、頬に微かな赤みが差していた。
二人の視線が一瞬だけ重なる。気恥ずかしさを共有するような短い沈黙の後、ユダが先に口を開いた。
「……僕は、自分の席に戻るよ。データ、ありがとう。これからも頑張って」
彼はそう言い残すと、いつもより心持ち早い足取りで、ガラス扉の向こうへと去っていった。
ユダの背中が見えなくなると、ミラとセラが即座にトリアを囲んだ。その瞳は、いたずらっぽい光で爛々と輝いている。
ミラが肘でトリアの肩を小突き、赤みの引かない耳元で囁いた。
「見た? ユダさんが来ただけで、さっきまでの暗い顔が嘘みたいに明るくなっちゃって」
セラも負けじと、腕を組んでドラマのナレーターのような大袈裟な口調で追撃する。
「吉報を運ぶ王子の登場で、すべての悩みは消え去った。まさに、奇跡の瞬間ね」
トリアは鼻を鳴らし、照れ隠しにマウスを動かしてメールボックスを開き直した。こぼれそうになる笑みを必死で堪える。
「もう……二人とも! ほら、仕事に戻ってください!」
甘えるような抗議をしながら、ミラの腕を軽く押し返す。だが、心が羽が生えたように軽くなっていることは、自分でも否定できなかった。
心の奥底で、彼女は深い感謝を感じていた。ユダの存在は、単に仕事の能力を認めてくれただけではない。
それは、今の自分が、ありのままを尊重し支えてくれる環境にいるのだという、何よりの証だった。
トリアは新たな活力を胸に、キーボードを叩き始める。
その横顔には、以前よりも強い自信が宿っていた。モニターを見つめる瞳には、バリで築いていく未来への希望が、確かに灯っていた。
第24章、お読みいただきありがとうございます。
ユダの言葉で救われるトリアと、それを温かく見守る仲間たち。
少しほっこりできる回だったかなと思います。
職場の人間関係は難しいですが、そんな中で芽生える信頼関係も描いていけたら嬉しいです。
次の展開へ続くので、ブックマークしていただけると励みになります。
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