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第23章 笑顔の裏の鋭い棘

 サヌールでの驚きに満ちた昼食から二日が過ぎた。今朝のアルカディア・プライムのオフィスは、いつも以上に活気に満ちあふれている。


 午前十時の陽光が大きな窓から差し込み、トリアのデスクを明るく照らしていた。そこには山積みの書類と付箋が並んでいる。オープンスペースのあちこちから聞こえてくるキーボードの打鍵音は、小気味よいリズムを刻み、ダイナミックな仕事の活気を生み出していた。


 トリアがモニターに並ぶ数字の列に意識を集中させていると、ミラが足早に近づいてきた。腕には印刷したばかりの書類の束を抱えている。


 ストン。


 キーボードのすぐ脇に書類が置かれ、軽い衝撃音が響いた。ミラは少し汗ばんだ額を拭いながら息をつく。


「はい、これ。昨日まとめた第2四半期の支出報告データよ。あ、それから財務チームが、正午までに以前のデータもデスクに届けてほしいって言ってるわ」


 トリアはすぐにその書類を手に取り、一ページずつ丁寧にめくっていった。数字が途切れていないか、誤字脱字がないか、その目は真剣そのものだ。


「全部チェック済みかな、ミラ? 昨日、ユダさんがベンダー関連のデータが少し足りないかもしれないって言ってたから」


 そこへ、パントリーから戻ってきたセラが加わった。手にしたカップからは、コーヒーの芳醇な香りが湯気と共に立ち上っている。彼女は少し疲れの見える顔で、トリアの椅子の後ろに立った。


「大丈夫、安心して。さっき私が再計算したから。受け取った請求書とも全部一致してるわ」


 セラは長く深い溜息をつくと、ゆっくりとコーヒーを口にした。そして、トリアの隣にある空いたデスクの端に腰を預けた。


「でも、財務チームの連中ときたら、相変わらずよね。どんなに完璧なデータを出しても、重箱の隅をつつくみたいに不備を探しては、修正させようとするんだから」


 その愚痴に、トリアは小さく笑い声を漏らした。彼女の手は淀みなくマウスを動かし、準備していたデジタルフォルダを開いていく。


「いいのよ、セラ。そのおかげで私たちもより慎重になれるんだから。ところで、このデータは内部グループのアドレスに送ればいい? それとも個人宛て?」


 隣の席に座ったミラが、ボールペンの先でトリアのモニターを指し示した。


「アディティアさんに直接送って。財務マネージャーの彼が、今朝個人的に要求してきたから」


 セラも頷きながらコーヒーを啜る。「トリア、メールの件名にプロジェクトコードを入れるのを忘れないでね。アディティアさんの絶対的なルールなの。コードがないと、彼はメールを開きもしないで再送を命じてくるから」


 トリアは了解の意を込めて頷き、一文字ずつ慎重にメールを打ち込み始めた。エクセルとPDFの添付ファイルが正常にアップロードされたことを確認する。


「二人とも、ありがとう。ここの事務手続きや仕事の流れについては、まだまだ学ぶことがたくさんあるわ」


 送信ボタンをクリックし、トリアは安堵の溜息をつきながら背もたれに体を預けた。送信完了の通知が表示されるのを静かに待つ。


「送信完了。あとは返信を待つだけね」


 セラが励ますように、トリアの肩を優しく叩いた。半分ほどになったコーヒーカップをデスクに置く。


「もし三十分経っても返信がなかったら教えて。技術的な問題がある時は、いつも私がアディティアさんと直接やり取りしてるから」


 和やかだった空気は、時計の針が十時半を回った瞬間に一変した。コツコツと、硬いハイヒールの音が近づいてくる。


 大理石の床を叩くその音は、規律正しく、どこか威圧的だった。音は事務チームのエリアでぴたりと止まる。


 そこに立っていたのは、完璧に整えられた姿のユニだった。真っ白なブレザーに、体のラインを強調するペンシルスカートを着こなしている。


 メイクは非の打ち所がないほど完璧だが、その瞳の奥には刺すような冷たさが潜んでいた。左手には高級店のコーヒーカップを携えている。


 ユニは、どこか不自然で作り物めいた笑みを浮かべた。そして、測りかねるような視線をトリアに向ける。


「あら、トリアさん。どう? ここでの仕事には慣れたかしら?」


 ユニから直接声をかけられたのは初めてのことで、トリアは驚きながらも背筋を伸ばした。努めて穏やかに応える。


「あ、ユニさん。はい、おかげさまで少しずつ慣れてきました。居心地もいいです」


 そばにいたミラとセラは、急に口を閉ざした。二人は警戒心を露わにし、互いに視線を交わす。


 ユニが一歩近づくと、彼女が纏う強い香水の香りがトリアのデスク周りに立ち込めた。ユニの視線が、品定めするようにデスクの上を這う。


「この一週間、何か大きな問題はなかった?」


「はい。最初は戸惑うことも多かったですけど、ミラさんとセラさんがいつも丁寧に教えてくれるので助かっています」


 ユニは薄く笑ったが、その笑みが鋭い瞳に届くことはなかった。彼女はわずかに首を傾げる。


「いいお友達を持って、幸せね。それに……」


 ユニは言葉を一度切り、重苦しい沈黙を置いた。その視線の強さに、周囲の空気が急速に冷え込んでいく。


「……ここへ足を踏み入れた初日から、とても熱心な『専属ガイド』もついているものね」


 その棘のある言葉に、トリアの眉がわずかに寄った。心臓の鼓動が乱れ始めるのを感じながらも、プロフェッショナルとしての態度を保とうとする。


「どういう意味でしょうか?」


 ユニはコーヒーカップをデスクの仕切りに置き、そこに顎を乗せた。先ほどまでの愛想笑いは消え去り、代わりに蔑むような色が浮かび上がる。


「ユダさんのことよ。彼はとても忙しい人なの、トリアさん。新入社員にあんなに過剰な便宜を図るなんて、今までは一度もなかったわ」


 トリアは肺に溜まった重苦しい空気を吐き出すように、深く息を吸った。この会話が、個人的な対立へと向かっていることを確信する。


「ユダさんは初日に助けてくださいましたが、それはバスカラ部長から直接の依頼があったからです。決して個人的な関係ではありません」


 ユニは、ゆっくりと、そして皮肉たっぷりに小さく拍手をした。


「まあ、随分と素早い弁明ね。私はただ事実を言っただけなのに。でも、まあいいわ。だって……」


 ユニは声を潜め、鋭い囁きを投げかけた。勝ち誇ったような笑みを浮かべ、トリアの瞳を真っ直ぐに見据える。


「……ユダさんは、いかにも『儚げで、同情を誘うような女性』に弱いタイプだものね」


 デスクの周囲は、凍りついたような静寂に包まれた。ユニの言葉は、トリアの古傷をわざと抉るナイフのように鋭かった。


 状況が悪化していることに気づいたミラが、素早く立ち上がった。近くにあった青いファイルに手を伸ばし、トリアに意味ありげな視線を送る。


「トリア、ちょっと手伝って。サーバーにある古いプロジェクトファイルを探したいんだけど、フォルダの場所を忘れちゃって」


 ミラはトリアのモニターを覗き込むふりをして身を乗り出し、耳元で誰にも聞こえないほどの小声で囁いた。


「相手にしちゃダメよ。あなたの感情を揺さぶろうとしてるだけだから」


 十分な先制攻撃を加えたと確信したのか、ユニは満足げな笑みを浮かべた。肩にかけた高級バッグの位置を、これ見よがしに整える。


 立ち去る間際、彼女はトリアを頭の先から爪先まで舐めるように見回した。


「お水、たくさん飲んだほうがいいわよ、トリアさん。さっきから顔色が真っ青だもの。あなたが倒れたりしたら、ユダさんが死ぬほど心配しちゃうでしょう?」


 ユニは鼻で笑うような短い声を残した。その笑い声は、トリアの脆さを嘲笑っているかのようだった。


「ああ、ごめんなさい。あなたたちはただの知り合いだったわね」


 皮肉な捨て台詞を残し、彼女はエレベーターの方へと悠然と歩き去っていった。


 トリアは椅子に座ったまま、石のように固まっていた。デスクの下で握りしめた拳は白くなり、胸の中で渦巻く激しい感情を必死に抑え込んでいる。


 目元が熱くなるのを感じたが、懸命に堪えた。エレベーターの扉が閉まり、ユニの姿が消えると、セラが歩み寄ってきた。


「気にしちゃダメよ、トリア。彼女、ユダさんの近くに新しい女性が現れると、いつも自分の立場が脅かされると思ってああなるの」


 セラは声を潜めて囁いた。


「あなたは何も悪くないわ。この一年、彼女は必死にユダさんに近づこうとして、ずっと無視され続けてきただけなんだから」


「わからないわ、ミラ……どうしてあんなに攻撃的になれるの? 誰かの邪魔をしようとしたことなんて、一度もないのに」


 セラはトリアの肩を優しく撫でた。ユニが去っていった廊下を、不快そうに見つめる。


「彼女はユダさんを自分のものだと思い込んでるのよ。実際には、ユダさんは彼女と仕事上の距離をきっちり保っているのにね。手に入らない関心を失うのが怖くて、怯えてるだけよ」


 重苦しい空気が漂う中、突然、トリアのコンピューターからメールの着信音が鳴り響いた。その音が、デスクを包んでいた静寂を打ち破る。


 トリアが画面に目を向けると、財務マネージャーのアディティアからの返信が届いていた。


『データを確認した。非常に整理されており、正確だ。感謝する、トリア』


 その短い一文を読み、トリアは長く深い安堵の息を吐き出した。少なくとも、自分の仕事は上司に正当に評価されたのだ。


 メールを一緒に覗き込んだミラが、パッと明るい笑顔を見せた。トリアの手の甲を元気づけるように叩く。


「ほら、見て。あなたは素晴らしいわ、トリア。あのアディティアさんが人を褒めるなんて、滅多にないことなんだから。ユニみたいな人のせいで、一日を台無しにしないで」


 トリアは、まだ心の奥に痛みが残っているのを感じながらも、無理に小さな微笑みを浮かべた。二人の友人の支えに感謝するように、静かに頷く。


 トリアの視線は、再び固く閉ざされたエレベーターの扉へと向けられた。


 胸の奥に、得体の知れない不安が澱のように沈んでいく。バリでの生活は、自分が想像していたほど単純なものではないことを、彼女は痛感し始めていた。


第23章、お読みいただきありがとうございます。

オフィスの日常と、潜む人間関係の難しさが描かれた回でした。

ユニのような存在はどこにでもいるものですが、トリアがどう乗り越えていくのか、見守っていただければ幸いです。

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