第21章 二人の親友が仕掛けた甘い罠
バリ料理特有のスパイスの香りを残した磁器の皿が、給仕の大きなトレイへと移されていく。トリアの前の木製テーブルは広くなり、表面の質感と対照的な色合いのフルーツジュースが三杯だけ残された。
背もたれに身を預け、手に持ったオレンジジュースの冷たさを楽しむ。バッグからスマートフォンを取り出し、親指でゆっくりとインスタグラムの画面をスクロールした。サヌールの穏やかな風が吹き抜ける開放的なレストランの雰囲気は、彼女の心を深く解きほぐしていた。
しかし、その静寂は唐突に破られた。目の前に座るミラの表情が劇的に変化したのだ。悪戯っぽく目を輝かせ、その口角が大きく吊り上がる。
ミラは隣のセラの腕を力強くつついた。眼鏡の位置を直していたセラが、思わずよろめくほどだ。ミラは顎で入り口の方を指し、合図を送る。
「しっ……作戦のターゲットがお出ましよ」
ミラが声を潜めながらも、弾んだ声で囁いた。
セラが部屋の隅にある入り口に目を向ける。そこに立つ人物を確認した瞬間、彼女の顔にも意味深な笑みが浮かんだ。
トリアに何の説明もないまま、二人は同時に席を立った。その突然の動きに、トリアは反射的に顔を上げ、スマートフォンを遠ざける。
「トリア、ちょっとお手洗いに行ってくるわね。もう、さっきから我慢できなくて」
ミラは少し大げさに腹部を押さえながら、芝居がかった様子で言った。
「ええ、いってらっしゃい。早く戻ってきてね」
トリアは短く答えた。疑う様子は微塵もなかった。
二人は足早にテーブルを離れたが、その足先はトイレの通路とは正反対を向いていた。レストランに足を踏み入れたばかりの男を、正面から捕まえる。
「あら、ユダさん!」
ミラの通る声が響いた。トリアの席まで届くように、わざと大きな声を出している。
サングラスを外したばかりのユダは、少し驚いた様子を見せた。
「おや、君たちがここで食事なんて珍しいね」
ユダは周囲を見渡し、何かを探すような素振りを見せた。
聞き慣れた深い男中音の声に、トリアの心臓は一瞬止まったかのように感じられ、次の瞬間には普段よりも激しく脈打ち始めた。反射的に声のする方へ視線を向ける。
やはり、そこにユダが立っていた。仕事用のシャツの袖を肘まで捲り上げ、その佇まいはどこまでも男らしい。
「トリアさんを探してるんでしょう? あそこにいるわよ」
ミラが茶化すように言った。
彼らを見つめていたところを見つかり、トリアは慌てて視線を逸らした。ぎこちない動きで再び俯き、スマートフォンの画面を凝視するふりをする。
同僚たちの前で、ユダは居心地悪そうに身を縮めた。探していた相手を正確に言い当てられ、その頬に薄い赤みが差していく。
「……君たちは、もう食事が終わったのか?」
照れ隠しに、彼は別の話題を振った。
「ええ、もちろん。私たちはお手洗いへ。緊急事態なの。ユダさん、トリアさんの相手をお願いね」
セラがミラの腕を引いて言った。
ユダは観念したように頷き、項を掻いた。ミラとセラは、必死に笑いを堪えながらトイレの通路へと消えていった。
テーブルで、トリアはスマートフォンを握りしめた。唇を噛み、声に出さずに不満を漏らす。新しい友人たちが、ユダが来ることを知っていたのだと確信した。
(もう、絶対に仕組んでたんだわ……!)
苛立ちと、どうしようもない緊張が入り混じる。
やがて、規則正しい足音が近づいてきた。
「やあ、トリアさん。こんなところで会うなんて奇遇だね」
ユダの低く落ち着いた声が、彼女の耳に心地よく響く。
激しい鼓動を鎮めるように深く息を吸い、トリアは顔を上げた。表情が強張っているのを自覚しながらも、できる限り自然な笑みを浮かべる。
「こんにちは、ユダさん。ええ……ミラさんとセラさんに誘われて、初めてここに来たんです。素敵で、落ち着く場所ですね」
スマートフォンをテーブルの上に整然と置いた。
ユダはミラが座っていた木製の椅子を引いた。すぐには座らず、許可を求めるようにトリアをじっと見つめる。
「僕もここで一緒に食事をしても構わないかな?」
丁寧な口調で尋ねた。
トリアは素早く頷いた。
「ええ、もちろんです。座ってください。私たちも食べ終わって、あとはジュースを飲むだけですから」
給仕がメニューを持って近づき、ユダは手短に注文を済ませた。
店員が去った後、二人の間に沈黙が流れる。その空気はどこか気恥ずかしく、トリアは手持ち無沙汰を解消しようと再びスマートフォンに手を伸ばした。
意味もなくインスタグラムの画面をスクロールする。目の前に座るユダと視線を合わせるのを避けたかった。
「アルカディアで一週間働いてみて、どうかな? 仕事のリズムには慣れた?」
ユダが沈黙を破った。
トリアはスマートフォンを置き、今度はしっかりと彼を見つめた。
「とても楽しいです。職場の皆さんがこんなに親切だなんて思わなくて。システムで分からないことがあっても、ミラさんとセラさんが根気強く教えてくれるので助かっています」
ユダは目を細め、心からの笑みを浮かべた。椅子の背もたれに体を預け、彼女の言葉に安堵したように表情を和らげる。
「環境を気に入ってくれたなら良かった。最初の週は入力するデータも多いし、負担に感じていないか少し心配していたんだ」
「ユダさんは、よくここに来るんですか? メニューを熟知しているようでしたけど」
トリアは片手で頬杖をつきながら尋ねた。
ユダは力強く頷いた。
「ああ、僕の口に合うから、昼食はほとんど毎日ここなんだ。むしろ、ミラさんたちがここにいることの方が驚きだよ」
その言葉を聞いて、トリアは苦笑いを浮かべるしかなかった。確信は深まった。ミラとセラは、ユダが必ず現れると知っていて自分をここに連れてきたのだ。
「……きっと、ミラさんが言った通り、新しい雰囲気を楽しみたかったんでしょうね」
トリアは静かに返した。
会話がほぐれ始めた矢先、ユダの表情が不意に変わった。穏やかだった視線が鋭く細められ、レストランの隅の一点に釘付けになる。
眉を寄せ、怪訝そうに首を傾げた。
「あれ……どうして二人はあんなところに座っているんだ?」
トリアも反射的に体を捻り、彼の視線を追った。そして、遠く離れたテーブルに広がる光景に、目を見開いた。
トイレに行ったはずのミラとセラが、別の席にちゃっかりと座っているではないか。いつの間に注文したのか、新しい飲み物を手に、この上なくリラックスした様子だ。
二人はトリアたちの視線に気づくと、ミラが楽しげに小さく手を振った。その顔には、隠しきれない悪戯な笑みが浮かんでいる。
「僕が来たから席を移動したのかな? せっかくの時間を邪魔してしまったようで、申し訳ないな」
ユダが申し訳なさそうに声を落とした。
トリアは深く溜息をつき、胸の内に広がる呆れを抑え込もうとした。こめかみを軽く指先で押さえる。
「いいえ、ユダさん。あなたのせいじゃありません」
「じゃあ、どうして彼女たちは?」
トリアは諦めたように頷き、二人の予測不能な行動を理解してほしいという眼差しをユダに向けた。
「あの人たちは……ただの悪ふざけです。今、何を考えているのか、私にもさっぱり分かりません」
読んでくれて、ありがとう。
ミラとセラの「作戦」、成功したでしょうか?
照れ屋なユダさんと、それに振り回されるトリアさんのやり取りを楽しんでいただけたなら嬉しいです。
「二人の今後が気になる!」という方は、ブックマークやコメントで教えてくださいね。皆さんの反応が、私の執筆モチベーションになります。
また次の章でお会いしましょう。




