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第19章 予期せぬ気遣い

 サヌールの街が、少しずつ肌に馴染み始めていた。オフィスの窓から差し込む朝の光は、もはやトリアの瞳にとって見慣れぬものではなくなっている。シャニアの家からアルカディア・プライムのビルへと続く道のりも、今ではすっかり覚えてしまった。


 一週間という時間は、瞬く間に過ぎ去った。トリアは管理部門の仕事のリズムに、完全に溶け込んでいる。サヌールという場所が、自分を温かく迎え入れてくれる第二の故郷のように感じられていた。


 事務システムの操作も、今では手慣れたものだ。キーボードの上を指先が軽やかに跳ね、正確にデータを打ち込んでいく。その手際の良さは、周囲の同僚たちからも頼りにされるほどだった。


 それもこれも、常にエネルギッシュで活気に満ちたミラの指導があったからこそだ。ミラは、トリアにプレッシャーを感じさせることなく、効率的に報告書を仕上げるためのコツを惜しみなく伝授してくれた。


 一方で、セラは複雑で混乱しがちな社内の官僚的な手続きを、根気強く説明してくれた。システムの不具合に直面したときも、彼女はいつも自分の時間を割いてトリアを助けてくれた。


 キャリアの再出発において、煩わしい人間関係のトラブルに巻き込まれることなく仕事に集中できていることに、トリアは深い感謝を抱いていた。


 仕事に追われる二日目の合間を縫って、トリアはようやくジョグジャカルタの両親に電話をかける勇気を振り絞った。シャニアやサンティとあらかじめ練り上げておいた「突然の異動」というシナリオを、彼女は慎重に演じきった。


 両親は最初、その知らせにひどく驚き、戸惑っていた。トリアは、これまでの勤務態度が非常に高く評価され、急遽サヌールでの人手が必要になったのだと、もっともらしい説明を付け加えた。


 嘘をついているという罪悪感が、鋭い痛みとなって胸の奥を刺した。それでも、次第に落ち着きを取り戻していく母の声を聞いて、トリアは安堵のため息をついた。母は、新しい土地でも健康に気をつけ、祈りを欠かさないようにと優しく諭してくれた。


 両親からの純粋な励ましは、トリアにとって何よりの活力となった。このバリの地で必ず立ち直り、より良い人生を歩んでみせる。彼女は心の中で、自分自身にそう強く誓った。


 ***


 コンピューター画面の右下に表示された時刻は、午後十二時十一分を指していた。昼休みが近づき、オープンスペースの執務エリアには少しずつ弛緩した空気が流れ始める。デスクを片付け始める社員たちの姿もちらほらと見受けられた。


 トリアが画面上のデジタル文書を整理していると、ふいにデスクの傍らに影が落ちた。顔を上げると、そこには穏やかな表情を浮かべたユダが立っていた。


「例の件、送ってくれたか?」


 ユダが問いかける。トリアはすぐに彼が求めていたファイルを探し出した。社内メールでその文書を送信すると、隣に立つ彼に向かって短く告げた。


「今送ったわ、ユダさん。受信ボックスを確認してみて」


 トリアは一瞬モニターに目を戻してから、再びユダを見上げた。ユダは小さく頷き、その唇の端に、どこか誠実さを感じさせる微かな笑みを浮かべた。


「助かる。ありがとう、トリア」


 しかし、ユダはそのまま立ち去ろうとはしなかった。自分の部屋へ戻る代わりに、彼はその場に留まり、アプリケーションを閉じ始めたトリアの様子をじっと見守っていた。


 ユダは少しだけ頭を下げ、気遣わしげな眼差しをトリアに向けた。軽く咳払いをすると、先ほどよりも少しだけ親密な響きを含んだ声で、彼は再び口を開いた。


「トリア、昼食をあまり遅らせないように。仕事は後でもできる。君の健康のほうが、その報告書の山よりもずっと大切だ」


 その柔らかな口調に、トリアは一瞬呆気に取られた。それからふわりと微笑み、彼に向かって小さく頷いた。


「ええ、わかってるわ、ユダさん。仕事ももうすぐ終わるし、少し片付けたらすぐに行くから」


 トリアが落ち着いた声でそう答えると、ユダはどこか落ち着かない様子で片手をズボンのポケットに突っ込んだ。彼は何かを言い淀むように、数秒間沈黙した。


 頭の中で何かを思案しているようだった。部屋の隅にある大きな窓に視線を泳がせた後、彼は意を決したようにトリアを真っ直ぐに見つめ直した。


「今日は……誰と昼食を?」


 その声には、微かな躊躇いが混じっていた。


 トリアは思わず、くすりと小さな笑い声を漏らした。普段の冷静沈着な彼からは想像もつかないような、どこかぎこちない態度が可笑しかったのだ。


「誰って、管理部の二大美女、ミラとセラに決まってるじゃない」


 その答えを聞くと、ユダは納得したように何度も頷いた。その顔に一瞬だけ安堵の色が浮かんだが、同時に、これ以上彼女と会話を続ける口実を失ってしまったような、寂しげな表情も見え隠れした。


「ああ、それなら安心だ」


 ユダは礼儀正しく会釈をして、別れの合図を送った。そして、規則正しい足取りで自分の執務室へと戻っていった。


 ユダの背中が廊下の角に消えた瞬間、トリアへの「攻撃」が容赦なく開始された。


 今までモニターを凝視して忙しいふりをしていたミラとセラが、突如としてトリアのデスクを包囲したのだ。二人の顔には、何とも言い難いニヤニヤとした笑みが浮かんでいた。


 口火を切ったのはミラだった。彼女はトリアの方へ身を乗り出し、悪戯っぽく目を細めて声を潜めた。


「トリア、正直に言いなさい。あなたとユダさん、本当はどういう関係なの?」


 ショルダーバッグを整理していたトリアは、思わず肩を跳ねさせた。一気に顔に血が上り、頬が熱くなるのを感じる。


「関係って……何の関係もないわよ、ミラさん」


 動揺を隠そうと早口で答えるトリアに、ミラはゆっくりと首を振った。胸の前で腕を組み、トリアの答えを吟味するように見つめる。


「おかしいわね。私、ここで二年働いてるけど、ユダさんがあんな風に他のスタッフを気遣うところなんて見たことないわよ。わざわざ昼食の心配までしに来るなんて」


 今まで黙って聞いていたセラも、ミラの言葉に深く頷き、トリアを追い詰める。


「ミラの言う通りよ、トリア。ユダさんのあの態度は、ただの同僚に対するものとしては明らかに一線を越えてるわ。あんなに堅物な人がね」


 セラの静かだが鋭い指摘に、トリアは必死に首を横に振った。声を震わせないよう、細心の注意を払う。


「もう、二人とも考えすぎよ。私たちはただの友人。本当に、それ以上の何でもないんだから」


 トリアは椅子から立ち上がり、きっぱりと言い放った。そしてバッグを掴むと、二人を促すようにデスクを離れた。


「さあ、行きましょう。ここで油を売ってたら、休み時間が終わっちゃうわ」


 話題を逸らそうとするトリアの様子を見て、ミラとセラは楽しそうに声を上げて笑った。三人は連れ立って、廊下の突き当たりにあるエレベーターホールへと向かった。


 誰もいないエレベーターに乗り込んだ途端、ミラが再び追い打ちをかけた。


「友人、ねえ? でも、この一週間ずっと送り迎えをしてくれてる友人がどこにいるのかしら?」


 ミラはトリアの顔を覗き込み、意地悪な視線を送る。トリアは深い溜息をつくしかなかった。同僚たちの鋭い観察眼の前に、完敗を認めるようにエレベーターの壁に背を預けた。


「……好きに言えばいいわ。でも、もう一度言うけど、私たちの間には本当に何もないんだから」


 トリアの投げやりな言葉は、ミラとセラの明るい笑い声にかき消されていった。


 デスクでの甘いやり取りから、エレベーター前での冗談に至るまで、そのすべてを遠くから見つめている人物がいることなど、彼女たちは知る由もなかった。


 マーケティングエリアの隅で、ユニは腕を組んで立っていた。その瞳は、今しがた閉まったばかりのエレベーターの扉を、射抜くような鋭さで見つめている。


 完璧に整えられたはずの彼女の表情は、今や醜く歪んでいた。奥歯を噛み締め、胸の内にどろりとした嫉妬の炎が渦巻くのを必死に堪えている。


 長年ユダの関心を惹こうと躍起になり、そのたびに冷たくあしらわれてきたユニにとって、今目にした光景は耐え難い屈辱だった。


 トリアが働き始めてからというもの、ユダの態度は明らかに変わった。普段は近寄りがたいほど厳格で事務的な彼が、トリアの傍にいるときだけは、あんなにも甲斐甲斐しく、気遣いに満ちた男に変わる。


 それどころか、ユダがトリアと話すときに、どこか落ち着かず、ぎこちない様子を見せているのを、ユニは一度ならず目にしていた。そんな姿、彼はこのオフィスのどの女性にも見せたことがなかったというのに。


 最初は小さな芽に過ぎなかった嫌悪感が、ユニの心の中で深く根を張り始めていた。トリアに惜しみなく向けられるユダの微笑みが、自分のプライドを切り刻んでいく。


 ユニは深く息を吸い込み、ブラウスの袖を強く握りしめた。トリアという存在は、単なる新しい事務スタッフではない。ユダの心を射止めるという自分の野望を脅かす、最大の障害なのだと確信していた。


お読みいただき、ありがとうございます。

オフィスの日常にも、少しずつ色づき始めたトリアの物語。

ユダの優しさと、仲間たちの温かい(そして少しうるさい)視線に、ほっこりしていただけたなら幸いです。

「次はどうなるの?」と感じてくださった方は、ブックマークやコメントをいただけると嬉しいです。あなたの反応が、次の章へのエネルギーになります。

また次回でお会いしましょう。

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