第18章 癒えぬ傷跡
トリアは立ち止まり、木陰に並ぶ車列をじっと見つめた。バッグのストラップを握る指先に、わずかな力がこもる。胸の奥に、言葉にできない重みが居座っていた。
「本当に申し訳ないわ、ユダさん。ここからタクシーを呼ぶから大丈夫よ」
トリアは消え入りそうなほど柔らかな声で言った。
「それに、さっき急ぎの報告書があるって言っていたでしょう? 私の些細な用事で、あなたの仕事を邪魔したくないの」
ユダはすぐには答えず、ただ穏やかで誠実な微笑みを浮かべた。
「実は、あの報告書はさっきユニに言ったほど急ぎじゃなかったんだ、トリア」
低く、嘘偽りのない声が鼓膜を震わせる。トリアは少し首を傾げ、困惑したように眉を寄せた。
「ただの口実だよ。不必要なコーヒーの誘いを断りたかっただけなんだ。今は誰とも、どこかへ行く気分じゃなくてね」
ユダはズボンのポケットからスマートフォンを取り出し、何かを思い出したように画面を操作した。
「一つ、秘密を教えようか。実は今朝早くに、シャニアさんからメッセージが届いていたんだ」
その言葉に、トリアの目が見開かれた。シャニアが自分のためにそこまで根回しをしていたとは思いもしなかった。
「君をしっかり見守るようにって、念を押されてしまってね。無事に家まで送り届けるのが、僕に課せられた任務なんだよ」
トリアは数秒間、言葉を失った。深く息を吸い込み、シャニアからユダへ直接下された「特命」に、完敗を認めるしかなかった。
「……本当に、いいの? シャニアさんに言われたから、無理に付き合っているわけじゃないわよね?」
ユダは力強く頷いた。
「心からそうしたいと思っているよ。だから、もう気に病まないでほしい」
トリアはついに諦め、観念したように頷いた。先ほどまでの迷いは消え、唇の端に小さな、けれど確かな微笑みが宿る。
「……ありがとう、ユダさん」
二人は並んでロビーを後にし、建物の脇にある駐輪場へと向かった。ユダはゆったりとした足取りで歩き、トリアが歩きやすいよう自然に歩幅を合わせた。サヌールの海風が、少しずつ熱を帯びて木の葉を揺らしている。
バイクの前まで来ると、ユダはヘルメットを手に取り、トリアに手渡した。トリアはそれを受け取ると、きちんと被った。
エンジンの低い鼓動が静寂を破った。ユダはトリアが後部座席に落ち着くのを待ってから、ゆっくりとアクセルを回した。バイクは滑らかに動き出し、アルカディア・プライムの敷地を後にする。
観光客で賑わい始めたサヌールの通りを、バイクは風を切って進んでいく。トリアは後部座席で静かに風に吹かれ、ヘルメットから覗く髪が踊るのをそのままにしていた。
視線の先には、ユダの逞しい背中がある。彼は前方を凝視し、速度を一定に保ちながら慎重に運転していた。
トリアの唇に、無意識のうちに笑みがこぼれる。出会った時からの彼の振る舞いを思い返し、胸の奥に説明のつかない温かさが染み渡っていく。
(神様、ありがとうございます……)
ユダの広い肩を見つめながら、トリアは心の中で呟いた。
(世界が崩れ落ちそうだった時に、こんなにも温かい人を遣わしてくださるなんて。私をまた立ち上がらせるために)
端正な顔立ちだけでなく、心まで美しい人。トリアは認めざるを得なかった。ユダのような男性は、どんな女性をも安らぎで包み込んでしまうだろう。その一挙手一投足から、成熟した大人の余裕が漂っていた。
ふと、未来の光景が頭をよぎる。もし、いつか彼と友人以上の関係になったら――。
だが、その空想は長くは続かなかった。トリアは我に返り、あらぬ方向へ向かいかけた思考を振り払うように小さく首を振った。
弾んでいた表情が、一瞬にして曇った。胸の奥底から、冷たい不快感が這い上がってきた。
裏切りの恐怖が、音もなく忍び寄る。ハルランに信じ切っていた心を粉々にされた記憶が蘇り、息が詰まるような感覚に襲われた。
(何を考えているの、私……)
トリアは自分を責めるように自問した。
(馬鹿ね。あんなに簡単に人を信じて、あんなに傷ついたばかりなのに。もう忘れたの?)
心の傷はまだ生々しく、新しい誰かを受け入れるにはあまりに深すぎる。ハルランに捧げた純粋な信頼の成れの果ては、今も彼女を縛り付けていた。
トリアは深く息を吐き、込み上げる痛みを押し殺した。ユダの背中から視線を逸らし、道沿いに並ぶ店並みをぼんやりと眺める。
バイクは緑豊かな並木道を通り抜け、やがてシャニアの家の前で速度を落とした。エンジンの音が静まり、完全に止まる。
トリアは慎重にバイクを降りると、ヘルメットを脱いでユダに返した。風に乱れた髪を指先で整えながら、真摯な眼差しを彼に向ける。
「本当にありがとう、ユダさん。今日はいろいろ案内してくれた上に、家まで送ってもらって……。お疲れ様でした」
ユダはヘルメットを受け取り、バイクの前に固定した。そして、親愛の情がこもった笑みをトリアに返した。
「どういたしまして。役に立てて良かったよ。でも、明日の朝のことは忘れないで」
ユダの声色が少し変わり、悪戯っぽく目を細めた。トリアは不思議そうに眉を上げ、彼の次の言葉を待つ。
「明日はアルカディアでの初仕事だ。寝坊して遅刻しないようにね」
冗談めかした忠告に、彼女は冗談めかして、右手をこめかみに当てて敬礼の真似をした。
「了解しました、ボス! あなたがオフィスに来る頃には、もうデスクで完璧にスタンバイしていますから」
弾んだ声に、二人の間に小さな笑い声が響いた。道中の重苦しい空気は、その一言でふわりと解けていく。
(彼、冗談も言えるのね……)
トリアは微笑みを浮かべたまま、心の中で思った。
笑い声が収まると、ユダは居住まいを正し、再びエンジンをかけた。別れの挨拶として、短く頷く。
「それじゃあ、僕はオフィスに戻るよ。まだ片付ける仕事があるから。また明日、トリア」
「ええ、気をつけて。また明日!」
トリアは走り去るバイクに向かって、小さく手を振った。
彼女はすぐに家の中には入らなかった。門の前に立ち尽くし、遠ざかっていくユダの背中をじっと見守る。
真っ直ぐな道の先で、バイクの影が次第に小さくなっていく。その姿が角を曲がって完全に見えなくなるまで、トリアはそこから動くことができなかった。
読んでくださり、ありがとうございます。
トリアの心の揺れ動き、少しでも共有できていたら嬉しいです。
ユダとの距離感、そして過去の傷。ゆっくりでいいから、前に進んでいけたらと思います。
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また次回もお付き合いください。




